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第七話:あるものすべてはうつくしく。(その5)

 清潔な――およそ都内にあるバーの中では最も清潔であろう――ダグウッドのバーのトイレにはいると、そこはずっと変わらない、この店のオーナーの誠実さと率直さ、それに親切心が壁のタイルのすき間にまで現れているような場所だった。


 ぱっと見たところ、ほかに使用している者はおらず、いますぐ誰かがはいって来る様子もなかった。


 そのため山岸鷹士は、まるで誰かを待つように、しばらくタイルの床の中央に立っていたのだが、外から聞こえる音楽と、若い女の甲高い話し声にふと我に返ると、自身の口が力なく開き、額には汗の玉がにじみ出していることに気付いた。


 まったく変わっていないと想っていた、願っていたこのバーにも変化――ながされる音楽やあつまる人々――以前はもっと男ばかりだったのだが――の波は来ているのだなと、自身の年齢を想い返しながら想った。


「変わらないのは、俺だけか?」


 それから彼はだしぬけに、すばやく身をひるがえすと、洗面台の鏡の前に立ち、向こう側の自分と目と目を合わせ、そらし、蛇口をひねり、水を出し、その水で顔を洗った。軽く、その後、丹念に。


 水は冷たく清潔で、部屋は明るく、かすかなレモンの匂いがした。


 アルコールの熱は、すぐに逃げて行ってくれたようだが――彼はその体質のせいで、真から酔っ払うということが出来なかった――消してしまいたい昔の熱は、ずっと身体にとどまっていた。


 ふたたび、鏡の向こうの自分と、目と目を合わせた。


「結局あなたは――」


 昔の恋人の、声が聞こえた。彼女が去り際に言った言葉が、想い返された。


「結局あなたは、ほんとのところ、まひろちゃんしか愛してないのよ」


 泣いている彼女を、まひろが慰めている場面――実際、そんな現実はあり得ないのだが――を想像した。いまのまひろではなく、彼の記憶の中にあるまひろが。


「どうぞ、頭をあげて下さい」


 先ほどの樫山ヤスコの言葉が想い返された。


「まひろくんも、ちょっと興奮しただけでしょうし――ね、まひろくん?」


 あの女性はきっと、自分の別れた恋人と同じ目を持っているのだろう。


 どこまで気付いているのだろうか?


 まひろと繋いだ彼女の手に彼は…………いや、たしかに、これは嫉妬だろう。


 そう、山岸鷹士は想った。


     *


 ヤスコたちのテーブルには飲み物のほかにナッツのはいった小皿がひとつと、ドライフルーツの皿、それに灰皿がひとつ置かれていた。


 灰皿の横には、鷹士の煙草とライターが置かれていたが彼は、彼女たちに合わせ吸うのは控えていた。


「名前を明かすわけにはいかないの」


 突然、ヤスコの脳裏に、口紅のついたタバコの吸い殻と、小説の中でしか会ったことのない女性の顔がうつった。声は続けた。


「だけど私が、いわゆる物書きって人種を軽蔑してるって、そのことだけはおぼえておいて欲しいの」


 それは、鷹士の小説に出て来る女性の声だった。彼女は続けた。


「特に、頭の中だけで色々考えてる連中をね」新しいタバコに火を付けながら、「あーゆー連中が、世界を滅ぼすのよ」


 それから彼女は、反論として鷹士が挙げたある小説家について、


「そうね。確かにいい人だとは想うわよ」そう言って答えた。「あなたに借りた本を読む限りでわね」


 この世界の善いところも悪いところも、きっとその作家の本を読めばすべて書いてあるのだろう。だけれど、


「だけれど、もう、それだけじゃ足りないんじゃない?」


 彼女のタバコは既に三分の一が灰に変わっていた。彼女のグラスは既に死んでいた。気泡がうかび上がる余裕もないくらいに。


「きっと私は、そしてあなたも、あんなんじゃない、もっとすてきな新しいウソ、すべての物事のつじつまが合うようなそんなウソ、みんなが幸せで、不安を感じなくてもすむようなそんなウソ、そんなウソ吐きの物語を求め――必要としているんじゃない?」


