表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/2

完・音の調べのように。

ラストまで、お付き合いくださいませ。

「うわっ」

ニャァと、こちらを睨みながら猫は振り返る。

おれの方を見ているのか、それともYの方を見ているのかはわからない。

しかし、俺たちが何か違和感を以て猫に認識されたのかもしれない。

猫はなでるに限る。なでようと手を伸ばすと、突然猫は引っ掻いてきた。

おれはとっさに身構えようとした。

「おい、はやまるな」

Yに窘められて構えを崩す。音響兵器から身を守る方法は一つ。耳を塞ぐことだ。

職業柄、ついつい防御態勢をとろうとしてしまう。


「おやおや、お客様、少し音が大きすぎましたかな?」

店主らしき海賊が、カウンターの奥からぬっと顔を出す。


「いいえ、とても心地よい音だ。驚かせてすまない。2人だ」

Yが慌てたそぶりを見せないように、客としてふるまう。猫はカウンターの下に入り込み、様子をうかがっている。

「お2人様ですね。奥へどうぞ」

「こいつは黒い猫が苦手でね。トラウマがあるんだ。喰われかけたことがある」

「ははは、それはそれは、失礼しました。しかし、コイツは人間様は食べませんので、はい」

笑われたことに少し腹を立てたが、相手は海賊なのだ。

店の奥には店主の妻らしき女性が立っている。

「こちらへ」

海賊の女は少し不審がる様に、しかし客だから相手をしなければならないような、すこし複雑そうな表情をする。

当然だろう。我々のような年代の人間が来るとは到底思えない店だ。

店主の妻に促されるまま、おれたちは店の奥にある席へ座る。

4人掛けの席で、向かい合わせの席に荷物と上着を置く。すぐに海賊に対抗できるように、携帯武器はポケットに入れたままだ。

店を見回すと、入口近くに巨大な音響設備がある。

カウンターの裏にはそれらを動かす機材があるのだと思う。

特殊音響課には押収されたさまざまな特殊音響が置いてあるので、だいたいの物を見れば何だか想像はつく。

「先輩、あれはアナログ音源でしょうか」

「フムゥ、デジタルではないだろう。しかしノイズが極端に少ない。この音の質は、とても高い。」

「機材までの距離はだいたい3メーター、正面ではないにしろ、これほどの未確定計数、たとえばあのカウンターや機材の壁を考えると、とても良い環境とはいえませんね」

Yは指を使って大方の距離を測っている。

音響装置の能力というか性能を知ることは、特殊音響課のいろはの”い”である。

彼を知り己を知れば、百戦危うからず。

「だいたいの性能はわかった。メインはユニットはジムランだろう、恐らく。その上にトゥイーターが1つと3基」

構成としては複雑で、エンクロージャーのネットで見えないがメインのウーファーが恐らく38センチ。

その上に木造のホーントゥイーターが乗っており、さらにその上に3基のトゥイーターが鎮座している。

「あのリボン型がスーパートゥイーターですね」

「恐らくそうだろう。中低域をウーファーで鳴らし、中域はホーントゥイーター、高域は2種類のトゥイーターを使い、リボンで音場を創り出している」

音場。これが一番厄介なものだ。人間が鳴らす”音楽”は、人間が音場を創り出す。

音場を人間が制御しているので、人間が演奏をやめれば、音場は消滅する。

なので音場が暴走することはあり得ない。プレイヤー自体が、音場であるのだ。

もし、機械で音場が作り出せれば?

