第六話:聖母教会の円屋根(その6)
さて。
山岸まひろの一番上の兄・富士夫の一家が現在暮らしている山岸の家は、元々が彼の祖父のもの (と伝えられているもの)で、それを彼の父が引き継ぎ、まひろを含めた山岸きょうだい――兄三人にまひろ――も、生まれたときからそこに住み暮らしていた。
二番目の兄・鷹士は、小さい頃から父や兄との折り合いが悪く、高校卒業を機に家からも町からも遠く離れてしまい、いまは彼らに会いに来ることもない――というのは、前にも書いた。
三番目の兄・茄夫は、大学時代に知り合った女性とともに、彼女の実家がある千葉県勝浦市へと移り、いまはそこで暮らしている。
富士夫の結婚と前後して突然、彼らの両親は八王子市郊外へと転居、田畑を買い求め、農業振興がどうの晴耕雨読がどうのと訳の分からないことを言いながら、要は農家の真似事みたいなものを始めた。
が、もちろんこれは、先祖代々の山岸の家の財産・資産 (と伝えられているもの)があったから出来ただけのことで、およそ農業だけで彼らが食っていけるはずもなかった。
そのため山岸の父は、転居後の数年間も、富士夫がひとりで立てるまで、その八王子のボロ屋から、週に二・三度はメールやファックスで、二週に一・二度は直接富士夫を訪れて、彼に自身の商売その他を引き継ぐと、その利益のいくばくかを、自分たちの生活費にまわせるようにした。
「お前も結婚したのだから、今まで以上に仕事に集中出来るだろう」
と、父は昔気質に、あるいは自身がその父や祖父から言われたように (と彼の記憶にあるように)、富士夫に伝えていた。
もちろん。このような父の態度や方法に、富士夫も当初は想うところがあったようだが、それでも、生来の気質と、当てにならない弟たち、それに自分が背負わなくてはいけなくなった美しい女たち――妊娠が分かった新妻と、いまだ危うさの残る年の離れた妹――等々のことを考えると、家長としての責務とやる気を想い起こし、より一層仕事に集中、家を空けがちになった。
*
と言うのが、まひろの周辺情報を集めていた津田なつきが、これまでに入手した山岸家の、特に長男・富士夫に関する情報である。
もちろん。前述の「年の離れた妹」の部分は、彼女の記憶にはいる時に勝手に、「年の離れた弟」へと変換されているワケだが、逆に、その取り違えたままの状態で、これらの情報を、なつきは想い返してしまったので、彼女は、先ほどのヤスコとの電話で感じた三つの違和感、その三つ目の違和感、どうしても見過ごせない、袖口についたちいさなトゲのような違和感を、想い出すことにもなったのであった。
『彼が、お兄さまの家を出ることになった理由などは、なにかご存知でしょうか?』
と、東石神井台の、ほそく曲がりくねった路地を歩きながら津田なつきは、先ほどヤスコに訊いた問いを、自身にも立ててみようとした。
したのだが、ここで突然、
ト、ォオォオォォォォォォン。
と、彼女の背後で、なにか奇妙な、まるで比重を間違えた水銀のかたまりが、熱いアスファルトの上に降り立つような、そんな音が響いた。
そうして、その奇妙な音の響きに、恐怖を感じ始めた彼女が、うしろをふり返ろうとした。
その、一瞬のち、
コ、ォオォオォォォォォォン。
と今度は、その同じ背後から、なにか奇妙で、まるで白と黒をまちがえ反転させた鵯の鳴き声のようななにか、灰にしずむ街の最後の嘆きのようななにか、そんなような音にもならない音のような音が、暗く、暑い、夏の夜道にひびいて満ちた。
と、同時に、
「なんだ?」
と、それと近いどこか、そこに向かうはずの、しかしまったく見当違いの路地裏で、まっかな顔と黒いあごひげ、それになつきの数倍はするであろう身体をもつある存在の、おどろきつぶやく声がした。
「…………どこに消えた?」
(続く)




