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月が夜を薄明るく照らしている。
渋谷のスクランブル交差点では、サッカーワールドカップで日本が勝利したとあって、数百人、いや千人に上ろうかという人間が大騒ぎをしている。
その時、そのスクランブル交差点のど真ん中で悲鳴がこだました。
人の波がそこだけぽっかりと穴が空いたようになっており、その穴の中心にはオオカミが辺りを眺めていた。
警戒しているのか、眼光鋭く人間たちを見ている様は、そこにいる人間に恐怖を与えていた。
すると、最近では名物になったDJポリスが交差点のまん中で立ち止まらないよう呼びかけていた。
このオオカミがDJポリスには見えていないのであろう。
しかし、直ぐ後には人伝えに聞こえたのか、DJポリスの耳にオオカミの存在が入り、オオカミから離れるよう呼びかけていた。
しかし、人がすしずめ状態の中、オオカミとの距離を取るのも限界があり、徐々にオオカミとの距離は再び縮ずつあった。
そして、もう手の届きそうな距離まで来た時、オオカミは空高くにむかって吠えたのであった。
「渋谷のど真ん中にオオカミだって。どういうことかしらね?」
僕は目を疑った。
僕にとってオオカミは以前より遥かに身近になっており、その言葉を聞くだけで、僕の頭は反応してしまっている。
「動物園に輸送中に逃げ出したんじゃないかな?」
僕は述べるも、オオカミの正体がもしかしたら人間であるかもしれないという考えは持っていた。
彩の家族以外にそういう人間がいる事をまだ僕は知らないが、僕はどうしても彩の家族だけがオオカミになるなんてことはなく、他にも何人もいるだろうと考えていた。
そして、テレビの中のオオカミの正体が人間ではないかという考えを深くする理由は空にあった。
今日は綺麗な満月なのである。
彩が満月を見るとオオカミになるというのを実際に目で見たわけではないので、満月を見ると、見た瞬間にオオカミになるのか、それとも少し空いてオオカミになるのか。
そしてそれはどういう過程でなるのか。
まだ何もわかっていなかった。
仮にテレビの中のオオカミが人間なのだとしたら、それは満月を見ると突如にオオカミになるということで、同時に彩は、満月の夜には外に出られないこととなる。
そして、忘れてはならないのは、昼にも月は出ているという事。
昼の満月を見てもオオカミになるのか。
まだ何も分かっていないのである。
「このオオカミってどうなるのかな?あまり暴れたら殺処分にでもなっちゃうんじゃない?」
「そうね。かわいそうだけど、逆にこの中でおとなしくする方が無理な気がするわ」
妹と母親は呑気なことを言い合っている。
正直、僕も彩のことがなかったら、ここまで考えていなかったであろう。
先日村上先生に言われたこと『死』というものについて、僕は深く考えるようになった。
もちろん寿命というものはあるが、全国で数々の犬等が殺処分されている現実に僕は心を痛めていた。
彩のことがなかったら、ここまで考えていなかったかもしれないと思うと、僕はどこまで自分勝手だったんだろうと思う。
確かに、自分の人生を生きるのに精一杯なのは誰しもが同様であると思うが、もう少しだけ動物と人間の命お重さが近くなっていけばよいと思った。
正直人間と動物の命の重さが同等というのは無理があると思う。
人間は数々の動物の肉を食べなければ生きていけない。
それは当然なのだが、命を落とす必要がない命をもう少し敬うことが今僕たちが考えなければいけないのではないか。
彩の為にも、答えは出ないかもしれないが、小さな一歩かもしれないが、そういう命について考える事を始めようと思っている。
誰もが考えなければいけないと強制されるものではない。
しかし、そういう他人の命の重さに考えられる人間こそ、真の人間らしい人間であるのではないだろうか。
人間らしい人間になるチャンスが僕等にはあるのだろう。
そんな事を考えていると、人波を縫うように巨大な網を持った警察官がオオカミの所に向かっていた。
――そんな網じゃ無理だろ。逆にオオカミを刺激するだけだ。
生放送で放送されていたテレビは異様な緊張感に包まれていた。
一歩二歩オオカミに近づく警察官。
その気配を察したオオカミは警察官に睨みをきかせている。
――このオオカミが彩だったら…。
そんな焦りを僕は感じていた。
彩の家族以外にそういう人間がいる事は僕の中では確信に近いが、何の根拠があるわけじゃない。
僕は慌てて、部屋に戻り、スマホで彩に電話をした。
後ろから母親が「どうしたの?」としきりに言っていたがそんな事に構っている余裕は無かった。
すると四コール目で『駿君!』と明るい声の彩が答えた。
「今テレビで渋谷にオオカミがいるって、これ彩には何の関係もないよね」
『うん。お母さんも一緒にいるから。でも私以外の人の事は全く分からないから、そのオオカミがどういうオオカミなのか分からないんだ』
「そっか。でも彩が無事なら安心した。最初彩なんて想像もしなかったけど、じわじわと不安になって…」
『ありがとね。駿君にこんなに思われてるなんて、私幸せだな』
「そんな大げさな」
『でも本当だよ。ありがとね』
彩との通話を終えた僕の耳に母親と妹の悲鳴にも似た声が届いた。
何があったか慌てて戻ると、二人はテレビにくぎ付になっていた。
テレビはCMになっているにも関わらずに。
「どうしたの?」
妹は僕の顔を見ると興奮しながら捲し立てた。
「あのオオカミが人を襲ったの。あんなの初めて見た。リアルタイムで見ちゃったよ!」
僕は安堵せずにはいられなかった。
彩でなくて良かった。
しかし、これでオオカミが人を襲うというイメージが日本中の人達の頭に入ったことになる。
――それにしても何でオオカミが渋谷のど真ん中に?
僕はその答えがおおよそ分かっているのに、逃げるように考えていた。