音場は人間の音楽感はもちろん、人間の時間や感覚器までをも取り込んでしまう。

なので素晴らしい音楽を聴けばいい気分になるし、興味の無い音楽は意識野に昇華されることがない。

機械で、全ての人間に作用するような音場を作り出したり、中毒性のある音場を造り出せば、音場で人間を操ることができる。

或いは、生の音楽、生きている音楽を超えてしまうような”オンガク”を創生してしまう可能性すらあるのだ。

目に見えない音。そして動かないスーパートゥイーターはとても危険である。

たとえば目に見えて危険な刃物や、猛獣を目の前にすれば、人間は無意識に危機を回避しようとするが、危険を危険と認識しなければ無意識野は覚醒しない。

もしも一般人に悪意を持った特殊音響の効果が及んだ場合、それは既存の社会システムを破壊する要因にすらしてしまうのである。


「あれが一番の脅威だ」


先輩は恐る恐る計算機を取り出す。

おれたちは特殊音響課の捜査員であるが、同時に市民でもある。つまり、何の変哲もない一般人と変わりはないのだ。

なので、肉体的感覚への影響を考えると、攻撃を受ける前に逃げることが戦略の基本となる。

常におれたちは、逃げ道を考えて行動しなければならない。

たとえば今晩のような場合は、出口までの距離と、音響装置の性能を計算し、ナノ秒単位での猶予時間を計算する必要がある。

今はNCをつけて行動しているので、音場の異変を感知して行動を開始するまでの猶予には海賊より歩がある。

「先輩、この箱は不利です」

「おれもそう思っていた。この場から立ち去るのに2ナノ秒はかかる。音波の到達は1,2ナノだ。これでは立ち向かえない」

海賊も考えたものだ。ある意味当然であるが、それは同時に不思議なものである。

音楽を最大限に引き出すのになぜ、距離を必要とするのか。

2ナノの距離は、常識的には遠すぎる。


「音響爆弾を使うしかなさそうだな。いざという時には」


音響爆弾、先輩のいうそれは、音響を破壊するものではなくて、音場を破壊するものである。

一時的に特有の音波を阻害し、可逆的に音場をつくりだす。

そうすることで音場を相殺し、一時的に何の音も存在しない空間を作り出す。

しかしまた、海賊音源を攻撃すれば音源そのものを傷つけるものともなる。

おれたちの作戦は特殊音響兵器を発見し、回収することなので、音源を破壊してはいけない。

音響爆弾はあくまで最終手段である。

そして箱、つまりその場が狭くてはおれたちの不利であり、海賊も当然おれたちを意識した対策をとっているということだ。


「フムン、まあ仕方がない。ここは正攻法で行こうじゃないか。海賊を始末する」

「幸いここは古い地球のジャズばかりですからね。海賊も相当に歳をとっているに違いないでしょう」


海賊の女がメニューを持ってきた。

この店には軽食のほかにアルコール類も置いてあるようだ。

そういえば昔、おれがまだ学生の頃に大学の近くにあった喫茶店もそうだった。

紅茶にブランデーを入れた時の香りは、どんなスモーキーな茶葉よりも香り高い。

そして味も、どんなフレーバーよりも深みのある、まるで赤道直下セイロン島の紅茶の受けていた太陽光の味がした。

コーヒーにアルコール類を入れるものまた、美味である。

喫茶店には騒がしい人種もいなく、昼も夜も安心して時間を過ごすことができた。


「今何か考えていたか?昔のこととか」

「そうですね。学生の頃のことを考えていました」

「気を抜くな。おまえのいまのその回想も、海賊の生じさせた幻かも知れん」

「はぁ、、、」

