2.流石は山岳を砕いて
苔生した地表にグロテスクな、血色の触手が重なって垂れている。
その先から、根元までを辿った先は自らの肩。それは右腕があった場所から生えていた。
「ど、どうなってる……! どういうこ――」
ざらりと、垂れた触手達が地面を這った。
彼はその感覚にもしやと、意識を「右腕」に向ける。
「これは……!」
「成功のようだな」
ある確信に至った時、不意に後ろから声がかかった。
振り返ってみると先ほどの老人が手に木の器を持ち、動く触手を見ている。
「な、なぁ! これは一体……!」
「慌てるな。そいつをよく見ろ」
言われるままに、赤黒く伸びる触手を見る。
「お前の右手、元の右手の形を想像しろ。イメージが難しければ目を瞑ってもいい」
感情にぶれを感じない、何か知った風な老人の声。彼は目を閉じ、そこにあったはずのものを思った。
触手が地を擦る音が聞こえ、しゅるりと、紐が巻き戻っていくような感覚。
「……! 戻った……!?」
その感覚に確信を持って目を開けた時、目の前には完全な、傷一つ無い自分の右手があった。
「ほう…… 見事だな。魔法か何か、イメージの訓練でもやっていたか?」
老人は言いながら、彼に木の器を差し出した。器の上には切られた何かの果実、リンゴのように見えるがどこか角張っていて、色合いの濃いものが乗っていた。
彼は器を、左手で受け取った。
「見た目よりも強靱な肉体をしているようだ。その分ならば後、二、三日もすれば普通に過ごせるようになりそうだな」
満足そうな笑みを見せながら老人は近場の切り株に腰を下ろし、懐に手を入れ、木製のパイプを取り出した。
「それで、お前さんは? どこから迷いこんだ?」
「俺……? 俺は……」
老人が腰にぶらさげた袋から草を取りだし、パイプに詰めていく。どういう仕組みなのか、詰めた先から煙が出ていた。
「言い淀むことなど何もないぞ? お前さんがどこの誰だろうが、特に意味は無い。どの道この世界には儂しかおらんでな」
「……しか……?」
パイプを咥え、煙を吐く老人の物言いに目を見開く。
「やはり、違う世界から迷いこんだという所か…… ようこそ少年。ここはラリオ、精霊世界の成れの果てよ」
「精霊…… 世界……?」
彼は改めて辺りを見回した。記憶にあるこの世界の全ては砂、一向に変わらない曇り空の下にただ砂漠が広がっているだけだった。だが、この仄暗い空間には植物と、目の前には澄んだ水をたたえる池がある。
池に目をやっていた彼の周りに、何度か目にした光の玉が現れ、くるくると回った。
「おっと、儂しか、というのは間違いだったな。正確には儂と、そいつと、この世界樹とそれに群れている植物達…… それがこのラリオに残された全ての生命だ」
老人は「世界樹」という単語とともに辺りをぐるりと指差した。今、自分達はその「世界樹」という大木の中にいる。辺りの風景からもその意味が彼に伝わった。
「この世界樹も大分弱ってきておる、儂の見立てでは後数年と持つまい。つまり、少年は助かりはしたが運はなかった、そういうことだな。ああ、それ、食ってかまわんぞ」
話の内容や先ほどの右手の一件から、そんな場合かとは思いはしたが、体が弱っていることは事実だった。勧められるままに、果実を食む。
「……?」
「どうした?」
「いや、味が……」
果実のみずみずしさがなんとなく体を満たしていくのはわかるが、味がしない。喉を通る感覚すら希薄だった。
「ちょっとばかりまだ鈍いようだな。何、その内慣れるだろう」
「……すまない、俺はダテという。予想の通り外の世界から来た。砂漠を歩き続けて来ただけで今の状況が何が何やらまったくわからない…… 詳しく教えてくれ」
「ふむ…… よかろう。時間ならば有り余っとるでな」
老人はダテに、『精霊世界ラリオ』の今についてを語り出した。
~~
「巨大な…… 石?」
