間奏:ハト/平野/塩の柱(その5)
さて。
と言うことで。
そうして転調は続く。もう少しだけ。
物語の流れが、もともとのハ長調から螺旋を描いて上へとあがり、怒りと薔薇と土砂降りの痛みを浴びながら鉄橋へと渡り、新しいハ長調 (それはつまり、イ短調と重ね合わせのハ長調という意味だが)へと向かうかのように。
そう。
あなたの故郷にもあるだろうか? こんな子守唄が――「ああ、そうして船は往く」
*
山岸の家の祖母の家は、まさにいまが花の盛りであった。
いや、彼女の住む家は、いつでもそこが、いまこそまさに、花の盛りであった。
なぜならそれは、彼女がそう望んだから。
窓にはツタが、屋根にはフジが、戸口には白いユリと水色のアサガオが咲き、坂に面した裏庭では、彼女自慢のバラとヒマワリが、ケンカもせず、まるでくり返されるロンドでも踊るかのように、風に吹かれて舞っていた。
そうして、それはとても暑い、夏の日の昼のころであった。
山岸の家の祖母は、庭に置いた日よけの下にすわり、しろい、陽炎のようなだらだら坂を、見るともなしに眺めていた。
するとそこに、坂の下、あるいは上から、三人のひとが上がって来て、あるいは降りて来て、山岸の家の祖母の目前で止まるのが見えた。
「あら、まあ」
山岸の家の祖母は驚き呆れそうつぶやくと、その時ばかりは、まるで112歳の誕生日を迎えた老人のように腰を折り、曲げ、それから上げ、彼らの方へとはしって行った。
「どうぞ皆さん」彼らを手招きしながら、「そんなところにいたら暑いでしょう」そうして、
「どうぞ皆さん」と恐縮した様子で、「この日よけのしたでお休みください」
それから彼女は、家の中へと戻ると、ほの甘いカルピスと、うすい牛肉のはいった焼きパンを彼らに供した。彼らは訊いた。三人同時に、
「あなたの子どもたちはどこですか?」
山岸の家の祖母は応えた。
「息子らはもうこの地を離れ、孫のひとりが、この地におります」
が、これはもちろんウソであった。彼らは訊いた。続けて、
「ふかい愛を、抱けていますか?」
山岸の家の祖母は応えた。無言で。首を縦にふって。なぜなら言葉にすれば泣いてしまうから。彼らは続けた。
「ちかいは? 消えかけてはいませんか?」
山岸の家の祖母は応えた。もちろんこれも無言で。首を縦にふって。ほの甘いカルピスが、彼女に不思議を問い掛けながら。
「子供たちは、ちがう子供たちなのでは?」
しかしこれには、山岸の家の祖母は応えられなかった。沈黙が訪れた。
沈黙が、訪れた。
無限の空は青く、それでも恐れや怖さはなかった――「もしも、間違いに気づくことがなかったのなら」
山岸の家の祖母はそう言い掛け、彼らのうちのひとりが、それを遮った――「また、次の花の盛りの日に」
また、次の花の盛りの日に、この地にのこる孫のひとりは必ず、必ず彼女は、ちいさな女の子を、得るだろう、と――「しかし、」
しかしそのためには、お前のその孫は、ながいながいながい旅へと向かわなければならないのだが、と。
山岸の家の祖母はわらった――「いえ、しかし、それは」
いえ、しかし、それは。と、この地にのこる孫と、その恋人の顔を想い出しながら――「しかし、あの子は」
と突然、実によく晴れた夏の空に、いくつもの星があらわれた。
星たちはきらめき、山岸の家の祖母は、それまで感じたこともない、奇妙な感覚に囚われることになった。彼女は言った――「わたくしは、笑ってなぞはおりません」
しかし彼らはそれには答えず、不意に立ち上がると、その場を離れて歩き出した。
ほの甘いカルピスと、うすい牛肉のパンは、すでになかった。
「ご好意に感謝する」彼らは言った。みたび同時に。「貴女の、ご厚意にも」
空に現れた無数の星たちは、いつしか彗星となって昇り、彼らは坂を、何処かへと下り、あるいは上って行った。
それは、そこは、すでに暑い夏の日の夜で、昇った彗星たちは、今度は静かに、その芝生の上へと舞い降りていた。
それは、実にうつくしい光景であった。その場にしゃがみ込んでしまうほどの。
が、しかし、その光景を見ながら山岸の家の祖母は、このままでは自分はどうにかなってしまう。きっと気狂いになってしまう。なんとかしなければ、なんとかしなければ、なんとかしなければ、と、そう考えると、きっと家のどこかに居るであろう彼女の悪魔を呼び出そうとして――「不破さ――」
ぴいぃぃッ
とここで今度は、たかいたかいたかい空の上で鵯の鳴く声がし、山岸の家の祖母は、
「えっ?」
という自分の声とともに、我へと帰った。 そこは、いつもの花盛りの彼女の庭であった。
彼女は日よけの下に座り、しろい、陽炎のようなだらだら坂を見るともなしに眺めていた。
彼女自慢のバラとヒマワリは、ケンカもせず、再現ソナタの第二主題でも踊るかのように、風に吹かれて踊っていた。
彼女の前には、空になった三個のグラスと、三枚の器が、置かれていた。
それから彼女はあたりをうかがい、額に溜まった汗をぬぐった。
「不破さ――」彼女の悪魔を呼ぼうとしてそれを止めると腰を上げ、しっかりとした足取りで、彼女の庭の境界線まで行った。彼らの去った方角を、見定めるために。
が、しかし、そこに彼らの居た痕跡はなかった。山岸の家の祖母は想った。それでも、漠とした確信を持って――「きっと彼らは、西へと向かったのだろう」
(続く)




