プロローグ
――2010年
一年前の桜が舞い散る四月の朝。
市立八幡西高等学校へ入学して数日が経ち新しい学園生活にも少し慣れ始めた頃
神守真斗が校門をくぐると、目の前で一人の女子生徒が盛大にすっ転んだ。
手に持っていたプリントが春風に攫われ、紙吹雪の様に宙を舞う。
地面に突っ伏したまま動けない黒髪の少女がそこにいた。
顔を上げた少女の目は赤く、唇が震えていた。前髪はぐしゃりと乱れ、膝は擦りむけて赤い筋が滲んでいる。
「ひっ……あ、あの、すみません、大丈夫です、気にしないで……」
大丈夫と言いながら全然大丈夫じゃない声。誰かが助けてくれるのを待っているのか、それとも誰にも見られたくなかったのか。小さな体を丸めて縮こまっている。人見知りの塊のような少女がいた。
―その少女、月島愛莉に今の面影など欠片もなかった。友達ゼロ、自己肯定感は地を這い、廊下で誰かに話しかけられるだけで声が裏返るような、そんな少女。入学式から数日経ってもクラスに馴染めず、昼休みは一人で屋上への階段の踊り場でおにぎりを齧っていた。真斗はこの日、たまたま転がったプリントを数枚拾って渡しただけだ。名前すら聞かなかったかもしれない。
だが、それだけで十分だった。愛莉にとっては。
差し出されたプリントと、ぶっきらぼうだが確かに自分を助けてくれたその手を、愛莉は一生忘れなかった。
「……あ、ありがとう、ございます……」
消え入りそうな声で礼を言うのが精一杯だった。
それから数日後のこと。真斗が下駄箱で靴を履き替えていると、背後から視線を感じた。振り返っても誰もいない。気のせいかと思い歩き出すと、また感じる。まるで影に尾けられているような、薄気味悪い感覚。しかし振り向けば、そこにはいつも俯いて文庫本を読むふりをしているあの黒髪の少女がいた。
真斗が視線に気づいて振り向く度に、びくりと肩を跳ねさせて本の陰に隠れた。ページが逆さまなことにも気づかないほど動揺している。心臓が破裂しそうだった。バレた?見つかった?いや違う、ただ目が合っただけ。でもそれだけでもう頭が真っ白になる。
愛莉は毎朝真斗が登校してくる時間を正確に把握し、偶然を装って同じ通学路を歩くようになっていた。話しかける勇気など当然ない。「あの時プリント拾ってくれた人」の名前すら知らない。それでも、あの日の手の温もりだけが愛莉を突き動かしていた。
その夜、愛莉は自室のベッドの上で枕に顔を埋めて足をバタバタさせていた。ノートの端に無意識に書かれた文字。
「あの人と同じ空気を吸えるだけで幸せ」
翌朝、隈だらけの目で鏡の前に立つ。少しだけ前髪を整えた。たったそれだけの変化が、やがて一人の少女の人生を根底から塗り替えることになるとは、まだ誰も知らない。




