第二話:雨の中のネコ (その7)
「あれ?」
と、それからしばらくして、ふたつ目のおにぎりに手を伸ばしながらヤスコは訊いた。「そう言えば、フェンチャーチは?」
「あれ?」詢吾が応えた。「そういえば、見えねえな」
「あー、あの子なら」千佳子が応えた。長男の方を一瞬にらんで、「うちのガキどもが構うから、どっか外に逃げてったよ」
「わるかったよ」と、にらまれた長男・ユウトは言った。肩をすくめながら、「なかよくしようとしただけだって」
すると千佳子は、「つってもアンタらさ」と言って続けた。
「つってもアンタらさ、あの子にとっちゃあ天敵なんだし」と、彼への非難を止めない様子で、「あそんでやるにしてももうすこし――」
なので、ここではヤスコが、「いいのよ、いいのよ、千佳子」と、ふたりの間に割ってはいった。「ふいっと消えちゃうのは、あの子のいつものくせだしさ」
「そうかも知れないけどさあ」と千佳子。まだ話を続けたいようすであったが、
「ごめんね、ヤスコ」とめずらしくユウトが素直に謝って来たため、この話はここで終わることになった。「つぎは、もうちょっと優しくするよ」
「うん。よろしくね、ユウくん」
そうしてそれから、皆が食事に戻って行くのを見ながら、こんどはまひろが、
「いまのは、いったい誰の話ですか?」とヤスコに訊いた。「誰か、いなくなったんですか?」
「ネコよ」ヤスコは応えた。「フェンチャーチってウチのネコ」
「ネコ?」まひろは訊き返した。「あの雨の中を?」
本来ネコは、水がきらいなのでは? と。
「そうね」ヤスコは言った。「変わった子なのよ」それからちいさく、「雨でも雪でも雷でも、近所の庭から宇宙の涯ての公園まで。気が付いたら勝手に行ってるような子なの」そう付け加えた。「それでも必ず、もどっては来るけどね」
*
さて。
それからまたしばらくして、ネコはまだ帰っていなかったが、デザートのレモンケーキは出された。
そうして。
それからまたほどなくして、ヤスコの様子がすこし――いや、かなり変わった。
そう。
それは例えば、こんな風に、
「“エビナール、シュフレール、キャーロッテ、ブラン”」
と、変な呪文を唱えるかと想えば、
「あーはっはっはっはっは」
と、やたら陽気に笑いだし、それから、
「ほら、あの、インチキ精神学者。いたじゃない。あの、ほら、ひげで、金髪で、あの、弟子にふられて泣いちゃう、名前がまったく出て来ないひと」
と、もの書きにあるまじき記憶力の無さで何やら語り出しては、
「あれがさー、あの金髪のソロモン王がさー、言ってたじゃない。「私には、女が何を望んでいるのか分からない」ってさあー」
と、なにやら不満紛々といった感じで、
「ほーんと、なーんで、わっかんないのかね?バカなのかな?」
と、あの学派の方々が聞いたら怒り出しそうな口調で言ってみたり、
更には、ここで弟の詢吾が、そんな姉をからかいながら、
「じゃあ一体、なにを望んでんだよ、あんたら女は」
と訊いてきたので、
「それはね、詢吾くん」と弟の肩を叩きながら、「たっくさんの話し相手。それだけよ。たっくさんの話し相手。それだけに決まってんじゃない」
と、言ってみたりすることだったし、続けて、
「話し相手?」
と聞き返す詢吾にも、
「たっくさんの女の子あつめて、たっくさんのおしゃべりをするのよ、それだけ」
と応えては、
「なにを喋んだよ、そんな女ばっか集めて」
という質問にも、
「それはね、あらゆることよ、詢吾くん。生命、宇宙、そして万物についてのあらゆること。それを延々とお喋りするの」
と、もの書きにしてはあるまじき説明・説得力のなさで応えることであったりして、そうして最後には、
「もう、ね、ほんとね、今日はね、千佳子にもね、ニアちゃんにもね、会えてね、ほんとーにね、うれしいのよ」
と、目をしばたかせ、くすくす笑いながら、
「もう、ね、ほんとはね、このままふたりともね、抱きしめてね、キスしてね、ギューッてしてあげたいくらいなんだけどね――」
と、いまにも感激に泣き出しそうになることであったのだけれど、ここで、
「あれ?」
と、さすがにこれはおかしいと想った三尾千佳子が、先ずは自分のレモンケーキを、そうして次に、
「ちょっとゴメン」
と言って、ヤスコに渡したケーキを食べた。それから、
「やば、」
と千佳子は言った。ふたりのケーキを完全に取り違えていたのである。
「ブランデー入りをわたしちゃってた」
のであるが、時すでにおそく、
「でも、ね、今日はね、まひろくんもいるしね、ふたりへのハグはね、キスもね、ギューッもね、ガマンしようと想うのね」
と、酔いに任せたヤスコは、そのまままひろにからみ付くと、
「代わりにね、まひろくんにね、いーっぱいのね」
と、三尾家の子どもたちに見せるにはまだまだ早い感じのなまめかしさでもって、
「ちょ、ちょっと、ヤスコ先生?」
と、たじろぐまひろのくちびるへ、
「いいから、いいから、駅での続きだと想って――」
と、自分のくちびるを重ねようと――したのだが、
「……はれ?」
と、ここで彼女の意識は、フイッとどこかに飛んで行き、そのままヤスコは、まるで空気の抜けた風船かくたびれた抱き枕のように、まひろの上へとたおれ込むのであった。
(続く)




