3終
「次」
少女が言うより早く、扉が開いた。
入ってきたのは、誰もいなかった。
正確には、“いるはずの形”だけがあった。空気が歪むような、輪郭だけがぼんやりと存在している。視線を向ければ、そこに“誰かがいると分かる”。だが、顔も声も持たない。
少女はそれを見ても驚かない。
珍しくもないからだ。
感情を売りすぎた人間は、こうなる。
中身が削れ、最後には“形だけ”になる。
「ご用件を」
少女は問う。
返事はない。
ただ、ゆっくりと手が持ち上がる。
空っぽの手。
そこには、もう何もない。
少女は理解する。
この客は、もう支払うものがない。
それでも来た。
「……ご希望は」
沈黙。
やがて、かすかな音が落ちる。
声とも呼べない音。
「……なにも、いらない」
少女は頷く。
それは正しい。
もう、何もいらない状態だ。
「では、お引き取りを」
そう告げようとした瞬間。
空間が、わずかに揺れる。
少女の胸の奥で、何かが引っかかる。
理解できない違和感。
目の前の“それ”は、何も求めていない。
何も持っていない。
何も残っていない。
なのに、ここにいる。
どうして。
その問いが、初めて浮かぶ。
「……どうして、来たの」
少女は口にしていた。
必要のない問い。
意味のない問い。
それでも。
空の輪郭が、ゆっくりと揺れる。
そして、音が落ちる。
「……ここに、あったから」
その言葉は、ほとんど崩れていた。
意味だけが残っている。
少女は沈黙する。
ここにあった。
何が。
答えは出ない。
考える理由もない。
だが。
その瞬間、少女の中で何かが決定する。
この“空っぽ”は、完成形だ。
何も持たず、何も感じず、何も求めない。
だからこそ、ここに来られる。
少女は棚を見る。
並んだ瓶。
色のついた感情。
透明な記憶。
すべてが“余分”だ。
この客には、もう必要ない。
ならば。
自分はどうか。
少女は、自分の胸に触れる。
何もない。
最初から、ほとんどなかった。
売り続けて、さらに薄くなった。
残っているのは、習慣と動作と、わずかな違和感だけ。
それも、いずれ消える。
なら。
自分で消せばいい。
「……お支払いは、不要です」
少女は言う。
空の輪郭は動かない。
ただ、そこにある。
少女は棚から一つ、透明な瓶を取る。
何も入っていない瓶。
本来なら、何かを詰めるための器。
それを、自分に向ける。
栓を抜く。
中には、何もない。
だから。
流すものもない。
それでも、少女は瓶を傾ける。
自分に。
何も起きない。
当然だ。
空だから。
だが、その瞬間。
胸の奥の“わずかな引っかかり”が、消える。
完全に。
「……」
少女は息を吐く。
軽い。
初めての軽さだった。
何も残っていない。
何も感じない。
違和感すらない。
ただ、あるだけ。
それでいい。
それが完成だ。
空の輪郭が、ゆっくりと頷く。
それを見て、少女も頷く。
理解し合ったわけではない。
ただ、同じ状態に並んだだけ。
少女は瓶を棚に戻す。
もう、使うことはない。
「……次」
いつもの言葉を口にする。
だが、誰も来ない。
来る必要がない。
この場所は、もう役目を終えた。
少女は扉を開ける。
外の空気は変わらない。
人はいる。
声もある。
感情もある。
だが、それはすべて“外側”のものだ。
自分には関係ない。
少女は歩き出す。
足音が響く。
それだけ。
名前も、感情も、意味もない。
ただ、存在だけがある。
それで十分だった。