「なぜなら、いまおれにお前の考えていた店の音が見えたんだ。そこではいつもベートーベンの田園交響曲が流れていたはずだ」


その通りだった。無意識に記憶野に存在する音情報。

情動的に流れ込んでくる音は、記憶を再現した時に無意識に流れ出すのかも知れない。

今の場合、おれのNCをとおして空間に静音波が発信され、それが先輩のNCを通して伝わったのだろう。


「ご注文は?」

海賊が再びやってくる。


「フムン、それではおれはラムコークにしよう」

「こっちは電気ブランの炭酸割りで」


「電気ブランは炭酸で割りませんよ」

海賊の男がこちらへ注意を向ける。

「それは失礼しました、下町では、そういったジャンクな飲み方があるもので」

「それで、何にされますか」

「それではカナディアンクラブの、ソーダ割りで。おれは喉が渇いているんだ」


電気ブランという飲み物自体、現代ではなかなかお目にかかることができないものである。

とても甘い飲み物だが、薬草がたくさん入っていて、アブサントのようであり、アルコールも高い。

炭酸を足すと、舌触りが軽くなり、まるで妖精と踊るような気分になれる。一種の麻薬のようなものだ。


「あまり無茶をしてはいけない。どうしたんだ。お前らしくもない」

「おかしいですね。普通に私は、振舞っているだけなのに」


「そういえばお客さん、なにかリクエストがあったら言ってください」

海賊の男はレコードを入れ替えている。

いつの間にか演奏が終わっていたようだ。

CDソースは使用しないようで、またレコード盤ソースを用意している。


「オーディオ機器がお好きなのですか?」

「はぁ、まあ、そうですね」

「それはそれは」

「ここのシステムはジムランですか?」

海賊の男はレコード針を静かに落とすと、メインのスピーカーを指さして言う。

「あれは昔TADだったのですが、今はジムランです。しかし、他は自作でして」


自作か。これは危険だ。最高度の危険だ。

特殊音響機器はまず、その機器それぞれに危険度合いがあるが、それらを組み合わせてシステムを構築するとなれば、

それは軍隊を作るようなものである。

兵器は一つ一つで威力を持つ。

しかしそれらを複合させ、効率と効果を掛け合わせた計算式の先にあるものこそ、軍隊であり、パワーだ。

オーディオの群体。それはオーディオの軍隊でもある。

複合特殊音響は、国連条約にも違反するものであり同時に死刑にも値する大罪。

そしてなによりも特殊音響を複合する技術はロストテクノロジーであり、すでにこの世界には無かったことにされている。

多くの場合その技術がないので、複合特殊音響の方が弱点が多く始末しやすいのであるが、今回の場合、それとは話が違う。

少し見まわしただけでも、電源は別系統、オシロスコープ、業務用トーンアーム、ウエスタン球、そして古文書など、

その技術が完璧なことが視角からわかる。

なによりもこの耳が、おれの聴覚が、これは危険だと言っている。


「神のいたづらだと、そうあってほしい」

「これらの機器を完璧に扱えるものなど、人間ではないのかも知れん。理論は、人間を破壊する」

「こんなものが当たり前に存在していた時代は、いったい何なのでしょうか」

「フムン、きっと、それを聴く人間にも、確固した自我があったのかも知れん。何にも影響されない、魂が」

「今の人間には魂がないというのですか!?」


目の前で振動波を送り続ける、ノイズの無い、数値の世界に生きる機械。

機械と対等にあり、機械を支配する、ノイズだらけの、数値では表せない世界に生きる魂。

女神ミューズの采配は、どちらに下ったのだろうか?


