#090 「夜の逃避行」
夜の帳が、東都古苑を静かに包んでいた。旅館の廊下は、息をひそめたように静まり返っている。足音ひとつが、やけに大きく響きそうなほどに。カーテン越しの月は、薄雲に滲んで揺れていた。
「……みんな、行く?」
いちかの小さな声。
はるなが、すぐに頷く。
「うん。行こう。外の空気、少し吸いたい」
その言葉に、他の四人も静かに動いた。想太、美弥、要、隼人。すでに支度は終わっている。靴を手に持ち、音を殺して廊下を進む。障子の影が、ゆっくりと揺れる。扉の前で、一瞬だけ立ち止まる。そして――外へ。
その瞬間、ドアロックがかすかに光った。淡い青。
【外出検知】
【対象:特別クラス】
【監視体制:緩和モードに切替】
「……緩和モード?」
要が小さく笑う。
「SPたちに“お忍び散歩”がバレてるってことだ」
「えっ!? バレてるの!?」
いちかが目を丸くする。
隼人が肩をすくめた。
「当然だろ? 俺たちの後ろ、黒スーツが十人ぐらい歩いてるぜ」
「逃避行って言葉の意味……」
美弥がため息をつく。
「完全に“守られ行”ね」
一瞬の沈黙。そして――六人は、同時に笑い出した。
見張られている。守られている。それでも、この瞬間だけは、確かに“外”だった。
門を抜ける。風が、頬を撫でる。ひやりとした夜気。土の匂い。遠くで、フクロウの鳴く声。
「わぁ……」
はるなが空を見上げる。広がる星空。街の灯りが届かない場所。どこまでも深い、黒い空。
「こんなに星、見えるんだ……」
想太の声が、わずかに震える。それは、ただの驚きじゃない。“観測されていない空”を、初めて見た感覚。
どこにも記録されない。誰にも定義されない。ただ、そこにあるだけの空。
「ねぇ、“ともり”には見えてるのかな」
はるなが呟く。
「見えてるよ。きっと同じ空を見てる」
想太が、迷いなく答えた。その言葉に、はるなは静かに笑う。
少し離れた場所。美弥といちかが、並んで立っていた。
「お姉ちゃん……泣いてる?」
「泣いてない。……風が冷たいだけ」
「ほんと?」
「……うん。あの二人、いい顔してるから」
その声は、やわらかかった。
要は少し距離を置き、後方を見た。暗闇の中に、かすかに見える赤い光。SP車列のランプ。
「本当に“自由”って何なんだろうな」
ぽつりと漏れる言葉。隼人が、すぐに答える。
「見張られてても、こうして笑えるなら、それでいいんじゃねぇか?」
あっけらかんとした声。けれど、その中に嘘はなかった。
要が、わずかに笑う。
「……らしいな、兄貴」
一拍。
「昔の俺なら言わなかったけど、今はそれが正しい気がする」
歩みが、少し軽くなる。やがて、小さな橋にたどり着く。水面に映る月が、ゆらゆらと揺れている。葉擦れの音。静かな水の気配。
はるなが、足を止める。そっと、手を伸ばした。
「ねぇ、想太くん」
「うん?」
「今夜は、怖くないね」
「……そうだな」
橋の上。二人の影が、静かに重なる。想太は、何かを言いかけて――やめる。その沈黙は、言葉よりもはっきりしていた。もう、急ぐ必要はない。
「明日……ちゃんと話そう」
「うん。約束」
短い言葉。けれど、それは昨日よりもずっと確かなものだった。
その瞬間――風が、一度だけ強く吹く。どこかで、低い無線の声。
「……全員無事確認」
見えない場所で、守られている。でも――それでもいい。六人は顔を見合わせる。そして、笑った。
「ねぇ、これ、もう“逃避行”じゃないね」
「だな。……“夜の散歩”だ」
橋を渡る。月明かりが、静かに背中を照らす。その光の下で――ひとつの“約束”が、確かに生まれていた。




