百八回目
――学校、自分の教室、自分の机、愛莉はふと思案した。システムは開放条件を満たしていないと言った、開放条件とは一体何のことなのか…
机の下でスマホを開いた。メモ帳アプリ。指が走る。
整理していく。「システムの警告」「結ばれる運命にない」「三度死んだ」「開放条件未達成」
ペンで唇を叩く癖。考える時の仕草。
条件……何が足りない?
普通に考えれば好感度。だが三度の死は真斗と付き合った後に起こった出来事だ。好感度は十分だったはず。では何だ?
はっと顔を上げた。一つの仮説が閃いた。荒唐無稽。でも筋は通る。
「真斗が自らの意思で、何にも縛られず、能力も運命も関係なく、ただ愛莉という人間を愛する」——それが開放条件だとしたら。
スマホの画面を見つめたまま動けなくなった。自分の能力が初めて自分を否定していた。
その仮説が正しいとしたら
どうすれば良いのだろうか
答えは明白だった。能力を使わないこと。セーブもロードも改変も全て封印すること。
自嘲気味に笑った。乾いた音だった。
「無理ゲーじゃん……」
能力と共に生きてきた。能力で人脈を作り、能力で真斗に近づき、能力で邪魔者を排除した。それが愛莉の全てだった。裸の自分に何が残る?
爪を噛んだ。無意識の自傷。
チャイムが鳴った。一限目。英語。教師が入ってくる。周囲がざわめきながら着席する。
教科書を開いた。文字の羅列が目に入らない。頭の中をぐるぐると回っているのは一つだけ。
能力なしで真斗を振り向かせる方法。根暗でコミュ障だった自分が。ストーキングと盗聴と侵入でしか関われなかった自分が。
ノートの端に無意識に「好き」と書いていた。慌てて塗り潰す。その下から「頑張れあたし」と書いた。震えた字だった。
能力に覚醒する前の月島愛莉に戻る。それが唯一の道だった。最も険しく、最も遠く、そして最も誠実な道。
――放課後
帰り道。一人。イヤホンもつけずに夕焼けの中を歩いた。いつものルート。遠回りして真斗と同じ道を通る習慣。今日はまっすぐ帰った。
自宅。玄関を開ける。靴を脱ぐ。部屋に入る。暗い部屋。電気をつけないまま壁にもたれた。
盗聴器のアプリが通知を出していた。「真斗帰宅」の自動送信。いつもなら真っ先に再生する。今日は通知をオフにした。指が震えた。
暗闇の中で膝を抱えた。小さくなる。能力に目覚める前、教室の隅で一人本を読んでいた頃の自分。あの頃に似ていた。
机の引き出しから一冊のノートを引っ張り出した。表紙に「日記」と書いてある。最初のページ。高一の字。下手くそで丸っこい。
開いた。「今日も話せなかった。でもあの人が笑ってたからいいや」
ページをめくる手が止まらなかった。涙がぽたぽたとノートに落ちて、インクを滲ませた。
――月曜日
愛莉はいつもより早く家を出た。コンビニに寄る。肉まんを二つ買った。理由は特にない。なんとなく。
いつもの駅。少し早い時間。人はまばら。空気が冷たい。白い息を手に吹きかけた。
バス停に真斗の姿を見つけた。いつもの時間より早かった。珍しい。
心臓が暴れた。落ち着け。普通にしろ。能力者じゃない。ただの女子高生。
半歩分の距離を保って近づいた。肉まんの袋をがさごそ開けながら。
「真斗くん!おはよ!朝ごはん食べた?」
肉まんを差し出した。湯気が立っている。
「愛莉ちゃん!おはよ!何も食べてないよ、良いの?」
「いいよいいよ、余っただけだし。」
余ってない。最初から真斗の分だった。そんなことは死んでも言わない。
もぐもぐしながら真斗が食べるのを横目で見た。嬉しかった。こんな些細なことで。
肉まんを食べ終えて手持ち無沙汰になる。スマホもいじらない。
沈黙が流れた。気まずいのではない。穏やかな沈黙だった。
「今日さ、放課後ちょっと暇?」
愛莉の心拍数が跳ね上がった。
「うん、別に何もないけど」
ぱっと顔が明るくなった。作り物じゃない笑顔。
