第七話:あるものすべてはうつくしく。(その7.5)
「心配なのは」
山岸鷹士は言った。初対面の自分に謎の――でもないが――敵意を向ける、この若い編集者に対して、自分らしくないなと想いながらも、
「心配なのは、私を厳しくけなす人、私の過去や行為を指摘する人の方が正しくて、私の作品が実は、自分が想い込みたいほどの傑作でもなければ、真実を描いたものでもないことが分かることなんです」
それから彼は、問題の編集者――坪井南子の方に、ふたたび身体を傾き寄せると、静かに、はっきりと、ただし、彼女にしか聞こえない声で、「さきほどの」と言って続けた。
「さきほどの、樫山先生にしてしまったことは、こころから反省し、謝罪します」――また、あなたが彼女を、どれほど大切にしているかもわかりました。「ただ――」
そう言い掛けて鷹士は、ほんの一瞬だけ、きっと誰にも分からないであろう一瞬だけ、反対の席に座る彼の妹――いや、もう、ただの“まひろ”でいいだろう――彼のまひろの方を見た。それからふたたび、
「ただ、」そう続けようとして、「ただ、その……」と言葉に詰まってしまうことになった。
すると彼の、まるで思春期の男の子のような様子に坪井は――果たして彼女に、どこまでのことが分かっていたのかは、それこそもちろん謎であるが――クスリと笑うと、
「そうそう、そう言えば写真は? 写真はもう見ましたか?」
ワザと向かいのふたりにも聞こえる声で言った。彼女なりに鷹士を救おうと、助けようと、話題を変えようとしたのである。
「写真?」鷹士が訊き返した。向かいのふたりもこちらを向いた。
「まひろさんから聞いてません?」坪井は続けた。膝に置いたショルダーバッグからスマートフォンを取り出して、「おふたりの結婚式のですよ」
「えっ?」と鷹士はおどろき、
「ちょ、ちょっと南子ちゃん」テーブル向こうのヤスコは叫んだ。「だめ、だめ、その写真だけはやめて」
「だーめーでーす」おどけた調子で南子は言った。まるで魔法にでもかかっているかのように、「ほらほら岳井先生、特別ですよー」彼に写真を見せながら、「うちの編集長にも見せていないんですからー」
それは、ひと組の、わかい、幸福そうな、新郎新婦を写した写真であった。
例えそれが、にせ物であっても、例えそれが、秘められた誓いであっても。
それは、ひと組の、わかい、幸福そうな、新郎新婦を写した写真であった。
「つい先日、結婚相談所への取材があってー」編集者は続けた。「プロのカメラマンさんが撮ったのはまだ調整中なんですけどー」それがまるで自分の手柄でもあるかのように、「個人的にはー、このスマホで撮った写真の方が気に入っていてー」そうしてとても、誇らしげに。
そう。
それはたしかに、彼女の言うとおりであった。
構図も雑なら背景の処理もされてなく、肝心の新郎新婦もぎこちないこの写真は、それでも、
「どうです? びっくりするほどキレイでしょ?」
そう彼女の言うとおり、そこに写るドレス姿の花嫁は、まるで永久に凍り付いた白バラのようなうつくしさをほこっていたし、
「で、で、この、まひろさんのフロックコート姿には、居合わせたスタッフ一同めろめろにされてしまいましてー」
彼女のとなりに立つ新郎は、腹が立つくらい見事に、まるでその役割を担うためだけにそこにいる者のように見えた――花嫁のとなりでその表情はかたく、照れ切っているのは確かだったが、それでも。
「ね、ね、どうです? ステキでしょ?」と編集者は訊き、
「あ、ちょ、鷹士さん、あんまりしっかり見ないで下さい。恥ずかしいんで」と花嫁は照れていたが、「南子ちゃん、もう、それは消して」
「ハハハハハッ」と男はわらった。大きな声で、「いやいやいやいや、キレイですよ、樫山先生」
が、それは、写真の中のぎこちない新郎新婦や、写真に照れる目の前の女性に対してではなく、過去の自分や、過去の妹の亡霊に対してであった。
「まひろ」男は続けた。彼の家族に向かって、「緊張し過ぎじゃないか? これは」こみあげて来る笑いとなみだを、どうにか抑えようとしながら、「いくら樫山先生がキレイだからってな」――彼女のことを好きなのがバレバレだぞ、と。そうして、
「なるほどなあ」と、残りのウィスキーをひと息に飲み干してから、「たしかに樫山先生は、お前にふさわしいのかもな」それから軽く首を振り、過去を断ち切り、「それよりお前が、彼女にふさわしいヤツにならないとな」
*
さて。
それからしばらくして彼らは、時計が深夜を打つ前に、そっとみんなで店を出た。それぞれの居るべき場所、居るべき時間へ戻るために。
もちろん坪井は、まひろを手伝うため、樫山家に一度立ち寄ったし (まるっきり朝型のヤスコの睡眠タイマーが、急にオンになったのである)、鷹士は鷹士で、ホテルに戻る前にコンビニで、ビールと軽いつまみを買いはしたのだが。彼が今夜の過ちを、まひろに告白したかどうか、するかどうかは…………いや、これも、彼らだけの秘密にしておこう。そうして――そうして彼はどうしたか?