「そうだ、そいつが天から降って来た」
この世界の知識には空の先、宇宙という概念が無いようだったが、それはダテの知るところの『隕石』だった。
ラリオは元は世界樹を中心とした森林と、清涼な水に満たされた自然豊かな場所。それは大規模な自然界からのみ生まれる魔力、『マナ』を排出するほどの高魔力地帯、まさに精霊達にとっての楽園だった。
植物と精霊が生物の主軸となるこの世界には争いはほとんど無く、統治すら必要とされぬため「秩序」という言葉すらない。世界とそこに住まう住人、その全てが生まれながらにして理想。彼らはそんな場所で、悠久の安寧を享受していた。
「もう何百年前になるか…… 五百は超えとるだろうな。あの石はある日唐突に、巨大な火の玉として天を駆け、落ちてきた。高い山に落ちたそれは大気を震わせ、辺り一面を焼いた…… それからだ、全てが狂った」
光の玉がくるくると、少し離れた地面の上で回っていた。その場所に、見慣れた自分の服を発見し、ダテは立ち上がった。
「ただの大規模災害じゃ終わらなかった…… そういうことか?」
「左様」
のろのろとうまく動かない体を動かしながらシャツを着て、青いブルゾンの中から赤い襟のデザインされた箱とライターを取り出し、一本引き抜いて火を点けた。
独特の甘い香りが彼の周りに浮く。老人は興味深そうにそれを見ながら自らのパイプをふかした。
「それが約五百年前とすると…… ゆっくりと今の形に?」
「ふむ…… ゆっくりと、と言われるとそうなのかもしれんな。儂やこの世界樹の生きてきた時からすればそう長いものではないが、少なくともこうなるまでの間に儂は自分の名前を忘れた。呼ぶ者もおらんくなって二、三百年は経っている」
「どんだけ長生きなんだよ、じいさん……」
煙を吐きながら、ダテは老人の前へと座り直し果物を囓った。まだ鈍くはあるが今度は見た目通りのリンゴの味を感じた。
「で、変化の過程は?」
「そうだな、まず、落下時の衝撃でこの世界樹が半壊し、世界からマナが失われた」
「マナが? マナっていえば自然の総合力が生むものだろ、たったそれだけでか?」
「世界樹にはそれだけの力があるということだ。そして、その影響で精霊達は見る影もなく弱々しくなり、かなりの数が消滅した」
老人は近くに飛んでいた光の玉をつついた。光の玉はぽよんと揺れた。
「……そいつ、精霊なのか?」
「ああ、もうこんなのでしかないが、儂と同じく精霊だ。保護してやった時からこうだったので、元がどんなだったのかは知らんがな。こいつが消えた後で、いずれは儂もこうなるだろう」
弱った精霊。ダテがそれを見るのは初めてだった。
「たが、それだけでは世界はこうはならん。恐ろしいのはその後だ」
パイプを一口、煙を吐いた。ダテも思わず習った。
「落ちてきた石は、ただの石ではなかったのだ」
「何……?」
「あの石は辺りから手当たり次第に魔力を吸収し、その力を元にウイルスを吐き続けている」
「ん……?」
ダテは自分の頭を二、三と叩いた。
「すまん、もう一回言ってくれ」
「あの石は魔力を吸収し、それを元にウイルスを吐く」
聞き間違いや翻訳違いではなかったことにダテは驚いた。『ウイルス』、精霊だの世界樹だのの世界には不釣り合いな言葉だった。
「ウイルスってじいさん…… そりゃあの、ウイルスだよな?」
動植物や細菌の中で繁殖する病原体。他の意味は思いつかなかった。
「ああ、ウイルスだ。よく知っとるな少年。儂は医者だから知っとるが、少年の世界はやはりかなり進んでおるようだな」
「い、医者だったのか……」
精霊にも医者がいる。ちょっと驚きの事実だった。
「まぁ、ウイルスに関してはこれからじっくり説明してやろう。なんせ――」
老人は一服し、煙を吐いた。
「少年はもうとっくに冒されとるからな」
「……!?」
老人の言葉に、ダテの右腕にぞわりと何かが走った。




