第1章 それぞれの食卓
1
金曜日の夜、高瀬悠斗(34)は、中目黒にある築古のアパートの階段を上がっていた。手には、出版社からの帰り道に買った、少し良いクラフトビールの缶が揺れている。
ドアを開けると、スパイスの食欲をそそる香りが鼻腔をくすぐった。
「あ、悠斗。おかえり。ちょうどチキンカレーができたところ」
リビングのローテーブルにノートPCと色見本を広げたまま、桜井美咲(32)が顔を上げた。ラフにまとめた髪からこぼれた後れ毛が、彼女の自由な雰囲気を引き立てている。
「ただいま。いい匂いだな。今日も忙しかった?」
「うん。新しい装丁のデザイン案、締め切りが月曜だから、土日もちょっと描くかも」
美咲はフリーランスのイラストレーターになって3年。自立した生活を手に入れた彼女の表情は、いつだって生き生きとしている。悠斗はその表情が何よりも好きだった。
ふたりが暮らし始めて5年、交際してからは7年が経つ。
「ねえ、これ」
ビールをグラスに注ぎながら、美咲がふと思い出したように、一枚の書類を差し出してきた。
それは、美咲の仕事関係の契約書だった。署名欄には『桜井美咲』と力強く書かれている。
「今日ね、クライアントの担当者に言われたの。『桜井さん、そろそろ高瀬さんになられるんですよね? 結婚式のご予定は?』って」
悠斗はグラスを置いた。胸の奥が少しだけ、冷たい風に吹かれたようにすぼまる。
「……また、それか」
「うん。面倒だから『ええ、まあそのうちに』って流したけど。でもね、悠斗」
美咲はカレーをスプーンで掬いながら、まっすぐに悠斗の目を見た。
「私、やっぱり『桜井』のままでいたい。この名前で仕事をして、この名前で生きてきた。結婚して、どっちかの名字を捨てなきゃいけない日本の法律って、やっぱりどうしても不自然に感じるの」
「うん」
悠斗は深く頷いた。彼が美咲の「事実婚」の提案を受け入れたのは、彼女のキャリアを尊重したからだけではない。
悠斗自身の、消えない傷があった。
小学生の頃、毎晩のようにリビングから聞こえてきた、両親の激しい怒鳴り声。そして、ある日突然、母親に連れられて役所に行き、「高瀬」から母方の「佐藤」へ、そして離婚調停の末にまた別の名字へと目まぐるしく変わっていった記憶。
「婚姻届」という紙切れ一枚が、どれほど簡単に家族を引き裂き、人を縛り付ける凶器になるか。悠斗は身をもって知っていた。
「俺も、今のままでいいと思ってるよ。美咲が美咲のままでいられるのが、一番いい」
ふたりはグラスを合わせた。小さな音が響く。
だが、来月には美咲の実家への帰省が控えている。美咲の両親が、この「あいまいな関係」をいつまで許してくれるか。その不安は、ビールの泡のように、胸の内で静かに消えずに残っていた。
2
土曜日の午後。神崎翔(41)は、小田島真由(39)のマンションのキッチンで、手際よくキャベツを千切りにしていた。高校教師である翔は、週末になると、こうして真由の家で夕食を作るのが日課になっている。
「翔さん、ごめんね。急なシフトが入っちゃって」
看護師の制服から部屋着に着替えながら、真由が疲れた顔でリビングに入ってきた。
「気にしないで。真由こそ、夜勤明けで大変だったろ。少し休んで」
「ありがとう……。本当に助かる」
真由はソファに深く腰掛け、ほっと息を吐いた。
彼女が前の夫と離婚し、シングルマザーとして娘の結菜(10)を育て始めてから何年もの間、張り詰めていた緊張。それを解きほぐしてくれたのが、翔だった。
「ただいまー」
ガチャリと玄関のドアが開き、ランドセルを背負った結菜が帰ってきた。
「おかえり、結菜。早かったね」
真由が声をかける。結菜は翔の姿を見ると、少しだけはにかんだような笑みを浮かべた。
「あ、翔先生、こんにちは。今日もご飯作ってくれるの?」
「うん。今日は結菜の好きなハンバーグだよ」
「やった!」
結菜は嬉しそうに自室へ駆けていった。