気がつくと、目の前に注文した飲み物が置かれている。


「もう少しこちらで聴かれたらいかがですかな?」


海賊の男が手招きをする。どうやら入口に近い位置が”いい場所”のようだ。

「これは好都合だ。もし万が一のことがあれば、爆弾を投げて、出口に飛びこむぞ」

「そうですね。これは好都合だ」

飲み物を手に、席を立って前へ移動する。

その時、後方から海賊の女がやってきた。

「お荷物を・・・」

荷物、そういえばそんなものを持っていたかもしれない。

「フムン、どうやらこの空間の作用で、記憶に障害が発生しているようだな」

Yは荷物を手に、扉へ一番近い位置へ座る。

装置との距離は1メートル半といったところである。

距離が近くなれば、当然持ち時間は短くなるが、こちらの爆弾の有効時間も一定なので、相対的には時間稼ぎができる。


「記憶が錯綜しているようです。この部屋では、過去と未来が交錯している」

「部屋?ここはシアターだ。死刑台のエレベーターを、上映している」

「映画?そうか。ここはシアターだ。おれは1960年代の、映画館にいるんだ」


そう、ここは映画館だ。アメリカの映画館だ。

おれはいま、マイルスのサックスを聴いている。そう、ここは、映画館かもしれない。

しかし、ここはブルーノートかもしれない。いま座っているもう少し、1メートルくらいのところで、

マイルスがアルトサックスを吹いている。

 おれは安いバーボンを手に、煙草の煙で目がしばしばする部屋にいるんだ。

黒人も、白人も、黄色人種も、きちんと席に座って、食事をしていたり、煙草を吸っていたり、酒を飲んでいる。

ここは音楽という因果律が支配する、平和空間だ。だが同時に、戦争空間でもある。

音楽がなくなればそこに喧騒や、人間の対立が現れるかもしれない。

人間同士の力の均衡をとっているのが、音楽。強烈な抑止力。

 たった一つの震動波が、魂を統率する。

耳栓なんか取って、もっとよく音を聴こう。


おれは手元にあるバーボンを口に含む。

気がつけばそれは、バーボンからレモネードになっていた。

少しウォッカが入ったレモネードは、禁酒法時代の味がする。

 目の前にはビックバンドがいて、おれはトレンチコートを引っ提げて、カフェのボックス席に座っている。

コートの胸ポケットには煙草が入っていたはずだ。

取り出すとそれは、フィルターの無い、まるで手で巻いたような、ヴァージニアンの香りだった。

火をつけるのにマッチを探す。


「おやおや、マッチをお忘れかい」

隣の席の小太りな白人がマッチを差しだす。

「わるいな。フムン。おれは何をしにここへ来たのか」

マッチを擦り、しかしそれは湿気ていてなかなかつかないので、二本目でようやく火がついた。

煙草はとても細く、吸いずらいものであったが、現代ではなかなか味わうことのできない、紫色の味がした。

現代・・・

「この煙草は、ショートピースに似ている・・・」

白人がこちらをいぶかしそうに眺めている。

「ショートピース、聞いたことの無い銘柄だ。それは今、お前さんが吸っているものかい?」

「いいや、どこかで昔、嗜んだことがある。昔とは、一体いつのことだったか」

シンバルのハイアットが、耳の奥に迫ってくる。

「この街は、マフィアにすっかり喰われちまってるけれど、酒と煙草がうまい。どこかで拾ったんだろうな」

「マフィアか・・・奪い、自分の物にする奴ら」

「あんた、この街では口のきき方に気をつけるんだな。長生きできない」

おれは何をしているんだろうか。

何かを追いかけていた気がする。悪い奴ら。時間。空間。


カチャッ


 ビックバンドの演奏が最高の盛り上がりへ達し、隣の白人も、気がつけば演奏に夢中になっている。

そんななか、おれはさっき、金属音を聞いた。

このカフェを支配している、音楽の場とは異質な、金属音。

ウエイトレスのハイヒールの音でもなく、紳士の談笑でもなく、煙草にむせる人の音でもない。

 おれは、特殊音響課の捜査員だ。

Yの姿を探す。先輩はいない。まわりは見たことがない空間だ。

