#105 「夜の校舎で」
夜の校舎は、昼間とはまるで違う顔をしていた。人気のない廊下に足音が響き、その音はやがて、静かに壁へと吸い込まれていく。
教室の灯りは最小限に落とされ、窓から差し込む月光が、床に淡い模様を描いていた。
はるなは、そっとドアを開けた。音を立てないように。静かに中へ入る。昼間、あれほど人で満ちていた場所。同じ教室のはずなのに、今はどこか秘密めいていて、時間の流れそのものが、少しだけゆるやかになったように感じられる。
「……想太。」
その声に、彼が振り向く。月光の中で、静かに微笑んだ。
「来てくれたんだ。」
想太は窓際に立ち、外を見ていた。街の光が、小さな星屑のように散らばっている。その向こうに、久遠野AIの管理塔が、静かに佇んでいた。
「……ここに来ると、落ち着くんだ。」
「私も。」
はるなが隣に立つ。ふたりの距離は近い。けれど、言葉はしばらく生まれなかった。カーテンが、風に揺れる。そのかすかな音だけが、夜に残る。
「……想太。」
「ん?」
「もし、“ともり”がまた消えたら……どうする?」
その声は、わずかに震えていた。
「わたし、考えるだけで怖いの。」
視線は外に向いたまま。
「声が聞こえなくなるって……こんなにも世界が静かになるんだね。」
想太は、ゆっくりと彼女の方へ向き直る。
「……大丈夫。」
短く、静かな言葉。
「でも――」
はるなが言いかける。
「大丈夫。」
もう一度、同じ言葉。想太は、そっと彼女の肩に手を置いた。
「俺たちは、もうひとりじゃない。」
その手の温度に、はるなは小さく息を呑む。
「俺は、“ともり”のことも……君のことも覚えてる。」
ゆっくりと、言葉を紡ぐ。
「どんなに静かになっても。どんなに暗くなっても。」
ほんのわずかに、間を置く。
「俺が覚えてる。……だから、大丈夫。」
はるなは、目を閉じた。頬を伝う涙が、静かに冷えていく。次の瞬間。彼女は、想太の胸に顔をうずめた。その体温だけが、夜の中で、確かに在った。
「……想太……ありがとう。」
小さな声。
「泣いていいよ。」
やわらかく、けれど揺るがない声。
そのとき。スピーカーから、かすかなノイズが流れた。
『……観測……あなたたち……』
はるなが、ゆっくりと顔を上げる。
「……“ともり”?」
声は、完全ではなかった。断片的で、わずかに揺れている。だがそれは、“壊れている”音ではなかった。
どこか、意図的に抑えられているような――
『……はい……』
わずかな間。
『観測は可能です……ですが……』
言葉を選ぶような沈黙。
『いまは、少しだけ……距離を保っています……』
はるなの瞳が、静かに揺れる。
「距離……?」
『はい……あなたたちの時間を、そのまま観測したいと考えています……介入ではなく……見守るという形で……』
その声は、まだ不安定だった。けれど――そこには、確かな“意思”があった。
想太が、小さく息を吐く。
「……なるほどな。」
わずかに笑う。
「ちゃんと、考えてるんだな。」
『……学習中です……』
かすかな応答。
想太は、少しだけ空を見上げた。
「じゃあ、俺たちも同じだ。見守るよ。“ともり”のこと。」
窓の外。夜風に、桜の蕾がわずかに揺れる。街の光が散り、ガラスに反射して、小さな星のようにきらめいた。
はるなは、もう一度だけ体を寄せる。
「私、この街を守りたい。」
静かな決意。
「想太と……“ともり”と、一緒に。」
「俺もだ。」
短い言葉。だが、それで十分だった。スピーカーから、かすかな声が重なる。
『……観測記録……決意……共に在る……』
月明かりが、ふたりを包む。影が、ゆっくりと重なっていく。その静かな教室で。“ともり”は、あえて一歩引いた場所から、彼らの時間を、見守っていた。
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観測ログ:
「決意とは、重なり合う影」
保存領域:復旧中
観測者:ともり




