第四話:酒とバラと沈黙の音(その6)
カチャリ。
と、応接室の扉が開き、まず最初に出て来たのは、山岸の家の祖母だった。彼女は、
「おまたせ、不破さん」
と、特に探す素振りも見せないまま、彼女の連れに声をかけた。このとき不破は、そこの扉からすこし離れた場所に立っていたのだが、それでも。するとそれから、
「想いのほか、はやかったんですね」
と、問題の悪魔も直ぐに、まるで風のようなささやき声で応えた。山岸の家の祖母の耳は、年相応の悪さだったのだが、それでも。
「まひろがめずらしく、つよく出たからね」
山岸の家の祖母は応えた。やたらとながいその顎に、するする伸びたその鼻を、くっつけそうないきおいで。クックックッと、楽しそうに。「なんだか、おじいさんに似て来たよ」
「それは頼もしい」不破は応えた。「私の仕事は?」
「いますぐにはないよ」祖母は答えた。「これまでどおり、必要な時に、お声をお掛けします」
「承知致しました」
カチャリ。
と、ここでふたたび扉が開き、次に出て来たのは、富士夫とまひろの兄妹だった。
「くり返しにはなるがな、まひろ」富士夫は言った。妹の肩に手を置いたまま、「仕事には必ず行くこと。メシはちゃんと食べること。生活のリズムを崩さないこと、だいたい作家なんて人種は――」
「大丈夫だよ、兄さん」まひろは応えた。それでも、兄の手をふり払うようなことはせずに、「樫山先生はそのへん、普通のひとよりしっかりしてるくらいだから」
「ならいいんだがな――」
それから富士夫は、一瞬言葉を切ると、廊下の先にひとり立つ祖母を一瞥してから声を落とし、
「それより、その……」と、すこし訊きにくそうに訊いた。「あの方とお前は……、その……、アレだ……、その……」がこれは、
「兄さん?」と問うまひろの声にすぐにそれを止めた。そうして代わりに、
「あ、いや、すまない。気にしないでくれ」彼女の肩から手を離しつつ、「そうだな」と、まるでナニカにそう想わされたかのように、「そういう意味では、あのお嬢さんにももう一度お会いして、きちんとご挨拶しておかないといかんな」と、そんなことを言い出した。
家の場所も知っておきたいし、先日の無礼も詫びておきたいし、と。
すると、この兄の言葉にまひろは、
「え?」と不意を突かれた感じになり、「いや、でも、兄さん」そう言って彼を止めようとしたのだが、
「そうね、それはいい考えだね」と廊下の先で、山岸の祖母もそれに乗っかった。「あたしも、キチンとお話したことはないからね。その、樫山先生には」
「おばあちゃん?」とまひろはふり向き、
「どうかしらね? まひろ」と山岸の祖母は言った。口角をおおきく上げながら。すると、
「別に、今日いますぐにとは言わんよ」と、兄がそれに続いた。何故か祖母の背後の柱を見つめながら、「私も、仕事があるしな」
「あら、でも」と祖母が応えた。「あたしなら、今日も明日も、ずーっとヒマよ」すこし演技がかった口調で、「なんならいまから、行って来ましょうか? あたしが代わりに」
すると、この言葉に富士夫は、この提案に引っぱられるように、
「ああ、」と、ひき続き壁の柱を見つめつつ、「そうして頂けると助かりますよ、おばあさま」
「え?」まひろは言った。なにかふたりに、なにか奇妙なものを感じながら、「でもおばあちゃん、さすがに今日いきなりは――」
「いいから、いいから」祖母は続けた。いつの間にやらまひろのそばで、彼女の手を手に取りながら、「それで? そちらの恋人は? 今日はどちらにいらっしゃるの?」
(続く)




