第2章 見えない壁、重なる影
1
「――というわけで、次号のライフスタイル特集、テーマは『令和の家族の肖像』で行きたい」
出版社の会議室で、悠斗は企画書をデスクに広げた。
「事実婚、同性パートナーシップ、ステップファミリー。従来の『家制度』に収まらない生き方をしている人たちに焦点を当て、彼らが直面するリアルな障壁と、それを乗り越える工夫を記事にしたいんです」
編集長はしばらく企画書を眺めていたが、ふっと息を吐いた。
「高瀬、テーマとしては面白いし、今っぽい。ただ、綺麗事だけで終わらせるなよ。読者が知りたいのは、綺麗なおしゃれライフじゃない。病気になった時、親が倒れた時、相続の時……そういう『泥臭い現実』に彼らがどう落とし前をつけてるかだ」
「わかっています。当事者の方々に、かなり踏み込んだ取材をする予定です」
会議を終えた悠斗は、さっそく取材先のリサーチを始めた。医療現場における家族同意権の現状について調べるうち、都内の総合病院に勤める、ある看護師のブログに行き当たった。
そこには、医療現場で「法的な家族」ではないパートナーが直面する、面会や手術同意の困難さが、現場目線で極めて冷静に、かつ温かい筆致で綴られていた。
執筆者の名前は、小田島真由。
悠斗はすぐさま、取材のアポイントメントを取るために動き出した。
その数日後。悠斗と美咲は、美咲の実家である静岡へ向かう新幹線の中にいた。
美咲の父の還暦祝いという名目だったが、ふたりにとっては避けて通れない「関門」だった。
「お父さん、また同じこと言うんだろうな」
車窓を流れる景色を見つめながら、美咲が小さく溜息をつく。
「『美咲、いつになったら身を固めるんだ』って。事実婚だって何度も説明してるのに、あの世代には『ただ同棲してるだけ』にしか見えないみたい」
悠斗は美咲の、少し冷たくなった手を握りしめた。
「大丈夫。今回は俺からちゃんと話すよ。名字を変えたくないっていう美咲の意志を尊重してること、お互いに公正証書を作って、万が一の時の医療同意や財産管理についても契約を交わしていること。俺たちが真剣に、責任を持ってこの形を選んでいるってことを説明しよう」
「うん……。ありがとう、悠斗」
美咲は微笑んだが、その表情にはまだ陰りがあった。
法律上の夫婦であれば、一言「結婚しました」で済むはずのことが、なぜ自分たちにはこれほど膨大な「説明責任」と「証明書」が必要なのだろうか。
握り合った手の温もりだけが、唯一の確かな事実に思えた。
2
日曜日。神崎翔は、小田島真由と娘の結菜を連れて、少し大きめのショッピングモールに来ていた。
結菜の小学校で使う、新しい絵の具セットや文房具を買い揃えるためだ。
「結菜、これなんかどう? 可愛いよ」
真由がキャラクターものの筆箱を指差すと、結菜は少し大人びた顔で首を振った。
「ううん、もう5年生になるから、シンプルなやつがいい。あ、翔先生、これどう思う?」
結菜が青いシンプルな筆箱を持って、翔を見上げる。
「いいんじゃないかな。飽きがこなくて、長く使えそうだ」
「じゃあ、これにする!」
嬉しそうにレジへ走っていく結菜の後ろ姿を見送りながら、真由がぽつりと言った。
「……本当に、本当の親子みたい」
「そう見えてるなら、嬉しいよ」
翔が微笑むと、真由は少し視線を落とした。
「ねえ、翔さん。実は昨日、結菜が学校のプリントをテーブルに出し忘れててね。カバンを開けたら、ぐしゃぐしゃになった『家族のつながり』っていう道徳の授業のプリントが出てきたの」
翔の表情が、わずかに硬くなる。
「……どんな内容だった?」
「自分の家族の図を描いて、それぞれの役割や、お父さん・お母さんへの感謝を作文にするの。結菜、白紙のまま提出して、先生に注意されたみたいで。私に心配かけたくなくて、隠してたんだと思う」
真由の目は潤んでいた。
「事実婚って、私たち大人のエゴなのかなって、時々怖くなるの。翔さんへの気持ちも、前の夫との思い出も、全部大切にしたいからこの形を選んだ。でも、そのせいで結菜に『普通の家族』を演じられない苦しさを味合わせてしまっているんじゃないかって」
「真由……」
翔はかけるべき言葉が見つからなかった。
