第二話:雨の中のネコ (その7.5)
それからまたしばらくがして、ヤスコは不意に目を覚ました。
目の前の天井の、模様と色と気配から、ここが自分の部屋のベッドで、時間はけっこうな夜なんだな、と想った。
すこし開いた窓からは、静かで冷たい夜の空気が、中に入ってくれてたけれど、そこにゆっくり、扇風機の音が重なり、首すじの汗は、まだあわい感じのままだった。そのため彼女は、想ったほどは寝ていないんだな、みたいなことも、同時に想った。
千佳子がまぎれ込ませたブランデーのせいだろうか、なんだか頭はまだすこし、なんだかすこし、ぼんやりしていて、気分もなんだかまだすこし、ほんの少し、もの悲しい感じになっていた。
にゃーん。
と、とおくのどこかで、ネコの鳴いてる声がした。
「いったい君は、なにを失くしたんだい?」
「ネコよ!」
さっきの観光客の会話を想い出した。
「ネコ? 雨のなかに?」
たしかにふつうは、ちょっとおかしいわよね。
ベッドを下りて、部屋着の裾を直した。
「まひろくんに、教えてあげなくちゃ」
そんなことを想った。
駅でのことを想い出して、顔が赤くなった。
そうして、そこにさらに、先ほどの自分の酔態が重なって、こまっているまひろの顔を想い出した。
顔から一気に、血の気が引いた。
頭をかかえ、その場にしゃがみ込み、必死でその後の記憶をたどろうとした。
部屋に上げてくれたのは弟だろうか?
いや、もっとやわらかい、やさしいひとの感触が、耳と頬の辺りにのこっている。
下の階から、テレビのはなす声が聞こえて来た。
ああ、やけにのどが渇いている。
今日はなんだか、色々なことが起こり過ぎた。
そう想いながら部屋を出た。
水を飲んで、顔を洗って、まひろくんや皆に謝りのメールを送ろう。
さすがにもう、みんな家に帰っているだろう。
階段を下りて、リビングの横を歩いて、
「あ、だいじょうぶですか? ヤスコ先生」
と、そこにまひろが待っていた。
おどろいて、手で髪を押さえた。
「お水」と返した。うわずった声で、「お水、飲みに来たの」
「みんなは?」続けて訊いた。台所に向かいながら、まひろの顔を見れないまま、「もう帰っちゃった?」
「千佳子さんたちは、旦那さんが」まひろが応えた。手に、なにかの本を持っていた。「ニアさんは、詢吾さんが送って行きました」
棚からコップを取り出して、冷蔵庫を開けた。
「なにか言ってた?」ペットボトルの水をコップに入れながら、なんかちがうなと想った。
「ゴメンね、さっきは」そう付け加えた。
「びっくりしましたよ」テレビを消しながらまひろは言った。ゆっくりと立ち上がり、「よわいって本当だったんですね」
「先祖代々ね」と言ってお水を飲んだ。すこし間を置いてから、「由緒正しき下戸の一族」
「千佳子さんが」まひろが言った。台所のヤスコのところに近付きながら、「代わりに謝っといて下さいって」
「あー」まひろの顔を見ようとして、まだすこし恥ずかしくて、「ケーキの件?」とだけ返して目をそらした。
「自分のと、間違えてたんですって」まひろがわらった。
「まあ、」そらした顔のすぐ横に、まひろの気配があった。「そういうことですよね」
「あと、」
「あと?」
「僕にも、ゴメンなさいって」
「まひろくんにも?」
「ケーキのせいで……、その……、ほら……、いきなり――」
言葉を選ぶまひろの声に、顔が熱くなった。
そらしていた顔を、まひろに向けた。
「いや、あれは、わたしも、酔ったいきおいって言うか――」
と、ヤスコは何かを誤魔化そうとした。
したのだが、ここで彼女は、こちらを向くまひろの顔も熱く、あかくなっていることに気付くと、次の瞬間、
「ゴメンね」と言って、まひろのほそい肩と首に手をまわした。「ケーキのせいにしてちゃ、ダメよね」
それから彼女は、熱く、あかくなっているまひろの頬に、ちいさくキスをした。
「せ、先生?」と戸惑うまひろの声を、
「だーめ」と続けてさえぎった。「さっきも言ったでしょ?」クスクスクスっとわらいながら、「そろそろ、“先生”はやめて」
そうして、
「あ、いえ、そうじゃなく」と、引き続き戸惑うまひろに対しても、
「詢吾なら大丈夫よ」と、そのきれいな首に顔を埋めながら応えた。「ニアちゃん家、けっこう遠いから」
「あ、いえ、それもそうなんですけど」まひろは言った。困った様子で。
「なあに?」ヤスコは言った。そんなまひろを、からかう感じで。「なんて呼ぼうか、考えてるの?」
「あ、はい、あ、いや、それもそうなんですけど」まひろは続け、
「そうねー、わたし的には、やっぱ名前で呼ばれたかったりするんだけど。「ヤスコさん」とか?」ヤスコも続けた。「ね、ちょっと呼んでみて」
「え?」
「ほら、ためしに」
「あ、はい。あ、いや」
「なあに? はずかしいの?」
「あ、はい。え? いえ…………、ヤスコさん?」
「うん、とってもいい。ねえ、まひろくん――あ、「まひろくん」でよかった?」
「え? あ、はい。それはそのー、とっても気に入ってるんですが…………、それが、そのー、ヤスコさん?」
「なーに? まひろくん♡」
「あのー、ですね」
「なに? さっきからもったいぶっちゃって」
「……見られてます」
「は?」
「すっごい見られてるんです。さっきから、僕たち、窓の向こうから」
「え?」
と、そうしてヤスコがうしろをふり返ると、そこにはたしかに、なんか、こう、三毛とサバトラとキジトラを混ぜ合わせたような、そんな見た目のメスネコが、
「にゃーん?」とこちらを見つめニヤニヤしていた。「なふなふ、なー、にゃごにゃーん」
「きゃっ!」とさけぶヤスコ。まひろにまわしていた手をほどき、「い、いつからいた?」と、部屋着の裾を直しながら。
「けっこう、前から」とまひろ。さらに顔をあかくして、「せ……、ヤスコさんが、僕の、その、首のあたりに手をまわして来たくらいから――」
「あー、もー、ゴメンね、まひろくん」とヤスコ。ネコのいる窓辺に移動しつつ、「こいつも紹介しておかないとよね」
「え? あ、じゃあ、」とまひろは訊いた。それでもすこし、残念そうに、「その子が、さっき話してた?」
「そうね」とヤスコは答えた。窓を開け、ネコをこちらに抱き寄せながら、「わが家の家族のあとひとり」こっちはとっても、残念そうに、「樫山フェンチャーチくん。仲良くしてあげてね」
「にゃあ、ゴロなーご」とフェンチャーチは応えた。ひき続き、ニヤニヤニヤニヤ。と笑いながら、「な、ナゴ、にゃあー」
と、まるで、「いいから続けて、おふたりさん」とでも言いたげな様子で。
(続く)




