玉藻の前、最期の戦い~エピローグ
「うっ、まさかこんな結末になるなんて・・・」
阿野廉子と高師直の死を目の当たりにして、北朝方も南朝方も区別なく皆が呆然と立ちすくんでいた。
これで北朝の勝利はほぼ確定と言いたいところだが、俺は油断することなく周囲を探っていた。廉子は死んだが、玉藻の前が残っているからな・・・。
案の定、俺の前に玉藻の前が現れ、俺に向かってこう言った。
『いやあ、この国が爆発で吹き飛ぶのを見られなかったのは残念じゃが、なかなかに面白き物を見せてもらい儂は満足じゃ。義貞よ、褒めて遣わす。では、儂は長き眠りにつくとしようかの・・・。義貞よ、何をする』
「ふん、散々やりたい放題やって、気分が良くなったらおさらばかよ。そんなこと認められるかっていうんだ。それに、ある程度満足して(鎮魂されて)力の弱まった怨霊なんぞ、怖くもなんともないわ」
俺は玉藻の前を羽交い絞めにすると、義興・宣子・祟り神に『俺ごと玉藻の前を浄化するよう』指示をした。
浄化の光が、俺と玉藻の前を包む。
『おのれ、義貞。儂をどうするつもりじゃ』
「ふん、お前の持つ全ての心残りを晴らさせてやる。黙って鎮魂されるがいいさ」
光が収まるのと同時に、俺と玉藻の前の意識は過去へと飛んだ。
うん?ここは何処だ。
あれっ、俺の身体は半透明で、何か宙を浮いているんだけど。
いったい、どうなったっていうんだ。うっ、頭が痛い。
俺の頭の中に、色々な知識が流れ込む。
俺は、御霊の力で紀元前11世紀ごろの中国、すなわち殷王朝末期の紂王の時代に飛ばされたわけか。
それで、あそこにいる美女は・・・、蘇妲己ね。
玉藻の前伝説の原点となる、傾国の美女だ。
妲己は、この後紂王の后として悪逆非道を尽くして殷を滅亡に導くのだが、周の太公望によって退治され、その魂は三つに分かたれて飛散したという。
その三つの魂は西周・マガダ国・日本で復活し、各々の国を傾ける悪女として歴史に名を残すことになるのだが、御霊の力で災いのもとを断ち切るのが俺の使命というわけね。
よーし、一丁やってやろうじゃないか。
とりあえず、紂王の后ルートのフラグを潰して、あとはあーしてこうして・・・。
結局、妲己は紂王の后になることもなく、幼馴染と結婚して幸せな人生を送ったという。
めでたし、めでたし。
さーて、俺はどうしようかな。
このまま、時空の狭間を永遠に彷徨うことになるのかな。
まあ、全力を尽くした結果、新田義貞の犬死人生を修正できたし、南北朝の騒乱も短期間で収めることができた。
俺としては、上出来じゃないかな。うん、満足・・・か?
いや、俺は家族との約束を果たしていない。世の中が平和になったら、家族みんなで藪塚温泉に浸かり、温泉街の娯楽施設で遊ぶという約束を。
俺は、生きて新田荘に帰るぞ。
うおーっ、祟り神よ、来い。
俺の目の前に、ネズミの姿をした祟り神が現れた。
「祟り神殿、お願いだ。俺を新田荘に、家族の下に返してくれ」
『フフフ、師直も言っていたであろう。神の力とは大雑把でいい加減なもの。願えば何でも叶うのじゃ。そして、全ての無念を晴らした今、我は御霊として完全に生まれ変わったのだ。さあ、徳業よ。強く願え』
「俺を、元の時代に戻してくれ」
『その願い、叶えて進ぜよう』
俺は、まばゆい光に包まれた。
(ところで、無念を晴らした祟り神殿は、これからどうなさるのか?)