いままで聞こえていた音はそのままに、まわりの風景が、どんどん色を失い、セピアになっていく。


 Yが気がつくと、同僚は消えていた。

隣の席に座っていた同僚のいた空間は、何もなかったかのような、空っぽの空間になっている。

「何かリクエストはありますか」

後ろから、海賊の男が声をかけてくる。

「現代の音楽は、とても薄っぺらい」

「そうですね」

海賊の男はレコードを探す手を休めて、こちらを向く。

「音楽というか、音が薄っぺらいんだ」

「魂、ですか」

「ああ、そうかもしれない。なにか、魂が足りないんだ。たとえばフォーマット一つにしても、圧縮すれば、音の質は落ちる」

Yは空っぽのグラスを下ろすと、近くにあった古いゼンハイザーに手を伸ばす。

機械が進歩しても、人間が退化してはだめだ。

「古い機械ばかりですが」

「フム。いい音が鳴っている」

黒猫がどこからか走ってきて、窓際のミキサーに飛び乗る。

「あの猫は、ここの猫か?」

「いえいえ。どこかからやってきて、居着いてしまったのです。あの窓際が気にいったようで」

窓際には色々な真空管が並んでいる。


「フムン、分裂症か・・・」


海賊の男が新しいレコードを取り出して、表紙を台の上に飾る。

ジョン・コルトレーンカルテット。

気がつけば猫が足元にいる。NCを転がして遊んでいるようだ。

このNCは、同僚のNCだ。

きっと、同僚のTは耐えられなかったのだ。NCも効果なく、音場にとりこまれてしまったのだ。

猫はどこにでもいて、どこにでも行ける。もしも道に迷えば、猫を探せ。

シュレディンガーの猫、開けたらお終いかもしれない。

「お客様、どうなさいました?」

気がつけば海賊の男が真後ろに立っていた。

「いいや、何でもない。すこし、眠かっただけだ」

「そうですか。それではごゆっくり」

男が店の奥へ向かってく。その隙に、おれはNCを取り外す。


 それは、今まで聞いたことがないような、音の洪水だった。


 煙の臭いがする。

これは、とても質のいい、ヴァージニア葉だ。

Yはかぶっている目深帽子を、ついと上にあげる。

同時に眼鏡、金物の淵の丸メガネを視認する。

目の前の机には灰皿があり、煙草が一本燃えている。Yは煙草を吸わないので、これは誰か他の人の物かもしれない。

しかしYの頭の中には確かに、さっきまで煙草をくわえていた記憶があり、口の中には深い香りが残っている。

まるで濃厚なアイリッシュコーヒーのような、深い香りだ。

どうやらどこかの喫茶店のようである。フムン。

 左を向くと、店の奥にステージがあり、ジャズカルテットが見える。

その瞬間、音が飛んできた。

視覚と聴覚、Yの聴覚は現在、視覚と同一であるらしい。

見たモノの音が、頭の中に流れ込んでくる。

目をつむると、そこは究極の無音空間だ。何も見えず、何も聞こえず。恐怖すら覚える。

世界の中心で、たった一人で浮かんでいる気分になる。どこか、何かの”ひずみ”に落っこちてしまったような。

そうか。”ひずみ”に落としこまれたんだな。

目をあけると、また目の前に喫茶店の風景が現れる。

ボーイが視角に入ると、カシャカシャと触れ合うが食器の音と、足音が聞こえる。

周りを見渡すと、さまざまな音が飛び込んでくる。

人の話し声、モノのぶつかる音、楽器の音、マッチを擦る音。

そんな中、ある一人の人間が目立つ。

彼からは音が聞こえない。

そしてよく見ると、彼には色がない。まるで、灰色の彫刻のように、その場に座っている。

 その時、彼のほうへ男があるいていく。

まわりの人の誰もが、彼に見向きもしないのに、見えていないようにふるまっているのに。

男はまるで、彫刻のような彼の事が見えているかのようにまっすぐに向かっていく。

男に視線を集中させるといろいろな音が聞こえる。彼の靴底は新しい皮だ。湿った音がする。

彼は左手に何かを持っている。


カチャリ。


まるで銃のハンマーをセットする音のようだ。

このままでは男は彼を殺すだろう。

彼は誰だ?私は誰だ?ここはどこだ?