「じゃあさ、駅前に新しくできたクレープ屋行かない?一人だと入りづらくて。」
言い訳としては上出来だった。本当は何度も下見済みで全メニュー把握している。そんなことは墓まで持っていく。
学校に着く。昇降口で別れた。愛莉が小さく手を振った。控えめに。指先だけ。
授業が過ぎていく。時計の針が遅い。
六限目の終鈴が響いた瞬間、教室がざわめいた。椅子を引く音、雑談、部活の呼び出し。日常の雑音の中、愛莉は素早く荷物をまとめた。
深呼吸。髪を確認。リボンが曲がってないか。手鏡で見た。朝三回見たけどもう一回。
「おつかれ〜。行こ?」
二人で歩き出す。校門を抜ける。並木道。影が長く伸びている。
半歩隣。今日は詰めなかった。これが正しい距離だと自分に言い聞かせていた。でも時折、風で真斗側に体が傾く。その度にさりげなく戻した。触れたかった。
「ふふ、こうして歩いてるとデートみたいだね?」
唐突に真斗が発した言葉で足がもつれかけた。顔が一瞬で真っ赤になる。
「デッ……ち、違うし!友達と遊びに行くだけだし!」
声が裏返っていた。「みたい」と言われただけでこの有様。長年の片想いは伊達じゃなかった。
前髪で顔を隠すように俯いた。耳まで赤い。
二人は駅前に着いた。新しいクレープ屋。ピンクと白のストライプの看板。女子高生が数人並んでいる。
メニューボードを見上げる。事前に全種類暗記しているが初めて見るフリをした。視線が泳ぐ。
「うわ〜めっちゃ種類ある……真斗くんどれにする?」
列に並ぶ。前に三人。日差しが柔らかい。春の匂いがした。愛莉の心臓はずっとうるさかった。
「これにしようかな。」
真斗が指差したメニューを見て即座に記憶と照合した。チョコバナナ。カロリー387kcal。推奨摂取量の範囲内。健康的。よし。
「あ、それ美味しそう!あたしはストロベリーカスタードにしよ。」
順番が来た。注文する。店員が手際よくクレープを焼いていく。甘い香りが漂う。
クレープを受け取った。代金を出そうとして財布を開く真斗より先に会計を済ませていた。店員に笑顔で小銭を渡す。早業。
「真斗くんのはあたしの奢りね。」
「おごりなんて悪いよ。」
クリームを口の端につけたまま、にっと笑った。あざとさゼロの素の笑み。
「いーの。あたしに付き合ってくれてるお礼。」
いつも。そうだ、いつもだ。能力で縛って、誘導して、選ばせてきた。それが「付き合ってもらっていた」ということに今更気づく。
クレープを一口かじって空を見た。夕方に差しかかるオレンジ色。
ふと、口を開いた。何気ない調子で。
「真斗くんってさ……好きな人とかいるの?」
聞いてしまった。聞くつもりはなかった。クレープの生地をちぎる指に力が入った。答えが怖い。
――その時けたたましい電子音と共に中空に半透明のシステムウィンドウが浮かび上がった。愛莉にしか視えていない。
『―警告―
現在までに百七回運命を修正している。
近付けば近付くほど真斗の身には不幸が訪れます。』
視界の隅に赤い警告が明滅した。システムからの直接警告。初めてだった。今までは真斗の死後に表示されていた文言。
クレープが手から滑り落ちた。地面に落ちてクリームが飛び散る。拾わなかった。目は真斗だけを見ていた。
百七回――この春を百七回も繰り返している。
唇が震えていた。声が出ない。
「近づけば近付くほど」。つまり今この瞬間も。この距離で座っていることすら危険だとシステムは告げていた。
ゆっくりと立ち上がった。スカートの砂を払う。顔は笑っていた。完璧な。だからこそ痛々しかった。
「あはは……ごめん、変なこと聞いちゃった。」
一歩後ろに下がった。物理的に。たった半歩。それが途方もなく遠かった。
潰れたクレープを見下ろして。
「もう一個買おっか。」
話題を変えた。それしかできなかった。本当は叫びたかった。「あたしはどうすればいいの」と。




