16
彩に関する話が終わった後、僕はその女性と第一棟長室に向かった。
その時初めて女性の胸元にある名札に気づき、安藤三笠と言う名前だと分かった。
「いきなり連れてこられてあんな話を聞いたら訳わかんなくなって泣いちゃうよね。ごめんね」
安藤は言うと僕に微笑みかけた。
さっきまでの真剣な眼差しとは全く違う易しい眼差しであった。
「細かい話はこの後、第一棟長室で室長から話があるわ。そこでもかなり重い話があるけど、気を確かにもってね。それでも、もうこれ以上マイナスの要素は無いから」
僕は分からないながらも浅く頷いておいた。
安藤は思ったよりかなり優しい性格なのかもしれない。
壇上で話していた時はかなりきつい性格の人というイメージを持っていたが、彼女のこの問題に対する意識の表れなのかもしれなかった。
第一棟長室の前に来ると、安藤は来ているスーツの襟をただし、ノックすると「安藤です」と言い返答を待った。
すると十数秒待つと一人の男性がドアを開けて出てきた。
「安藤君ごくろうだったね。この子が例の子かい?」
安藤が頷くとその男性は僕に握手を求めて来た。
「初めまして。第一棟の責任者の真田庄一郎です。第一棟と言っても、まだ何のことかさっぱりだろうね」
真田はそういうと笑って僕が差し出した手を強く握った。
室長というからにはかなり年配の人を想像していたが、目の前の真田はかなり若そうで二十代と思われる顔立ちとスタイルの良さ。皺ひとつない肌は僕から見ても好感が持てる。
「もしかして、お祖父さん世代の人を想像していたかな?初めて僕を見る人は皆そういう目で見るんだよ。実際他の棟と比べても、僕は断トツで若いからね」
そう言うと僕と安藤を中にいざなった。
すると真田がいつも座っているのであろう席と机の前に三人用ソファー程の大きさが二席置いてあり、そこに笹村が座っていた。
「駿君、お疲れ様だったね。ちょっと刺激が強すぎたかもしれないけど、さっきの会議を見るのがこれからの話しを理解するのに非常に重要な事だからね」
ここに来る前から会っていた笹沼を見て、現実世界に戻ったような安堵した気持ちになった僕がいた。
それだけ、この数十分の出来事は非現実的な印象を僕に与えていた。
「では、早速本題に入ろう」
真田は自分の椅子に座ると机の上に手を置き、話し始めた。
「まずさきほど、君が参加した会議は『WLクローン問題について』という題材だった思うが『WL』とは何か、君にとっては何のことかさっぱりであろう」
僕は数度頷いた。
謎はたくさんあったが、根本の問題である気がしていた。
「略というよりも記号と思ってもらった方が分かりやすいかもしれない。本当の名称は『クローン実験の弊害によって生まれたオオカミ人間の問題について』というんだ」
――クローン実験?
クローンという名前は本なんかで読んだことがある。
近い未来クローン人間がつくられる云々。
けど、それはフィクションの話であって現実に存在するとは思っていなかった。
「色々な作り話で様々なクローン人間への認識があると思うが、我々の追っている現実世界のクローン人間は、まさに人間が人間を作るというシンプルでかつ宇宙規模の実験のことなんだ」
あまりの話しに僕は開いた口が塞がらないでいた。
「それで同時にオオカミの繁殖実験も行われていたわけだけども、ニホンオオカミが絶滅危惧種に指定されているのは知っているよね?」
僕は頷いた。
さすがにそれは知っていると安堵した気持ちも持って。
「それで人工的にオオカミを増やそうという試みなのだけれども、犬や猫と違って生態系がまだ解明されていないことが多くてね。様々な国からサンプルを集めたようなんだ。そこで大きな問題が起きたんだ」
真田は一呼吸置くと続けた。
「サンプルの一つにオオカミの血液中の遺伝子があったんだが、それが誤ってクローン実験で使用する人間の血液中の遺伝子に混じってしまったんだ」
