第1話 出勤したら、僕は会社のエースになっていた
その光を見たのは
ほんの一瞬だった。
いつもの出勤バス。
いつもの窓際の席。
会社まであと二駅。
窓の外を見ていた瞬間
街全体が真っ白になった。
眩しい。
反射的に目を閉じた。
数秒後。
恐る恐る目を開ける。
何も変わっていなかった。
同じバス。
同じ乗客。
窓の外には
見慣れた街が流れている。
雷でも落ちたのだろうか。
そう思って
スマホを見る。
午前8時21分。
まずい。
今日もギリギリだ。
僕は営業会社に勤めている。
入社して四年。
営業成績は
ほぼ毎月最下位だった。
昨日も上司から
一時間近く怒鳴られた。
「何回言わせるんだ」
「お前だけ数字が違うだろ」
周囲の社員は
誰も助けてくれなかった。
当然だ。
会社では僕を
こう呼ぶ人までいる。
万年最下位。
今日も朝礼で
何を言われるのか。
考えるだけで
胃が痛くなった。
バスが会社前に着く。
僕は重い足取りで
会社へ向かった。
エレベーターに乗り
七階のボタンを押す。
扉が開いた。
「おはようございます!」
僕は足を止めた。
受付の女性が
立ち上がっていた。
僕に向かって
深く頭を下げている。
「……おはようございます」
何だ?
いつもなら
軽く会釈する程度だ。
オフィスへ入る。
すると今度は
後輩の佐藤が駆け寄ってきた。
「先輩!」
満面の笑みだった。
「昨日の契約
やっぱり決まりました!」
「契約?」
「何言ってるんですか」
佐藤が笑う。
「三千万円の案件ですよ」
意味が分からない。
そんな案件
担当した覚えがない。
「さすがですね」
佐藤は興奮していた。
「これで今月も
トップ確定じゃないですか」
僕は固まった。
「トップ?」
「営業成績ですよ」
聞き間違いだと思った。
僕は昨日まで
最下位だった。
そのとき
背後から声がした。
「おはよう」
身体が硬くなる。
課長だった。
昨日
僕を怒鳴った本人だ。
反射的に頭を下げる。
「おはようございます」
「どうした?」
課長は笑っていた。
「そんなに固くなるなよ」
そして僕の肩を叩いた。
「昨日も助かった」
「……はい?」
「例の大型案件だよ」
課長が小声になる。
「部長も喜んでたぞ」
昨日とは
別人みたいだった。
「今年も表彰
狙えるんじゃないか?」
そう言って
課長は去っていった。
何かがおかしい。
僕は自分の席へ向かった。
そこでまた
足が止まった。
席がない。
正確には
いつもの席に
別の社員が座っていた。
「すみません」
僕が声をかけると
相手が不思議そうに見る。
「どうしました?」
「僕の席……」
「え?」
周囲を見る。
すると佐藤が
離れた場所から叫んだ。
「先輩!」
指さした先には
窓際の大きなデスク。
昨日まで
主任が使っていた席だった。
机の上には
僕の名前がある。
そして名前の横に
見覚えのない肩書。
営業主任。
僕は椅子に座った。
パソコンを起動する。
パスワードは
いつものもので入れた。
社内システムを開く。
営業成績。
自分の名前を探した。
すぐに見つかった。
一番上だった。
年間契約額
1億8400万円。
営業順位
1位。
十二か月連続トップ。
何度見ても
僕の名前だった。
手が震えた。
昨日までの僕は
最下位だった。
それが一晩で
会社のエースになっている。
夢なのか?
頬をつねった。
痛い。
「どういうことだよ……」
履歴を見る。
そこには
僕が知らない仕事が
大量に残っていた。
大型契約。
社内表彰。
新人研修の講師。
社長賞。
全部
僕がやったことに
なっている。
スマホを開いた。
銀行口座を見る。
残高。
6,821,440円。
思わず画面を閉じた。
もう一度開く。
変わらない。
昨日の残高は
十二万円ほどだった。
さらにメールを見る。
知らない店から
予約確認が届いている。
高級レストラン。
二名。
今日の19時。
誰と?