『我は、御霊として日本を永遠に見守り続けることになるな。そなたの所に顔を出せぬようになるが、もうそなたは我の手助けなど必要あるまい。我は常世で、そなたは現世で、日本が少しでも良い国になるよう互いに努力しようではないか』
(ああ、祟り神殿に失望されぬよう努力しよう)
『実質四年程度の付き合いであったが、そなたとの思い出は我の宝じゃ。今まで迷惑をかけた分、これからは家族を大切にするのじゃぞ』
(祟り神殿、分かっておりまする)
『では、これでお別れじゃ。そなたは、自身に課せられた使命を必ずや果たすのじゃぞ』
(必ずや、日本を豊かで強い国にしてみせましょう)
俺を包む光は益々強くなり、俺の意識は光の中へと消えていった。
「・・・・・あれ?ここは吉野山か。おお、皆も居るではないか」
気付くと、俺は金峰山城の蔵王堂前に立っていた。
「義貞様」
「父上」
「兄者」
皆が俺に抱き付いてきた。
「フフッ、これじゃあ俺はつぶれてしまうぞ」
「義貞様、無事お戻りになられてなによりです」
「うん、俺自身無事戻れたことに驚いているよ」
「殿、後村上帝が三種の神器を持って降伏しました」
「よっしゃ。これで戦乱の大本を絶つことができるぞ」
「ここ数年いくさに明け暮れておりましたが、ついに平和な世となるのですな」
「ああ、そうだ。これからは内政に力を入れ、国力を上げることに集中しよう。日本を強い国にするため、新田荘で建設中の反射炉も早く完成させないとな。あと、西欧諸国から日本人がいいカモにされないためにも、思想面の改革を進めないと。やたらと威勢の良いバサラ大名どもには、海外進出をさせるとしよう。そうすれば、日本の領土も増えるし、奴らが京で騒ぎを起こすこともなくなるだろうし、一石二鳥だな。それから・・・」
俺は、明るい未来について周囲の者たちと語り合うのであった。
建武三年(1336年)七月十七日、南朝の後村上帝が北朝に降伏し、両統は合一された。
建武四年(1337年)正月、征夷大将軍新田義貞は上野国新田荘にて新田幕府設立を宣言するとともに、将軍位を嫡男義顕に譲った。これ以降、日本の首都は新田荘に置かれることとなるが、地震に強く津波の被害も受けない内陸部に首都を置いたことについては、関東大震災や東日本大震災の際にその先見性を高く評価されるのであった。なお、義貞が設計した藪塚温泉郷は後世天下人の湯として栄え、外国人観光客も多く訪れたという。
その後の義貞は、大御所として関西以西の統治を担当し、新しい農業や産業を全国各地に広めた。そして、生産量の増大した農作物や工業製品を売るため、海外貿易を振興した。ちなみに、榛名山麓の秋間村でワイン生産を始めたのも、義貞の指示によるものと言い伝えられている。
日本の商品を世界中に広めるため、多くの若者が南蛮船に乗って海外進出し、元・台湾・フィリピン・インドネシア・タイ・インドなどに日本人居留地が造られた。
義貞は、国を強くすることにも力を注ぎ、日本各地に反射炉を建造し、大砲や銃を大量生産した。これらの武器は、アジア・アフリカ・南北アメリカにも輸出されたため、後に西欧諸国が海外進出と植民地獲得を試みるも、逆に返り討ちに遭ったという。
義貞による改革は思想面にも及んだ。義貞が出現して初めて、日本人が自身を客観視することを始めたのである。ここにおいて、日本人は怨霊信仰・言霊信仰・ケガレ忌避といった日本教の存在を認識し、それに振り回されない生き方を模索し始めたのであった。
海外進出を国是とした義貞大御所時代の日本は、農業や工業の生産性が急上昇し、日本の国力が急成長した時代でもあった。
国力が増大すると、つい暴走してしまうのが日本人の常であったが、義貞の思想が国の思想として日本に定着し、日本人がきちんと国益を考えて理性的に行動するようになった結果、新田幕府は、北はアラスカ、南はオーストラリアに至る大帝国を築き上げることになるのだが、その話は別の機会にすることとして、ひとまずこの物語を終わりにしようと思う。
おしまい




