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第四話:酒とバラと沈黙の音(その6.5)

 さて。


 樫山ヤスコにとって、その継母の想い出が、その大きなわらい声であるのなら、彼女の実母の想い出は、そのちいさな一枚の写真であった。


 そのちいさな写真の中で彼女――ヤスコを捨てた実の母――は、いまだ十代の少女で、しろい手袋に糊の利いたしろいシャツとスカート、それにしろい靴と靴下を履いていた。


 彼女は、顔に奇妙な表情を浮かばせながら取り澄まし、そのシャツや靴にひとつ汚れもないことを自慢し、そうして、ひとつ汚れでも付いてしまえば、自分はもうおしまいになるのでは? と、そんな恐怖を抱いているように見えた。


 そうして、その写真を――奇妙な犬と、赤い土星が描かれた本のすき間に挟まれていたその写真を――はじめて見たときヤスコは、それが誰かも分からないまま、「なんてキレイな女の子なんだろう」と、そんな風に想っていた。


     *


「キャーッ!」


 と、せまい試着室に、坪井南子の黄色い歓声がひびき渡った。「ステキッ! ステキ過ぎますッ! ヤスコ先生!!」


「うん。ありがと、南子ちゃん」


 が、そんな坪井の方はふり返らずにヤスコは応えた。「ただ、声はもすこし落としてもらえないかな?」


 ここは、(その5)の最後でご紹介した、池袋にある、とある会社のブライダルプラン相談カウンター。


 なにがどう間違ったのかは、もう、本当になにがどう間違ったのか分からないのだが、何故かこちらの広告案件が、何故かなぜだか、小説専門の本田の部署にまわって来てしまい、


 そうしてまた、なにがどうまかり間違ったのかも、もう、本当に、なにがなにやら、どうまかり間違ったのかよく分からないのだが、


 その広告案件に合う適当な年齢と容姿と文体を持ち、ついでに時間と暇の取れそうな作家というのが、何故か何故だか、樫山ヤスコ女史しか見当たらないという状況が重なり、


 なにがなにやら、ほんとにもう、なにがなにやらよく分からないまま、そのエッセイ風味的体験型提灯記事を、問題の樫山ヤスコ先生 (シングル・結婚適齢期)が書かなくてはいけなくなったからなのであった。


 であったが、


「え? 写真撮るんですか?」


 と、問題の樫山ヤスコ大先生 (ギリギリ結婚適齢期)は訊いた。ここの会社のカメラマンと、鏡の中の自分を、交互に見つめながら、「それは……、ちょっと……」


「だいじょうぶですよー、顔は隠しますからー」


 と、別の意味で問題の坪井南子編集者 (シングル・恋人募集中)は言った。ここの会社のカメラマンさんの代わりに、おっきく、ひびく声で、「せっかくこんなにキレイに変身させて頂いたんですしー、撮らないのはもったいなさ過ぎですよー、ヤスコ先生」


 そう。


 たしかに。


 ヤスコは、キレイに変身させられていた。


 というか、ビッチリばっちり補正させられていた。


 と、言うのも。


 今回相談カウンターのひと――というか、やっぱり色々問題のある坪井南子編集者――が選んだ、ヤスコの試着用ウェディングドレスと言うのが、ディズニープリンセスもびっくりするほどのレースふりふり、プリンセスラインぴったりのウェディングドレスで、


「そうですねー、細身で背もお高いですし、普通に似合うとは想いますが――」


 と衣装担当の方は言ってくれたが、それでもやっぱり、運動不足の貧乳小説家が、素の体型のまま着れるほど、ディズニープリンセスのディズニープリンセスワールドがとろとろ甘いワケもなく、


「こちらブライダルインナーという特殊装甲インナーで、ふだん着られている下着とはちがい、強力な補正力・矯正力を有し、びったりビッチリ、身体をドレスにフィットするための加工が随所に施されており――」


 と、ブラはもとよりビスチェにガードル、ウエストニッパー、フレアパンツ、ペチコートまで着けさせられることになってしまっていたからで、また、そこに加えて、


「あら……、これは……予想以上の…………、うん。もっといろいろ盛った方がよろしいですね」


 と、ペタペタペタペタぺったんこなヤスコの胸やお尻にも、いろいろと様々な、不義・不正・補正が試みられては積み重ねられ、挙句の果てには、


「あー、でも、お客さま、キレイなおみ足されていますし、ヒールも7……、いや、ここは想い切って10cmのものにすれば、更なる足長効果が――」


 と、勝手に盛り上がったお店の方々に、見たこともないような、くっそ細くてくっそたっかいヒールを履かされていたりしたからなのだが、それでそのため、


「ねーねー、先生、なんでずっと同じかっこでずっと直立不動なんですか? すこしは歩いたりポーズ取ったりして下さいよ」


 と訊く坪井の質問にも、


「………………のよ」


「は?」


「…………のよ」


「はい?」


「動けないのよ! 下着とヒールで!!」


 と、その「変身」のせいで、まるで試着室の床とひと続きのものになってしまい、まともな答えも返せない、樫山ヤスコなのであった。


「ごめん、南子ちゃん、イスかなんかもって来て、いますぐ、わたしがくずおれる前に」



(続く)

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