カレンダーを開く。
そこには
見覚えのない予定があった。
『美咲 記念日』
美咲?
連絡先を検索する。
出てきた。
ハートマーク付き。
トーク画面を開く。
『今日楽しみにしてる』
『仕事ばっかりしないでね』
その上には
二人で撮った写真。
僕と知らない女性が
笑っていた。
写真の中の僕は
今よりずっと自信に満ちている。
高そうなスーツ。
腕には
見たこともない時計。
背景は
豪華なホテルだった。
頭が追いつかない。
仕事。
金。
恋人。
役職。
昨日まで僕が
持っていなかったものが
全部ある。
昼休み。
僕は会社を抜け出した。
自宅へ戻る。
何か確認したかった。
いつものアパートへ行く。
二階へ上がる。
203号室。
鍵を差し込む。
回らない。
何度試しても
開かなかった。
「なんで……」
そのとき
後ろからドアが開いた。
隣人のおばさんだった。
「あの」
僕は声をかけた。
「203号室の者ですけど」
おばさんが
怪訝な顔をした。
「203?」
「はい」
「そこ三年くらい
空き部屋ですよ」
背中が冷たくなった。
スマホで
自分の住所を確認する。
そこには
知らない住所があった。
市内中心部。
高層マンション。
僕はタクシーで向かった。
エントランスで
恐る恐る鍵をかざす。
開いた。
二十一階。
部屋の鍵も開いた。
中へ入る。
広いリビング。
大きなテレビ。
高そうな家具。
クローゼットには
スーツが並んでいる。
全部僕のサイズだった。
洗面所の鏡を見る。
映っているのは
間違いなく僕だ。
でも
僕の人生ではない。
そこで思い出した。
朝の光。
あれ以降だ。
すべてがおかしくなった。
僕はスマホで検索した。
『突然 別の人生』
『記憶 違う世界』
『パラレルワールド』
いくつもの記事が出てきた。
無数の世界が
同時に存在するという仮説。
違う選択をした自分。
成功した自分。
失敗した自分。
別の人生を歩む自分。
馬鹿げている。
そう思うはずだった。
でも今の状況を
他にどう説明すればいい?
もし本当に
別の世界へ来たのなら。
僕はソファに座った。
少しだけ
笑ってしまった。
戻る必要なんて
あるのだろうか。
ここでは
誰も僕を馬鹿にしない。
上司にも認められている。
金もある。
恋人までいる。
昨日までの人生より
ずっといい。
だったら。
このままここで
生きればいいんじゃないか。
そう思った瞬間だった。
テーブルの上に
一台のスマホがあることに
気づいた。
僕のものではない。
古いスマホだった。
画面が突然光る。
ロックはかかっていない。
一件の動画が
保存されていた。
撮影日は
昨日。
再生する。
画面に映った人物を見て
息が止まった。
僕だった。
同じ顔。
同じ声。
ただし
ひどく怯えていた。
動画の中の僕が
カメラへ近づく。
「これを見てるってことは」
声が震えている。
「また来たんだな」
また?
動画の僕は
何度も後ろを確認した。
そして言った。
「いいか」
「明日の朝
絶対にバスに乗るな」
心臓が速くなる。
「光を見ても
目を閉じるな」
画面の僕が
さらに近づいた。
「ここは
成功した世界じゃない」
そこで映像が乱れた。
激しいノイズ。
最後に
数秒だけ声が聞こえた。
「俺たちはもう
六人消えてる」
動画が終わった。
僕は動けなかった。
六人?
誰のことだ。
その瞬間
古いスマホに
通知が表示された。
見知らぬアプリ。
そこには
数字だけが並んでいた。
18
15
11
6
3
そして一番下。
明日の乗車人数。
『1』
その直後
僕のスマホにも
通知が届いた。
バス会社からだった。
『明日のご乗車を
お待ちしております』
予約した覚えはない。
画面には
いつもの路線。
いつもの時刻。
午前8時03分。
そして座席番号。
『1』
僕は窓の外を見た。
遠くの道路を
一台のバスが走っていた。
次の瞬間。
車内から
あの白い光が漏れた。




