第五話:But don't look back in anger.(その3)
冷蔵庫を開けると、そこには見事に、なにもはいっていなかった。
なのでヤスコは戸棚を開けると、ホールのトマト缶とあまったスパゲッティとずっと前に買っておいた特売のサバ缶を見付けた。
そのため彼女はいきおいで、トマトとサバの冷製パスタでも作ってやろうかとの算段を立てかけたのだが、炊飯器に残っている白いごはんと、いよいよ色を増して来る夏の日差し――この猛暑の中、麺を茹でるだけの余裕はない――それに、途中で止まってしまっている小説のことを想い出すと、おおきめの茶碗に冷たいごはんとサバ缶のサバを載せ、それにカウンターの白ごまを、パラパラパラとかけてから、ひとりきりのリビングへと移動した。
弟は今日も朝から江崎くんのところだし、我が家のネコも、散歩に出たまま帰って来ていない。麦茶を飲み、白ごまのついたサバをひとくち口に入れてから、テレビの電源を入れようとして、
『あたらしいホテルに移って四日目の朝、窓の下に、※※は彼女のすがたを見つけた。彼女は、裏切られ、傷つけられたものの激しさでもって、※※を見上げていた。』
と、止まってしまった小説のつづきを想い起こした。その手の中のリモコンを、元の位置に戻した。
『「らしいな。知ってるよ、すでに起きたことだもんな」』
先ほど聞いた少女の声が、右耳の奥でくり返された。続きを止めることが出来なくなっていた。
『最初かれらに声をかけたのは、少女の方であった。噴水の広場で、いつものように、金を持っていそうな外国人にタバコをねだって。』
しかし、○○は既にタバコを止めており、彼の分も合わせたつもりで※※が、胸ポケットにあった箱タバコの残りをすべて彼女に差し出してしまった。
『そうして彼は、完全に彼女に気に入られた。その付き合いは急激に深まって行った。』
付き合い?
リビングのカーテンが風にちいさく揺れるのを見ながら樫山ヤスコは、自分の選んだことばにちいさな留保と疑問符を付けた。
さきほど少女はこう言った。ヤスコに向かって、確かに、『「愛してたのは確かさ」』
胸と額に玉のような汗がうかんでいることに気付き、手もとのタオルでそれを拭うと、彼女は、扇風機の風がより当たるよう、すわる位置をすこし変えた。コップの麦茶を、ひと口すすった。
サバとごはんをすこし食べ、彼らと少女の“付き合い”のシーンを想い起こそうとした。少女の友情・好意が、いつ愛情へ変わったのか、そこが知りたかった。
『彼らのために名所を案内し、仲間たちに彼らを守るよう伝えた。安くて美味しい店を紹介し、外国人相手のあこぎな商売をする店主には、彼女みずから交渉人を買って出た。』
うん。
このあたりまでは間違いなく、彼女の※※さんに対する想いは、友情・好意の域を出てはいない。のこったサバに醤油をたらし、それを口に入れた。
『ある時、おなじ噴水のおなじ広場で、彼らとおなじ国から来たという、わかい婦人と※※が談笑しているところを少女は見かけた。かれらはこの数週間前に、たまたま列車でとなり合った仲なのであった。
もちろん、婦人にも※※にも、妙な気持ちの起こるはずもなく、彼らはただただ、異国を旅する同郷人として、会話を楽しんでいただけであった。』
が、それでもそれは、少女の気に食わなかった。
『少女は、ことを荒げるようなことはしなかったが、婦人が去って行くのに合わせるように、※※の前に歩み出ると、強引に彼の手を取り、広場から彼を避難させた。道々、会ったこともない婦人の過去と将来を、悪しざまに罵りながら。』
「これは?」
食事の手を止め、ヤスコはすこし考えた。
これは、明らかに嫉妬である。であるが、それはまるで、せっかく手に入れたおもちゃや、仲のよい兄弟をうばわれてしまうかも知れない恐怖によるものであって、さきほど少女が言った「愛」とは、それでもやはり、なにか決定的なちがいがあるように、ヤスコには想われた。