高校教師として、日々多様な生徒たちと接している。戸籍の形がどうあれ、愛情に満ちた家庭は作れると信じていた。だが、10歳の子どもにとって、周囲と「違う」ということは、それだけで静かなナイフとなって心を切りつける。
その時、翔のスマートフォンが震えた。
見知らぬ番号。出てみると、丁寧な男の声だった。
『突然のご連絡で恐れ入ります。私、明潮社の高瀬と申します。小田島真由様にご連絡を差し上げたのですが、現在勤務中とのことで、ブログに記載のあった緊急連絡先のこちらへおかけしました。実は、医療現場における事実婚や家族のあり方について、ぜひ取材をさせていただきたく……』
翔は、隣にいる真由の顔を見た。
「あ、はい。高瀬さん、ですね。少し、場所を改めてお話しできますか」
運命の歯車が、静かに回り始めていた。
3
「おい、今回のジャケ写、マジでやばいな。誰がデザインしたの?」
薄暗いスタジオのロビーで、蓮が所属するバンド『Nocturne』のボーカルが、送られてきたラフ画を見て声を弾ませた。
それは、繊細なタッチでありながら、どこか鋭い孤独感を漂わせるイラストだった。
「桜井美咲っていう、今キてるイラストレーター。俺たちの曲、めちゃくちゃ聴き込んで描いてくれたらしいよ」
マネージャーが誇らしげに言う。
ギターケースを背負った蓮は、そのイラストをじっと見つめていた。
歪んだギターのノイズ、夜の都会の冷たさ、そしてその奥にある、誰にも言えない渇き。
自分の音楽を、これほど正確に視覚化されたのは初めてだった。
「……会ってみたい。直接、次のシングルのイメージも伝えたい」
珍しく熱を帯びた蓮の声に、マネージャーは驚きつつも了解した。
その夜、蓮は久しぶりに千尋が待つアパートへ早く帰宅した。
だが、リビングに入った瞬間、張り詰めた空気が漂っていることに気づく。
千尋はダイニングテーブルに座り、パソコンの画面を見つめていた。その手元には、1冊のノートが開かれている。
「千尋? どうした、そんな怖い顔して」
千尋はゆっくりと顔を上げた。その目は赤く腫れていた。
「蓮。私、ブライダルチェック(※妊娠に向けた健康診断)に行ってきたの」
蓮は一瞬、言葉に詰まった。
「……そう。結果、何か問題あった?」
「ううん。私は健康。でもね、お医者さんに言われたの。もし不妊治療に進む場合、事実婚だと助成金の申請や、受けられる治療の範囲に制限や複雑な手続きがあるかもしれないって」
千尋の言葉は、鋭く、重かった。
「蓮は『子どもができたら認知する』って簡単に言うけど、子どもを作る段階から、事実婚には見えないハードルがたくさんあるの。ただ愛し合っていればいい、紙なんて関係ないって言うのは、健康で、何もトラブルが起きていない今だから言えることだよ」
「千尋、俺は――」
「音楽のことはわからない。でも、現実の生活をこれ以上あやふやにされたら、私は蓮の隣にいられない。もう、待てないよ」
千尋は立ち上がり、寝室へ向かった。
バタンと閉まったドアの音。
蓮はぽつんとリビングに取り残された。
彼は壁に立てかけられたギターを見つめた。
今、自分の頭の中で鳴り響いている、あの新曲のメロディ。
そして、あのイラストレーター・桜井美咲が描いた、孤独な青の世界。
自分が守りたいものは何なのか。
音楽なのか、自由なのか。それとも、自分を信じて待ってくれている千尋なのか。
蓮は、初めて「事実婚」という自分の主張が、千尋を傷つける凶器になっていたことに気づき始めていた。
4
翌週。
表参道の落ち着いたカフェ。
「初めまして、桜井美咲さん。朝倉蓮です」
「初めまして。今回のジャケットを担当させていただく、桜井です」
美咲と蓮が、ついにテーブルを挟んで対峙した。
ふたりの間には、お互いのクリエイティビティに対する、強いリスペクトの火花が散っている。
そして同じ頃。
神崎翔と小田島真由は、病院近くの喫茶店で、出版社勤務の高瀬悠斗と向き合っていた。
「本日はお時間をいただき、ありがとうございます。高瀬です」
悠斗が名刺を差し出す。
法律婚を選ばない悠斗と美咲。
選べない(前妻との絆と、娘の気持ちの間で揺れる)翔と真由。
そして、あえて選ばない(自由を愛する)蓮と、それに傷つく千尋。
東京の片隅で、彼らの人生が複雑に絡み合い、それぞれの「家族の形」が試される嵐の季節が、静かに始まろうとしていた。