 彼女はきっと、少女時代のまひろなのだろう。と、樫山ヤスコは想った。実際のまひろはタバコも吸わないし、こんな言葉づかいや態度は取らないだろうが、それでも、


「そうしないと、みんな、生きていくのがたまらなくなってしまうわよ」


 そう続ける彼女は、きっと鷹士の中のまひろそのものなのだろう。


「それが出来れば、この世界もきっと、すこしは生きていく価値が――」


 ブブブッ。

 ブブブッ。


 とここで突然、彼女の記憶を止めるように、カバンの中のスマートフォンが鳴った。ヤスコの編集者の坪井南子だった。


「まひろくん、ごめん」ヤスコは言った。「ちょっと電話して来ていい?」


 そろそろ鷹士が戻って来そうな時間で、彼女はそれを心配していたが、


「え、あ、はい」まひろはすぐに答えた。とくにまよう様子もなく、「お仕事ですか?」


 その頬と耳には、先ほどの赤みがまだほんのりと残っていた。


「うーん?」ヤスコは応えた。「とくに用事も締め切りもなかったハズなんだけど」そんなまひろの頬と耳を愛しく想いながら、「こんな時間にかけてくるような子でもないんで、念のため」そう言って、ゆっくり席を立った。


     *


『あ、もしもしー、ヤスコ先生ですかー? 坪井ですー、坪井南子ですー、ってわざわざ言わなくても着信で分かるとは想うんですけどー』


 と、電話を取った瞬間、店内に響かんばかりの音量で坪井はしゃべり始めた。とても電話の向こうにいるとは想えないほどの大きさだった。そのためヤスコは、


「ちょ、ちょっと、南子ちゃん」と、周囲の目線を気にしつつ答えた。「場所変えるから、すこし待ってて」


 それから彼女は、店奥の手洗いの方を見、そこに先ほど鷹士が向かって行ったことを想い出すと方向を変え、出口扉の方へと向かって行った。スマートフォンの向こう側では、引き続き坪井があれこれと大声でしゃべっていたので、そのスピーカーを手で押さえながら。


     *


「もしもし?」やっとヤスコは応えた。うす暗い店内から表通りの明るい照明に少し目まいを覚えながら、「なにかあったの? こんな時間に」


『「なにかあったの?」じゃないですよ、ヤスコ先生』坪井は応えた。ひき続き、遠慮のない音量で、『岳井先生と飲むなら、なんでひと声かけてくれなかったんですか?』


 ヤスコは驚いた。鷹士と会うのは昨夜とつぜん決まったことだったし、他に知っている人間といえば詢吾くらいだったからだ。だが、


『編集長ですよ、本田編集長』と続ける南子の言葉に妙に納得もした。『どっから聞き及んで来たのかは知りませんけど、まさかまひろさんと岳井先生がご兄妹とは――』


 なるほど。あの人の情報網さえあれば――いや、なんなら昨夜のテレビ番組だけからでも――彼女の直感と推理力は、鷹士とまひろの関係と今日の我々の顔合わせを導き出すかも知れない。知れないが、


「それでもごめんね、南子ちゃん」ヤスコは応えた。「今日はあくまでプライベートで」――鷹士もまひろも困るだろうから、と。


『そこをなんとかお願いしますよ』しかし坪井は譲らず続ける。すこし泣きそうな声で、『ほら、うち、岳井先生との繋がりないじゃないですかー』――編集長から「最低でも名刺」との厳命を受けてしまったのだ、と。『こんなことでもない限り、あーんなベストセラーの先生とお近づきになれるチャンスなんてないじゃないですかー』


 たしかに。鷹士はあまり外には出て来ない作家で、執筆契約もほぼ一社が独占、編集者としてはぜひ会っておきたいのだろうが、


「いや、でも、ほんとゴメンね」とヤスコは応える。坪井に同情はしつつも、「一応、本田さんと南子ちゃんの名前だけは伝えておくからさ」いま、この状況でさらに人が増えるのは正直つらい。「ほんと、ゴメンね」


『え? でも私、もうすぐそちらの――』


 プツン。


 と、ここでヤスコは電話を切った。最後の坪井の言葉がすこし気にはなったが、そのことについて考えるよりも早く、今度は、


 カチャリ。


 と、お店の出口扉が開いて、男がひとり、彼女に声をかけた。「すみません、通してもらえますか?」


「あ、すみません」扉の前から離れながらヤスコはそちらをふり返った。「あれ?」


 しかし、そこにいたのは鷹士だった。


 なんだか少し、想い詰めたような顔をしていた。



(続く)

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