「先生」
その響きに、真由は申し訳なさそうな視線を翔に送った。
「ごめんなさいね。結菜、まだ『お父さん』って呼べなくて……。学校の先生だから、つい口に馴染んじゃってるみたいで」
「いや、いいんだよ」
翔は優しく微笑んだ。
「無理に『お父さん』って呼ばせる必要はない。結菜にとって、俺は俺だから。焦らずに、この距離感でいよう」
翔が再婚に踏み切れない理由は、結菜への配慮だけではなかった。
5年前、前妻を病気で亡くした。闘病生活の末、冷たくなっていく妻の手を握りながら、「生涯、愛するのはこの人だけだ」と誓った。その記憶が、彼の中で未だに生きている。
別の女性と「婚姻届」を出し、戸籍の上で前妻の存在を「除籍」という文字で塗りつぶすことに、どうしても罪悪感を拭えずにいたのだ。
事実婚。それが、前妻への操立てであり、同時に今、目の前にいる大切な真由と結菜を守るための、翔にとっての精一杯の境界線だった。
しかし、小学4年生の結菜は、少しずつ「普通」と「特別」の違いに気づき始めている。学校のプリントの保護者氏名欄。そこに、時折見え隠れする「神崎」と「小田島」の二つの名字の違いに、結菜がどんな感情を抱いているのか。翔は、包丁を持つ手を少しだけ止めて、窓の外を見つめた。
3
「蓮、起きて。もう昼の12時だよ」
森川千尋(28)は、遮光カーテンを勢いよく開けた。
差し込む強い日差しに、ベッドの中の男が不機嫌そうに声を上げる。
「う……眩しいって、千尋。昨日、レコーディングが朝方までかかったんだよ……」
ボサボサの髪を掻きむしりながら起きてきたのは、人気急上昇中のインディーズバンドのギタリスト、朝倉蓮(29)だった。
整った顔立ちに、どこか影のある退廃的な雰囲気。千尋が彼と付き合って4年になる。
千尋は堅実なIT企業に勤める会社員だ。
毎朝満員電車に揺られ、定時まで働き、将来のために貯金をする。そんな千尋にとって、昼夜が逆転し、感情の赴くままに生きる蓮は、まったく異なる世界の住人だった。
「はい、コーヒー」
「サンキュ」
蓮はソファに深く腰掛け、ギターを抱えて爪弾き始めた。アンプに通していない、乾いた弦の音がリビングに響く。
「ねえ、蓮。ちょっと真面目な話があるんだけど」
「ん? なに?」
「私の友達がね、最近結婚したの。それで、やっぱり私も……将来のこと、ちゃんと考えたいなって」
蓮の手が止まった。彼はギターをそっと壁に立てかける。
「千尋、前も言ったけど。俺、結婚っていうシステムに興味ないんだよね。なんで誰かとずっと一緒にいるために、国にお墨付きをもらわなきゃいけないわけ? 縛られるの、嫌なんだよ」
「縛るつもりはないよ。でも、私は子どもも欲しいし、もし何かあった時の保証とか……」
「子どもができたら、認知はするよ。育児だって手伝う。でも、籍を入れる必要がどこにあるの? 籍を入れても離婚する奴らはいくらでもいるじゃん。俺たちの関係って、そんな紙切れ一枚がないと壊れちゃうような頼りないものなわけ?」
蓮の言葉は、一見すると哲学的で筋が通っているように聞こえる。だが千尋には、それが単なる「責任からの逃避」にしか思えない時があった。
「私は……普通に安心したいだけなのに」
ぽつりと呟いた千尋の声は、蓮が再び鳴らし始めたギターの鋭い不協和音にかき消されてしまった。
4
それぞれの葛藤を抱える3組。
ある日、悠斗が勤務する出版社で「現代の多様な家族のあり方」をテーマにした特集記事が企画される。
その取材の中で、悠斗は看護師としての真由と、そして真由を通じて翔と出会うことになる。
さらに、蓮のバンドの新しいアルバムジャケットのイラストを美咲が担当することになり、3組の運命は、東京の片隅で静かに交差し始める――。
制度に守られないからこそ、自分たちの言葉で「家族」を定義しなければならない彼らの、長く、愛おしい模索の旅が、今幕を開ける。




