第7話(最終話) 昨日の僕は、もういない。
『最初に装置を作ったのは
誰だった?』
白衣の僕が言った。
その言葉だけが
暗闇に残っていた。
高橋が操作盤を叩く。
「映像を戻せ」
反応はない。
312台のモニターは
すべて消えていた。
僕は目を閉じた。
考える。
四年前。
観測実験。
312回。
僕は参加者だった。
そう思っていた。
でも本当にそうだったのか。
頭の中には
312人分の記憶がある。
営業マン。
医師。
経営者。
研究者。
教師。
会社員。
どの人生にも
共通する記憶があった。
あの装置。
僕はずっと
使う側だったと思っていた。
違う。
もっと前だ。
研究室。
白い壁。
机の上に
小さな装置がある。
その前に
白衣を着た僕がいた。
僕は装置を
見ていたんじゃない。
作っていた。
「思い出した」
高橋が振り返る。
「何を?」
「僕は被験者じゃない」
記憶がつながる。
僕は
研究者だった。
人間の選択によって
分岐する可能性を
観測する研究。
その装置を作ったのは
僕自身だった。
「でもお前は
営業部にいた」
高橋が言う。
「それも本当だ」
僕には分かった。
営業マンだった僕も
研究者だった僕も
どちらも存在した。
ただし
順番が逆だった。
最初にいたのは
白衣の僕。
研究者の僕が
最初の観測を行った。
観測対象として
選んだ人間も
僕自身だった。
別の人生を選んだ
自分を観測するために。
最初に観測したのが
営業マンの僕。
そこから
可能性が分岐した。
1。
2。
3。
やがて312。
僕は
自分自身を観測し続けた。
もっと成功した自分。
もっと幸せな自分。
違う仕事を選んだ自分。
結婚した自分。
独身の自分。
「じゃあ313番は」
高橋が呟く。
僕は答えた。
「最初の僕だ」
白衣の僕。
312の可能性を
生み出した観測者。
313番ではない。
正確には
番号を持たない僕。
その瞬間。
中央モニターが点灯した。
白衣の僕が映る。
『正解』
僕と同じ声だった。
『ようやく
ここまで来た』
「何が目的だ」
僕は聞いた。
白衣の僕が笑う。
『帰ることだ』
「どこへ?」
『現実へ』
高橋が前へ出る。
「現実は
病室の世界だろ」
白衣の僕は
首を振った。
『違う』
画面が切り替わる。
病室。
眠っている僕。
その横に高橋。
映像が
少しずつ引いていく。
病室の外。
病院。
街。
さらに遠く。
そして
映像が止まった。
世界全体が
巨大な球体の中にあった。
球体の外には
無数の装置。
『それも観測世界だ』
高橋が固まった。
僕も
言葉を失った。
『312番目の世界』
第6話の警告は
本当だった。
「じゃあ
本当の現実はどこだ」
白衣の僕が答える。
『ここだ』
映像が切り替わる。
研究室。
中央に
一人の男が座っている。
白衣の僕。
頭には
観測装置。
その横に
時計がある。
午前8時02分。
僕は時計を見た。
「8時03分……」
すべての世界で
光が起きた時刻。
白衣の僕が頷く。
『現実では
まだ一分も経っていない』
理解するまで
時間がかかった。
僕が経験した四年間。
312の人生。
311回の再分岐。
すべてが
現実では
一分以内に起きている。
『装置を停止すれば
すべて終わる』
画面に
二つの選択肢が出た。
『観測を終了』
『観測を継続』
僕は画面を見る。
「終了したら
312の世界はどうなる」
白衣の僕は答えない。
「答えろ」
しばらくして
言った。
『確定されなかった
可能性として消える』
やっぱり。
妻も。
娘も。
患者も。
友人も。
312の世界にいる
すべての人間が消える。
「継続したら?」
『君は戻れない』
「それだけ?」
白衣の僕が
初めて黙った。
僕は気づいた。
「違うな」
高橋が僕を見る。
「何が?」
「こいつは
戻れないんだ」
画面の白衣の僕を見る。
「僕が観測を続ければ
現実のこいつも
装置から出られない」
白衣の僕の表情が変わった。
ようやく分かった。
なぜ313番が
僕を探していたのか。
僕を助けるためじゃない。
自分が帰るためだ。
「僕に終了させたいんだな」
返事はない。
「312の世界を消して
自分だけ現実へ戻る」
『元々
存在しなかった世界だ』
白衣の僕が言う。
その言葉を聞いた瞬間
頭の中で
何百もの声がした。
怒る声。
泣く声。
笑う声。
その中に
結衣の声があった。
『パパ』
僕は思った。
存在しなかった?
