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第四話:酒とバラと沈黙の音(その5)

 不破博士は――実際彼が博士号を持っているかどうかは定かではないし、そんなことは実際どうでもよいことなのだが不破博士は、いつも日に焼けたような赤い顔と黒いあごひげ、それに薄い砂色の髪と唇、そうして詐欺師か手品師のようにきれいで細長い手をしていた。


「あら?」と、そんな博士に、この家の夫人が声をかけた。「おはいりにならないの?」


 と言うのも、そのとき彼は、この家の応接室の前に立ち、いつものように、まるで何かを面白がっているかのような目つきで、中空を見つめていたからである。


「ああ、これは奥さま」芝居がかった口調で不破は応えた。「富士夫さまから「身内のことだから」と、外すよう言われまして――」


「まあ、それはそれは」と、こちらも芝居がかった――というよりも身に沁みついた動きと調子で、夫人は応えた。「すみませんね、あの人ったら、なにも言わないものですから」


 そうして、周囲をきょろきょろ見回すと、まるで消えた誰かを探すように、


「よろしければ、他のお部屋でお茶でも」そう彼に言いかけたのだが、


「あ、いえ、それは結構」という不破の言葉に、その申し出はすぐさまさえぎられた。「大奥さまからも、あまり動かないようにと言われておりまして」


 すると夫人は、ふたたびあたりをきょろきょろきょろ。と見回すと、


「しかし、それでは大変でしょう」と、中空を見つめたままの不破に訊いた。「椅子かなにか、お持ちしますか?」


「あ、いえ、それも結構」詐欺師か賭博師のような声で不破は応えた。「これが、いちばん楽ですから」


「それでは、なにかお飲み物でも?」夫人は続けた。「コーヒー、紅茶、普通のお茶も――」


「あ、いえ、それらも結構」不破は応えた。すこし、強めの口調で、「どうか、お構い下さらないよう」


 すると夫人は、今度は周囲を、きょろきょろきょろきょろ。とうかがうこともなく、不破の赤い肌が微妙に変化する様すら特段不思議に想うこともなく、しばらくの間彼の横顔を眺めていたのだが、不意にはっと我に返ると、それでは――、


「それでは、また何かありましたら、お呼び下さい」と言ってその場を去って行った。「私は、向こうの部屋におりますので」


 すると突然、彼女が7歩か8歩進んだところで突然、


「失礼ですがね、奥さま」彼女の背後で悪魔が訊いた。「この家のご様子は、如何ですかな?」


 この質問に夫人は、敢えて前をむいたまま、横顔だけを、ほんの少し見せてから、ありきたりな言葉になりますが――、


「ありきたりな言葉になりますが、それなりに、みな、うまくやっております」


「まひろさまのことは」不破が訊いた。「どのようにお考えで?」


「まひろさん?」


「はい」


「彼女のことは、主人の大切な妹――、ただ、そう考えております」


「それだけ?」不破は訊いた。


「よろしければ」夫人は応えた。「もう行っても?」


「ああ、これは失礼」不破は応えた。


 それから彼らは、軽くおざなりな会釈をひとつすると、ふたたび悪魔は中空を見つめ、ふたたび夫人は、家の奥へと戻って行った。夫人が消えるのに合わせるように、


「ふん」と、人間にはぜったい聞こえない声で不破は毒づいた。「私以上のウソ吐きだな」



(続く)

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