そう。
そうして鷹士は、自身の小説を読み返してみることにした。手始めに、『あるものすべてはうつくしく。』を――そうして?
そう。
そうして彼は驚いた。その象徴的な遁辞と、未完成と言ってよいほどの装飾の多さに。
そう。
彼が、彼の妹を愛していたのは確かだった。
それは、彼の昔の恋人や、樫山ヤスコなる貧乏小説家が見透かしたとおりだった。
読む人が読めば、それは明らかだった。笑ってしまうぐらいに。が、ただし。
「ただし、」と鷹士はひとりつぶやく。「ただしこれは、この小説を書いた時点の俺とあいつだな」
そう。
世にあるすべての小説と、世にいるすべての小説家が未完成であるのと同じように――仮に完成された小説や小説家が存在したとしたら、それは結局、未来に開かれていない、ただの文字の塊、魂の抜け殻になってしまうだろう――彼の小説も人生も、まひろとヤスコの物語と人生だって、要はみな、未完成なのである。
*
『どうでした? 読み返してみて』
ある秋の日の夕暮れ、ある間抜けな編集者は鷹士に訊いた。ただし、結局彼女は、エージェント絡みの問題で彼との契約まで漕ぎ付けなかったので、業務としてではなく、あくまで私用の電話でだったが。
鷹士は、先ほど私が書いたようなことを彼女に伝えると、「全体として」と言って続けた。
「全体として私は、まったくの他人の、完成したばかりの原稿を読まされたような感じになりましたよ」
そうして、そのまったくの他人に、感動させられもしたのだ、と。
「彼の小説には、不思議な輝きがあった――拙いながらもね」
それはまるで何かのクリスタル――螺旋の弧をえがく一疋のホタルを閉じ込めたような、そんな自然の結晶体――のようにも見えたし、海岸線に打ち上げられた無数の、瓶詰の古い手紙のひとつのようにも見えた、と。
『なるほどー』編集者は応えた。言葉の意味も分からないまま、『なんだかそこから、新しいお話とか書けそうですよねー』――やっぱりどうにか、弊社で執筆をお願い出来ませんか?
「いやあ、それは、」鷹士は答えた。苦笑いで、「個人的には、坪井さんとはいつか組んでみたいとは想いますが」――エージェントから強く止められているんですよ。
『そっかー、残念ですー』編集者は言った。
「でも、いつかはあるかも知れませんよ」小説家は応えた。「未来がここまで未知とはね、私自身も知りませんでしたよ」
それからふたりは、取り留めのない近況報告をしてから電話を切った。
電話を切る直前、編集者が何気なく言った言葉を、彼はいまでも希望としている。
『岳井先生とヤスコ先生って、なんだかちょっと、似てるんですよね』
彼らの本質は、どちらもその小説の奥底で一貫しており、人々の抱えるイノセンスやそれが行き着く場所、その結末がどんなに残酷であろうと、決して歩みを止めず、やさしく、うつくしく、彼らを描き続けようとしているところにある。
『勇敢な人ですね、岳井先生も』
寓話と言ってしまえばそれまでだが、寓話には寓話にしか出来ない戦い方があり、それがきっと、それこそがきっと、
『きっとどこかの、どこかの誰かの、希望に変わっていくんでしょうね』
彼女はうたった、つたない声で。
『“あるものすべてはうつくしく。”』
おとこは応えた、かすれた声で。
「“そうして誰も、傷つかなかった。”」
(続く)




