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第四話:酒とバラと沈黙の音(その7)

「あれ?」


 と、それからしばらくして、坪井南子のスマートフォンが鳴った。


 すると彼女は、その番号にこころ当たりはなかったものの、いわゆる国際電話などの不審な番号でもなかったので、


「すみません、先生」と、ひと言ヤスコに断ってから、試着室を出て行った。「ちょっと、電話に出て来ます」


 これは、まれに携帯を失くした作家や出張先の編集長から、知らない番号で呼ばれることもあったからなのだが、そのためヤスコも、


「あ、うん、はい」


 と、特に不思議がることもなくこれに応えた。補整下着とたっかいヒールに締め付けられている、鏡にうつる自分を見ながら、ちからなく、


「……ふう」


 と、ヤスコはため息を吐いた。


 鏡の中の彼女は、うつくしい、とは言わないまでも、一幅の絵画のよう、に見えなくもなかった。


 しろいドレスを身にまとい、高めのイスにすわり、その柔らかなひだは、試着室の床と絶妙な調和を見せながら、左まわりの螺旋を描いて上がっている。


 細長い手足はしろく、普段なら決してしないであろうばっちりメイクと盛り盛りヘアーは、彼女を文字通り別人のように見せていた。


 そうして、そんな鏡の中の彼女のすがたは、現実世界の彼女自身に、


「やっぱり、似てるのかしら」


 と、ちからないため息をさせるものでもあった。


 清潔で、とりすましていて、ひとつ汚れでも付いてしまえば、自分はもうおしまいになるのではないか? そんな恐怖を抱いている、まるで記憶の中の、少女時代の実母のような、そんな女性のすがたが、そこにはあった。


     *


 『その病めるときも、

  その健やかなるときも、

  その喜びのときも、

  そのかなしみのときも、』


     *


 そんな言葉を想い出しつつ、ヤスコはつぶやいてみた。


     *


 『その富める時も、

  その貧しき時も、

  これを愛し、

  これを敬い、

  これを慰め、

  これを助け、

  その命ある限り、

  その真心を尽くすことを。』


     *


 そんな言葉をつぶやきながら、ヤスコは苦笑していた。


 西暦2019年度の厚生労働省の調査によれば、その年度の離婚件数は約20万9千件。婚姻件数は約59万9千件。どちらも年代間による差異があるので一概には言えないが、それでも単純計算で考えれば、日本の夫婦の約35%、三組に一組は、その命がある間に、別れ、離れてしまうわけである。


「わたしの、母だけではないわ」


 と、ヤスコはつぶやき、自分を安心させようとして、それが彼女を不安にさせた。


「わたしの、母のことだけではないわ」


 続けて出て来たこの言葉が、さらに彼女を不安にさせた――急に、誰かに、抱き締めてもらいたくなった。


 弟の言うとおり、未来は、前途は、この波の行く先は、多難で多様で茫洋で、ボーヨーボーヨーに過ぎた――昨夜の自身の軽率さを、ジッと恥じたくなった。


「わたしの、母の、ことだけではないわ」


 パールのような光沢が彼女の肌をおおい、レースのフリをした幸福が、彼女の身体を侵そうとしている。


 彼女は、その光沢や幸福に恐怖をおぼえると、座っていたイスの上でよわよわしく萎れ、それこそ、まるでちいさな女の子や捨てられたシルク生地の固まりがするように、背をまるめ、肩を抱き、いまにもその場に崩れ落ちそうな格好を取った。昨夜、駅のホームで別れた恋人の顔が想い出された。


「……まひろくん」


 彼女はつぶやいた。誰にも聞こえないよう注意を払って、それでも、その相手にだけは届いて欲しいとの、かすかな希望をもって。


「……まひろくん」


 彼女はつぶやいた。こんどはほんとうに、誰にも聞こえない声で。それでもやはり、希望は捨てずに。


 すると、ここでたいへん奇妙なことに――希望はあるさ、どんなときでもね――彼女がそこに、完全に崩れ落ちる直前に、


 ガチャッ!!!


 と、試着室のドアが乱暴に開かれ、


「先生、先生、先生ッ!」


 と、先ほど出て行ったはずの坪井南子が、おどろき半分よろこび半分、そうして慌ただしさ当社比1.8倍のいきおいで、試着室へと飛びもどって来た。


「先生! 先生! ヤスコ先生ッッッ!!!」


 すると、そんな彼女の声に樫山ヤスコは、


「どうしたの……?」


 と、かろうじて顔を上げ、ちからなくうしろをふり向いた。


 すると、こんなヤスコの様子に坪井は、キレイなドレスとお化粧で大変身したヤスコ、だけれど、そのおかげで弱々しく、より幸うすい感じになったヤスコを見て、


「あん、ちょっと先生、カワイイかも……」


 と、編集長ゆずりのドS気質で一瞬想ってから、


「ちがいます、ちがいます、ちがいます」と、頭をぶるぶる、自分をただしてから、こう叫んだ。「来るんです! 来られるそうですッ! いまッ! こちらにッ!!」


「え?」ヤスコは訊き返した。「だれが?」すこし考えて、「……本田さん?」


「な、ワケないでしょ」坪井は応えた。「まあ、さっき写メったら、爆笑マークが返って来ましたけど」


「は?」


「あ、いや、そんな本田はさておき」と坪井。ふたたび続けて、「来るんです! 来られるそうですッ! いまッ! こちらにッ!!」と言って叫んだ、同じセリフを。


 なのでヤスコも、これに対抗するように、


「だから、誰がよ?」と、ふたたび彼女に訊き返した。「誰が来るっていうのよ」


 すると坪井は、やっとまともな答えで返した。


「山岸さんです! 山岸さん!!」それでもずっと、興奮したまま、「駅前ですって! いま! このすぐそばのッ!!」



(続く)

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