ようやく僕にも理解できる話が出てきた。
「じゃあその結果、満月を見るとオオカミになる人間が出来てしまったというのですか」
「その通りなんだよ。そんな事で作り話のようなことが現実になるなんて信じられないだろう。私もそうだった。しかし、クローン人間を作る時点で私たちからしてみれば作り話なのさ。クローン人間を作る過程は世界中、その実験に直接かかわっている人しか知らなくて、その人数も一桁の人しか知らないようなんだ。だから、そもそもクローン人間を作る際に遺伝子がどの程度敏感に反応するのか私たちからしてみたら全く想像できないんだ」
この時僕はふとある考えがよぎってしまった。
ほんの数秒でこの考えが恐ろしくもあり、更に、現実性が高いことに気づいてしまった。
真田が水分を口に含んでいるその時間に質問しようと思ったが、結果を聞くのが恐ろしすぎて聞けずにいた。
するとそんな僕に気づいた笹沼が僕の心を読んだかのように「気づいたんだね」と僕の肩に手を乗せた。
すると僕の目からは再び涙が落ちてきた。
彩が死んだと思ってから、涙腺がおかしくなってしまっているようだ。
自分の意識しないうちに涙が出てくることが確実に多くなった。
「棟長、ここからは私が説明してもよろしいでしょうか。彼の精神的に深く影響する話です。彩さんと彼と深くは無いですが面識がある私が話した方が良いかと」
真田は深く頷くと「頼む」と言って腕を組み笹沼の言葉に耳を澄ませた。
「こういうことはもったいぶってもいつかは分かってしまうことだと思うからストレートに言うけど、駿君、君が今思っているであろうことは、彼女がクローン人間なんじゃないかということだね」
僕は涙を拭きながら一度浅く頷いた。
その時、神妙な面持ちの安藤と目線があった。
安藤も目を赤くして今にも涙を流しそうになっている。
やっぱりさっき僕が感じたように優しい女性なのだろう。
涙を流しながらもそんな事を思う僕がいた。
「君のその考えは実は半分正解で半分間違いなんだ」
僕はどういうことか分からず首を傾げると笹沼は続けた。
「実は彼女はクローン人間の子供だったんだよ。本当のクローン人間は彼女の父親。すでに交通事故で亡くなっているが、その父親こそさっき真田棟長が話した、誤ってオオカミの遺伝子を混ぜて作られた人間の一人だったんだ」
僕は何といって良いのか分からなかった。
別に彩がクローン人間だからとかそうじゃないとか関係ないのは分かっている。
問題は今後の彩の状態なのに。
しかし、僕の知らない雲の上のような話に彩が深く関わり、その彩の父親が人間に作られた人間だなんて、普通の人なら誰でも混乱する。
僕は追いつかない頭ながらも思いついた疑問を口にした。
「一人だったということは他にも何人もいるんですか」
笹沼は一呼吸置くと「約百人といわれている」とどこか遠くを見るような表情で言った。
僕は聞いておいてその人数が多いのか少ないのかどういう反応をすれば良いか分からなかった。
「約百人というのは初期のクローン人間の人数だけで、その子供もいれるとなるとその倍以上になるんだ」
――その子供が彩…
「僕にとっては彩がクローン人間でも普通の人間でもどっちでも良い事です。彩が無事でいてくれるなら」
笹沼は一瞬驚いたような顔をしたが、再び表情を引き締め話を続けた。
「それで今、研究の段階はそのオオカミの遺伝子の入ったクローン人間、和達たちの中ではWLクローンと呼んでいるが、そのWLクローンとクローン人間の割合を調べ上げている段階で、すでに大方の集計は終っている。そして同時進行で進めていたWLクローンの人体からオオカミの要素を抜くという研究も行われていたんだ」
僕にはどうもSFの話しに思えて、現実世界で起きているという頭になれないでいた。
「しかし、今回の彼女の出来事によって、その研究は急激に進むことになったんだ」
――彩がきっかけ?