その瞬間、足元に猫が走り去っていく。まるで時間が動くように素早く。


そうだ。俺は同僚を探しに来たんだ。あそこで石像のようになっているのがあいつだ。

私はコートのポケットに手を入れる。そこには大昔の拳銃が入っていた。ずっしりと重い。

ここがどこだかはわからないが、俺はここから元の世界に戻らなければならない。


男が同僚に銃を構えようとする。

俺は机を蹴飛ばして銃を抜く。


「特殊音響課だ。お前は誰だ」

男との距離は3メートルほど。0.01秒ほどで声は伝わる。

0.01秒あれば十分だ。俺は男の頭を狙って、引き金を引いた。


ズドン


目の前には銃を構えた男が目を見開いて、今にも倒れ伏しそうになっている。

店の中は何事もなかったかのようだ。

銃を撃ったことなんて関係ないように、ジャズが流れ、喧騒がまわりを包んでいる。


銃を撃ったのは誰だ?

倒れてきた男を突き放すと、そこにはYが立っていた。


「何をしているんだ。こんなところで」

Yは男を物色しながら問いかける。

「気がついたらここに」

「そいつは仕事熱心だな」

「面目ない」

YはポケットからNCをとりだす。

「早くこれをつけろ。この音空間から離脱する」

NCを受け取ると、耳に装着する。その瞬間、通常の半分くらいの感覚が戻る。

「聴覚はダメージを受けやすい。しばらくはもとの感覚に戻るまで気持ち悪いだろう。」

なんだか現実と空想の境目を行ったり来たりしているようだ。

目の前ではジャズの演奏が聞こえ、しかし風景はいままでいた店のものだ。

YもNCを装着する。

幻覚というか、幻聴というか、不思議な感覚で、まるでほろ酔いのようである。

音に酔うか。またこれも面白い。しかし危険だ。


「さて、そろそろここを出るか」

同僚が驚いた顔をする。

「え、ここはこのままですか?」

「先程の体験を忘れたのか?あんな強い力はおれたちでは無理だ。もっと専門の工作員を呼ぶ。」

同僚は納得したようだった。

たしかに、人間の感覚そのものをとりこむなんて機械には、生身の人間では対抗できないだろう。

Yはマスターを呼んで会計を済ませる。

「良い店だ」

マスターは笑顔で、

「はぁ、どうも。またどうぞ」

なんだか腑に落ちない様子だが、仕方がない。これも仕事だ。


カランカラン


ドアベルが鳴り、Yはドアを後ろ手で閉める。

携帯で本部に連絡をして、工作部隊の応援を求める。

あれほど巨大な音響装置では、戦車の一台も必要かもしれない。

アンプだけで4台ほどあったし、真空管もあった。

プレイヤーもアナログが二台。CDもあった。

そしてとても古いオープンリールデッキ。これも危険だろう。

「ところで先輩、先程の猫はいったい何だったのでしょうか」

「猫?そういえば猫がいたな」


カランカラン


ドアが開く音がする。Yと俺は店を振り返る。

猫がドアから出てきた。

しかし、そのドアの向こうは暗く、建物は廃墟のようだ。


「あれ?さっきの店じゃない!!」

今まで俺たちがいた店は、まるでそこに何もなかったかのように佇んでいる。

コンクリートの無機質な壁に、割れた色とりどりのガラス。

ドアは今にも外れそうに、きしんでいる。

「店の中から何か聞こえないか?」

そういえばYが言うように、店の中から音楽が聞こえてくる。

ジャズのようだが、とぎれとぎれでよくわからない。

Yは銃に手をかけ、店の中を覗き込む。

いつのまにか猫はいなくなっていた。

店の中に踏み込む。

勢いにドアは耐えられず、内側へ倒れこむ。ガラスの割れる音。

店の中は暗く、がらんどうだった。

屋根も朽ち果てているようで、夜空がよく見える。

「音はどこから・・・」

「あ、あれです!」

俺はいままで音響装置があった場所に古い電蓄を見つけた。

レコードは歪んでおり、とぎれとぎれにしか音は鳴っていないが、この曲は、さっきまで流れていた曲だ。


マイルスデイヴィスの"So what"。


感想いただけたら嬉しいです。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