第七話:あるものすべてはうつくしく。(その3)
さて。
先にも書いた通り、山岸鷹士の『あるものすべてはうつくしく。』は、読者や批評家連中に温かく迎え入れられたし、そのおかげで彼は、所謂「作家」の仲間入りを果たすことも出来た。
が、しかし、そんな鷹士の好意的な読者・批評家、いや、彼の小説に最大限の敵意を示した読者・批評家でさえ、問題のヴェールのこちら側にあるもの――彼が影響を受けたであろう作家や映画や社会的事件など――を使ってでしか、この小説を理解・評価することは出来ていなかった。
「彼の文体は、アメリカ南部の作家たち、特に〇〇〇〇〇〇や※※※※※※※の影響を強く受けており、そこに彼独自の東南アジア的思想を――」云々。
「彼の『あるものすべてはうつくしく。』を読む上でブロンテ監督の『ローカル・カラー』と『密告』は観ておく必要があるだろう。何故ならこのふたつの映画には――」云々。
「最後の章で描かれる地下室の火災は、2007年に韓国で実際に起きた※※事件がモチーフにされており――」とか、云々かんぬん。
が、であるにも関わらず、これらの言説は、鷹士自身が物語の中心部分――いちど見てしまったヴェールの向こう側――をすっかり忘れた、あるいはふたたび見えなくなってしまったがために、作者からの反論を受けないばかりか、
「なるほど、たしかにそうかもな――」
と、明確な賛意――とまではいかないまでも、「否定のない肯定」という感じに受け取られ、それを聞いたファンやメディアがそれを受諾し拡散、なかば通説化される形にすらなっていた。
そうしてこれは、当の鷹士本人にとっても、出来れば忘れたい、目をそらしたいヴェールの向こう側から、読者の目も自分の目もくらましてくれる効果があったため、無意識かつ積極的に、取り入れられることにもなった。
が、しかし、そんな状況であったにも関わらず、これも先ほど書いたことだが、彼の昔の恋人のひとりは、彼がその小説で実際に何を書いたのか、ヴェールの向こうで彼が何を見て来てしまったのかを、はっきりと見抜いてしまってもいた。
そうしてそのため――なぜ彼女がそれを見抜くことが出来たのか? 鷹士を本当に愛するが故か、それとも、もともとそのような目を持つ女性だったのかは分からないが――その恋人は、鷹士の下を去ることになるのでもあった。
「結局あなたは、」
部屋を出て行く前の晩、彼女は鷹士にその理由を説明してくれた。
その内容は鷹士を驚かせたが、と同時に彼を深く納得もさせていた。
そうして、その言葉は彼に彼女のことを、
「やはり、かしこい、いい女だな」そう想わせることにもなった。「とにかくよく、ひとを観ている」
まるで、冷静な観察者のようだ、と。
そう。
そのため今回鷹士は、まひろと再会したときに、そうして、その恋人が物書きであると知ったときに、また、その物書きが書いたいくつかの文章を想い出したときに、彼は、スッと、しずかに、だれにも気付かれないように、自分でも驚くほど自然に、警戒態勢に入ることが出来た。
「この女性の目は、あの女と同じ、観察者の目なのかも知れない」
そうしてこの物書きは現在、自分の妹の恋人でもあるのだから、と。
*
「先生のご著作で私が一番こころを打たれたのは――」
鷹士の樫山評は続いていた。前の席にすわるふたりが、腰を引いてしまうくらいの熱量でもって。
「あの物語の最後で、それまで緻密に繊細に編み上げていた文体を先生は、主人公の感情に合わせるかのように、見事にすべて壊されていますが、これは――」
その様子はまるで、彼がヤスコの熱心なファンのひとりでもあるかのごとく彼らに錯覚させるものでもあったのだが、実際これは、半分まちがっており、半分あたってもいた。
「本来、イノセンスというものは、いちど失われてしまうと、それを取り戻すことはできません。だからこそ、それが失われた後の登場人物たちは世界を――」
たしかにこれは最初、自身のヴェールの向こう側をヤスコに探らせないための、世辞・追従・おべんちゃらのようなものであった。
「しかし、そこで先生は、冷静な観察者である立場からは絶対に離れないよう務めながら、と同時に――」
なのでもちろんこれらの言葉は、彼が読んだことのある、決して多いとは言えない、うろ覚えの、記憶の中のヤスコの小説を、どうにかこうにか掘り起こし、想い起こして繋げているだけのものだったのだが、
「そうして主人公たちを待つのは、この現実に限りなく近い世界――美しいイノセンスをすべて冷たい土の下に葬り去ってしまった――」
しばらくして鷹士は、目の前の女性――自分がペラペラペラペラと、その作品を褒めたたえている女性――が彼から目をそらし、テーブルの上の炭酸水を見つめたまま顔を赤くしていることに気付いた。そうして、
「しかし、先生はここで彼女たちに……」
と、いきおいが付きすぎていた自身の声と表情をすこしずつ落とすと、
「かならず……、なにかしらの……、ささいな……、奇跡とも呼べるような……」
それからそのまま、彼女のとなりに座る彼の妹に、
「しゃべり過ぎか? 俺?」と訊いた。
すると彼の妹は、大きく目を見開いたまま、無言で、そのちいさな顔を、ゆっくり縦にふった。
「しゃべりすぎ」彼女は応えた。すこし怒って、「このまま口説き始めるのかと想った」そのままヤスコの手を取って、「ごめんね、ヤスコさん。このバカ兄貴、こーゆーとこあるけど、ただただホントに、女ったらしなだけだからさ」
ヤスコの顔が、さらに赤くなっていくのが分かった。そのため鷹士は、
「あ、いや、もちろん。樫山先生に対してそんな気は」そう言い掛けたが、
「いいから」と、今度はホントに怒るような口調でまひろがこれを止めた。「こんど僕の恋人を口説くような真似したら、兄さんとはきょうだいの縁を切るからね、一生」
すると、この言葉に鷹士は、ヴェールの向こう側から離れたことによる安堵と、またそれと同時に、いま必死で想い出した樫山ヤスコなる小説家の、決して巧みとは言い難い文章に惹き付けられている、もうひとりの自分を感じ始めてもいた。
熱心なファンになったと言えばウソになるが、それでも、彼にとってとてもこころ惹かれる女性――いや、作家であることに変わりはないようであった。
(続く)