「駿君にとっては荒唐無稽の話しかもしれないが、彼女が突如として君の前から消えた謎が少しは分かったかな?」
表向きの理解は出来たが、当然すぐには納得できる話ではない。
とても信じられないのだ。
彩がWLクローンでもクローン人間でも普通の人間でも無事でいてくれるならそれで良いと思っている僕の頭はこのSFチックな話を理解することを積極的に考えていなかった。
僕が納得できない顔をしていると「すぐに理解してもらおうとは思っていない」と真田はフォローした。
「君にとっては彼女の安否が何より最重要課題だろう。まずはその後に色々と考えてもらおうか」
真田は言うと、笹沼と安藤に彩の所に案内するよう指示を出した。
「先に会わせてもらっても良かったと思うだろうが、ある程度、彼女の身に起きていることを知ってからの方が良いと思ったんだ。申し訳ない」
真田は頭を下げると僕たちを送り出した。
笹沼は歩きながら僕に詫びた。
「ずっと騙していてすまなかった。まさか、君たちの方から僕にアプローチして来るとは思わなかったから、色々と急になってしまったんだ。放っておいたらおそらく駿君は別としても、彼女は自らの身体の真実に気付いてしまうと思ったからね」
「今までの話しを信じるとして、これから彩はどうなるんですか。彼女がクローン人間でしかも、オオカミの遺伝子が入っていて、そして今回その遺伝子を抜くことができた。その後のことです」
「これは彼女と会った時に詳しく話すけど、ようするに彼女は百パーセントの人間になったんだ」
僕は一瞬嬉しい気持ちになりかけたが、本当にそれで解決と言えるのだろうかと思ってしまう。
さっき真田が言っていたように、オオカミの遺伝子を抜くというのはまだ研究段階で、しかも本格的に研究する段階にはまだないということであった。
それなのに彩は、彩に何があったかは分からないが人の目がたくさんある中で命の危険を犯して挑んだ。
もちろんそれが事故であったか故意であったかそれは分からないが、僕と一緒にいたはずのホテルから消えたのは少なからず彩の意思のはずで、それ以前に彩に何かがあったのだろう。
もしかしたら、何らかの形でこの機関で研究を始めようとしていたオオカミの遺伝子を抜くという事を彩が知った可能性がある。
まだ研究を始めようという段階の情報が何故彩が知ることになったのか、それは彩しか知らないであろうが。
僕等は笹沼と昇って来たエレベーターまで歩くとそのエレベーターに乗り込んだ。
「彼女の今いるところは八階の移住区なんだ。WLクローンのレベルによって区分けされてるんだよ。といっても彼女のようにオオカミの遺伝子が身体から抜けた人間はまだ誰もいないから彼女一人だけどね」
僕は彩の心を慮った。
もしかしたら彩の考えでこういう状況に身をおいているのかもしれないが、それにしてもこの訳の分からない機関のなかで一人で生活しているなんて。
「実質的にはお手伝いさんや勉強を教える教師とか複数人いるからコミュニケーションに困ることは無いと思うけどね」
そうであるにしても結局はこの機関の人間であって彩にとって心を許せる人達ではないはず。
彩の事を思うと僕まで心が塞いでしまいそうだ。
エレベーターが八階に着いた音を鳴らすと扉が開いた。
この音は何回聞いてもここの機関の建物と一致せず、違和感が残ってしまう。
その扉の向こうはホテルの廊下のように豪華な絨毯で敷き詰められていて十二階と同様直ぐの壁に部屋番号だろうか数字と矢印が記してあるが、その文字も十二階の無機質な物と違って、この空間の空気を損なわないよう豪勢な物であった。
「彼女のいる部屋は八二三号室。実質彼女は選びたい放題なんだ。彼女が自ら選んだ部屋なんだよ」
彩が自ら選ぶ部屋がどういうものか少し気になったが、そもそも部屋の感じが全く想像できない。
これだけ非現実的なことがたてつづけに起きているこの状況で、平均的な部屋を想像する事はもはや意味のないことであった。
その八二三号室はエレベーターから二つ目の部屋であった。
どうやらこの八階には全部で二十四部屋あり、時計回りに部屋番号が割り当てられていて、その二十三番目の部屋という事のようだ。
その八二三号の前に来ても何の音も聞こえず、中に人がいるような気配もない。
「すべての部屋に高級ホテルさながらの設備が施されていて、防音はもちろんのこと、廊下まで生活感が漏れることはまずない作りになっているんだよ」
ここにも認証システムがあるようで笹沼は認証機会に顔を近づけ、モニターに『OK』の文字が表示されると、単純な部屋番号を伝えるだけかと思っていた、『823』という表示を二度ほどプッシュした。
僕に視線に気づいてか、笹沼は苦笑しながら「斬新だろ?」と言って肩をすくめた。
すると扉が開いた。
これまた初めて見る顔の女性が顔を覗かせ、笹沼と安藤を見ると顔をほころばせ「お疲れ様です」と頭を下げ、中に誘導した。
僕は緊張しながら笹沼と安藤に続いて中に入った。
その女性は笹沼に「現在は講義中です」と言い笹沼は不詳不詳といった感じで頷いた。
靴脱ぎ場を過ぎるとそこには見覚えのある空間が広がっていた。
その空間を見た時、僕は開いた口が塞がらなかった。
今日何度目だろうか、空いた口が塞がらないのは。
そこには彩の家のリビングそっくりの作りの部屋が広がっていた。
そっくりなんてものじゃない。
彩の家のリビングそのものだ。
すると今度はカレーライスだろうか、何かホッとするような臭いが漂ってきた。
「今日はカレーライスですね。美味しそう」
安藤がその女性に言うとその女性はにっこりと笑って「彩さんが最近よくリクエストされるものですから」と言った。
――彩ってカレーライスそんなに好きだったっけ?