違う。
僕は覚えている。
小さな手。
笑った顔。
美咲と食べた夕食。
医師だった僕が
救った患者。
教師だった僕を
慕っていた生徒。
312人の僕が
それぞれ生きた時間。
観測から生まれたとしても
そこで生きている人にとっては
それが現実だ。
僕は
『観測を継続』へ
手を伸ばした。
高橋が言う。
「待て」
僕は振り返る。
「押せば
お前は帰れない」
「分かってる」
「永遠に
ここに残るかもしれない」
「それでもいい」
高橋が
僕の腕を掴んだ。
「よくない」
初めて
高橋が怒鳴った。
「311回も
同じことを言ってる!」
僕は動きを止めた。
「俺はそのたびに
お前を探した」
「何度も説明して
何度もここまで連れてきた」
「もう終わらせろ」
高橋の目には
涙が浮かんでいた。
僕はようやく
気づいた。
苦しんでいたのは
僕だけじゃない。
高橋も311回
繰り返していた。
僕を助けるために。
「ごめん」
僕が言う。
高橋は首を振った。
「謝るな」
そして
画面を見る。
「第三の選択を探せ」
「第三?」
「お前はいつも
二つから選ぼうとする」
帰るか。
残るか。
成功か。
失敗か。
世界を残すか。
消すか。
ずっとそうだった。
でも
312の世界が存在するなら。
選択肢は
二つだけじゃない。
僕は
操作盤を見る。
観測終了。
観測継続。
その下に
小さな表示がある。
『観測者 2』
僕。
そして白衣の僕。
いや。
違う。
高橋がいる。
「高橋」
「何だ」
「観測者って
世界を外から見る人間だよな」
「ああ」
「だったら」
僕は高橋を見る。
「世界の中に
観測者を残す必要はない」
高橋が
目を見開いた。
僕は操作盤を開いた。
312人分の知識が
頭の中にある。
その中には
研究者だった僕もいた。
装置の構造が
分かる。
観測を終わらせず
観測者だけを切り離す。
世界を
独立させる。
高橋が言った。
「そんなことできるのか」
「分からない」
「失敗したら?」
僕は少し笑った。
「312人も僕がいるんだ」
「一人くらい
正解を知ってるだろ」
頭の中から
知識を集める。
研究者。
技術者。
医師。
数学者。
312通りの僕。
今まで
競わせていた可能性を
初めて協力させる。
操作盤へ
数字を入力する。
312。
ENTER。
警報。
『観測系から
対象世界を切断します』
白衣の僕が叫んだ。
『やめろ!』
僕は続ける。
『切断後の世界は
観測不能になります』
それでいい。
観測されなくても
存在できる世界にする。
『実行しますか』
僕は高橋を見る。
高橋が
小さく頷いた。
実行。
世界が
真っ白になった。
あの光。
第1話と同じ。
でも今回は
目を閉じなかった。
312の世界が見えた。
一本ずつ
光の線が切れていく。
消えているんじゃない。
離れていく。
それぞれが
別々の世界として
遠ざかっていく。
最後に
白衣の僕が見えた。
『待て!』
彼の世界も
遠ざかっていく。
「自分で作ったんだろ」
僕は言った。
「だったら
自分の世界で生きろ」
光が消えた。
目を開ける。
バスの中だった。
いつもの出勤バス。
窓際の席。
スマホを見る。
午前8時03分。
たった一分。
僕は慌てて
周囲を見る。
乗客。
18人。
全員いる。
高橋もいた。
隣の席で
眠っている。
「高橋」
肩を揺らす。
「ん?」
高橋が目を開ける。
「何だよ」
僕は何も言えなかった。
生きている。
会社へ着いた。
エレベーター。
七階。
営業部。
自分の席へ行く。
パソコンを開く。
営業成績。
最下位。
思わず笑った。
佐藤が
不思議そうに見る。
「どうしたんですか」
「いや」
「何でもない」
課長が歩いてくる。
また怒られる。
そう思った。
でも
怖くなかった。
成績トップの僕もいた。
社長の僕もいた。
医師の僕もいた。
312通りの人生を
僕は知っている。
でも
どれが正解でもない。
今ここにいる僕も
その一つだ。
昼休み。
スマホを見る。
美咲という連絡先はない。
結衣もいない。
少しだけ
胸が痛んだ。
でも
消えたわけじゃない。
どこかの世界で
二人は生きている。
そう思えた。
帰宅する。
十二万円しかない
銀行残高。
狭いアパート。
昨日まで
嫌いだった人生。
でも今日は
少し違って見えた。
机の上に
古いスマホがあった。
僕は固まった。
持ち帰った覚えはない。
画面が光る。
動画はない。
代わりに
一件だけ通知。
『観測終了』
その下。
『独立世界 312』
成功した。
僕は
息を吐いた。
さらに
新しい文字が出る。
『観測者 0』
これで終わりだ。
スマホを置こうとした。
その瞬間。
数字が変わった。
『観測者 1』
僕は動きを止めた。
誰だ?
画面に
メッセージが現れる。
『外部からの
観測を検出しました』
背中が冷たくなる。
さらに一文。
『対象世界』
僕は息を止めた。
『313』
今いる世界だった。
スマホのカメラが
勝手に起動した。
画面には
僕が映っている。
その背後。
部屋の窓の外に
白衣の男が立っていた。
二十一階でもない。
ここは二階だ。
それでも
窓の外に浮かんでいる。
僕と同じ顔。
白衣の僕。
ゆっくり
口が動いた。
「見つけた」
部屋が
一瞬だけ白く光った。
僕は目を閉じなかった。
もう
逃げるつもりはない。
昨日までの僕なら
きっと怯えていた。
でも。
昨日の僕は
もういない。




