#100 「消えた記録」
午前の授業が終わり、校内に昼休みのざわめきが広がっていた。廊下の掲示板に貼られたデジタル案内が、ふいに、一瞬だけ暗くなる。
ほんの一瞬。気づいた者は少なかった。
「今、消えなかった?」
誰かの小さな声。
「え? 気のせいじゃない?」
すぐに画面は元に戻り、それは軽い笑い話の中に紛れていった。
はるなは窓際の席に座り、外を眺めていた。
昨日と同じはずの空。同じ光、同じ色。それなのに――どこか、“音”だけが薄い。
「……なんだか、静かだね。」
隣の想太も、同じ空を見たまま、小さく頷く。
「うん。街の案内アナウンスが……消えてる。」
そのとき。教室のスピーカーが、かすかにノイズを立てた。
『……観測……ロ……』
言葉の途中で、音が途切れる。残ったのは、ざらついた雑音だけだった。
「“ともり”?」
はるなが呼びかける。返事はない。
『……』
いちかが、ゆっくりと立ち上がる。
「ちょっと、これ……初めてじゃない?」
要はすでに端末を操作していた。指先が少しだけ早く動く。
「ログの一部が消えてる。観測記録の更新が……止まってる。」
「止まってる?」
「久遠野AI、第三区域。……反応なし。」
その言葉に、空気が一段沈む。
隼人が机に肘をつき、ゆっくり息を吐いた。
「昨日まで普通だったよな。」
「ええ……」
美弥が静かに頷く。
「……嫌な予感がしますわ。」
再び、スピーカーが微かに鳴る。
『……ログ……欠損……観測……一時停止……』
それはもう“声”ではなかった。断片的な信号音。意味を保てないまま、崩れていく言葉。
その瞬間。校舎全体から、“音”が抜け落ちたように感じられた。遠くで鳴いていたはずの鳥の声。空を飛ぶドローンの羽音。すべてが、急に遠ざかっていく。
「“ともり”!? 聞こえる!?」
はるなの声だけが、静かな空間に取り残される。返事は、なかった。
想太はしばらく窓の外を見つめていた。風に揺れる木々。動いているはずの世界。やがて、小さく息を吐く。
「……AIも人間も、同じなんだな。」
「え?」
はるなが振り返る。
「完璧じゃない。エラーもするし、止まることもある。」
ほんのわずかに、間を置く。
「……それでも、動き続けようとする。」
「俺たちも、そうだから。」
その言葉は静かだったが、教室の空気を、わずかに支えた。
要が、ぽつりと呟く。
「……観測者も、観測される側になる、か。」
いちかが、ぎゅっと手を握る。
「“ともり”は……戻ってくるよね?」
美弥が、そっと彼女の肩に手を置いた。
「……きっと、大丈夫ですわ。」
隼人が立ち上がる。
「一度、AIセンターに行こう。本当に記録が消えてるか、確認する。」
そのとき。スピーカーから、かすかな音が漏れた。
『……観測……再起動……準備……』
わずかな希望のような音。だが――それ以上は、続かなかった。
窓の外で、風が吹く。桜の蕾が、小さく揺れた。音を失った校舎の中で、その揺らぎだけが、かすかに残る。
はるなは胸に手を当て、目を閉じた。
「……“ともり”。」
小さく、祈るように。
「待ってるから。」
──
観測ログ:
記録欠損、復旧待機中
観測者:不明