トントントン。
と、台所の勝手口から、ちいさなノックの音が聞こえた。ヤスコはハッとなった。
「まったく」
手にした箸をそこに置き、音のした方へと歩いて行った。
「なんで勝手にはいって来ないのよ」
出かける時は、どこからともなく消えて行くのに、帰って来るときは彼女に扉を開かせる。
「にゃご?」この家の飼いネコだった。
「おかえり、フェンチャーチ」ヤスコは言った。「お昼どうする? いる?」
しかし彼女は無言で、ヤスコの足もとをすり抜けると、階段下の、この家でいちばん風通しがよく気温も低いところへと走って行った。夏の光と匂いと風を、そこら中にまき散らしながら。
「まったく」
ヤスコは想い、テーブルにもどりながら、ホテルの下にたたずむ少女の姿を想い出していた。
『少女の復讐に対して、最初彼らは、それも当然のことのように想っていた。彼らは、おさない彼女の見た目に騙され、彼女をひとりの女性として見ることも――いや、すこしは意識したのかも知れないが、それでも――扱うこともせずに、結局それが、彼女を傷付けてしまったのだから。』
がしかし、それを当然と感じることと、それに耐え切れるかどうかは別問題でもあった。
『彼女の――いや、彼女の仲間たちの――嫌がらせは日に日にエスカレートしていった。彼女本人は、けっしてその場に現れることはなかったが。 彼女の仲間たちは、白昼の広場で道路で教会で、彼らにつきまとい、彼らに呪詛のことばを浴びせかけた。何度も何度も。彼らの土地の言葉で、何度も何度も何度も。』
*
「しかし、それだけでは逮捕は出来ませんよ」
地元の警察署長が彼らに言った。
「手は上げていない。盗みも働いていない。あいつら同士のケンカもない」おおきなお腹を、ゴシゴシゴシとさすりながら、「それにそもそも、なんて言われているのかも分からないんでしょう?」
所詮、あなた方はよそ者だ、と。
そうしてふたりは、街をはなれる決心をした。行き先も決めずに。彼女と出会った噴水前の広場から、長距離バスに乗って。
そうしてもちろん、これは、またたく間に少女の耳にもはいった。彼女の一団は、街のあらゆるところに目をひからせ、耳をそばだてていたから。
出発の日の朝、霧は深く、噴水の向こうには、ひとりの少女が立っていた。彼女の目には狂気と怒りと嫉妬が渦を巻いていた。が、それはあの彼女ではなかった。
少女はひとり、彼らのもとへと近付くと、するどい小型ナイフを※※の耳のつけ根に当てた。
「****、****」
と、彼女たちの土地の言葉でナニカを伝えた。それから、
「****、**」
そう続けると――きっと少女本人は、※※の耳を切り取るつもりであったのだろうが、それは止めると――彼の首すじに見えたペンダントを引き出し、ナイフでその革紐を切った。
「***、***、**」
彼女は続け、※※は、彼女の視線の先、高い塔の上に、彼が傷付けてしまったおさない少女がいることに気付いた。
*
『彼女は、低い手すりに身を預け、まるでそのまま、そこから飛び立とうとでもしているかのように見えた。』
リビングのカーテンが静かに揺れ、その風の中には、雨のきざしのような物が含まれていた。
『「愛してたのは確かさ」』
先ほどの少女のセリフを、ふたたびヤスコは想い出していた。
彼と彼女の物語はここで終わり、彼らはまた、別の街へと向かって行く。ふたりがふたたび出会うことは、もう、けっしてないだろう。
それは、彼にも彼女にも、十二分に分かっていた。
『「愛してたのは確かさ」』
しかし、彼も彼女も、きっと気付いてはいないだろうが、彼女の彼に対する友情や好意は、この別れがあったからこそ、「愛」へと変わったのである。
『「だからこそ、そんなこと、しちゃいけねえんだよ」』
昼食が終わり、ヤスコは午後の執筆の段取りを考えようとした。
なんだか少し、気が重たい感じがした。
(続く)