僕は思うも環境が変わって好みも少し変わったのかなと思いそこまで気にしなかった。
すると、その女性がハッとした仕草をして僕に向き直ると「遅れまして失礼しました」と自己紹介をした。
名前は佐久間幸子というようでこの機関の移住区の家事全般をしているようだ。
いわゆる家政婦だ。
僕は頭を下げると、その佐久間の目にうっすらと涙が浮かんでいるのに気付いた。
僕は「どうしました?」と聞くと、笹沼と安藤も心配そうに佐久間の顔を覗き込む。
「彩さんがいつも口癖のように駿君に会いたいと言っていまして、駿君との話を何よりも楽しそうに話すもので、今回やっと再会出来るということで彩さんの気持ちを考えましたら、私まで感極まってしまいました」
僕はどういう表情をしたら良いか分からなかった。
彩は僕のことをこんなに非日常的なことが続く中で考えてくれていた。
素直に嬉しい顔をすれば良いのだが、そこまで僕の心は素直ではないのか、照れてしまっていた。
「彩さんは後三十分程で講義が終わる予定ですので少々お休みください」
佐久間はそういうとお茶を汲みにキッチンに向かった。
それにしてもなんとホッとする事か。
海外旅行から帰って来たような気持ちだ。
自分の家ではないのに、よく見知った光景に心が落ち着いてきたのであろうか。
その講義はリビングを抜けた端にある本来の彩の家では二階に繋がる階段があるであろう所に扉がありその中で行われているようだ。
その空間も結構な広さのようで、彩はストレスなく講義を受ける事が出来るだろうと笹沼は言っていた。
佐久間に淹れてもらったお茶を飲みながら、他愛もない話をしているとあっという間にその三十分は経過した。
リビングの奥から懐かしい声が聞こえてきた。
まだ数日会わなかっただけなのに何年も会わなかったような。
しかし、僕の足は動かなかった。
いざ、こういう場面になってみるとどうしてよいのか分からない。
かけよって抱きしめれば良いのか。
しかし、元々そういうタイプの関係ではないような気がする。
お互いを尊重し合い、認め合い、理解し合い。
言うならば熟年夫婦のような。
中学生や高校生のように飛び跳ねて抱き合うなんてことは僕等には似合わないような気がした。
リビングのドアが開いた。
ふと僕はリビングの奥の音は聞こえるのだなとどうでも良い考えが頭に浮かんでいた。
それも僕の緊張を越えた気持ちの表れではあるのだが。
そしてドアが開き、講師だろうか女性と共にリビングに入って来た彩は僕を見るなり驚いた表情を見せた後、顔をくしゃくしゃにし僕に駆け寄って僕の胸に飛び込んできた。
僕はどうしたら良いか分からないでいると、笹沼と目が合い笹沼が頷くので、彩を抱きしめた。
すると僕の目には彩しか見えなくなり、僕の耳には彩の嗚咽しか聞こえなくなった。
目や耳は塞がっていないのに。
だから、笹沼や安藤、佐久間とさっきまで共にいたであろう講師が部屋から出て行ったことは気付かなかった。
もちろん部屋を出て行くときに僕等に声をかけたかどうかも分からない。
暫くそのままでいると、まだ嗚咽が止まらない彩は顔を上げるとにっこりと笑い「やっと会えた」と僕の唇に自分の唇を合わせた。
僕にはどうする事も出来ずされるがままであった。
それはものの数秒のことであっただろうが、何十分にも感じる時間であった。