第64話 蜘蛛の巣の日常と、主への報告
城塞都市ネメシス。
大陸中央に位置するこの都市は、今や周辺諸国が羨むほどの急速な発展を遂げ、一種の「魔導産業革命」の中心地となっていた。
その象徴として、街の中央大通りには、周囲の石造りの街並みを威圧するように聳え立つ、巨大な黒い影があった。
地上6階、地下2階建ての巨塔。
ヴォルカンの鍛えた鉄骨と、シノの設計した強化外壁によって構築されたその威容は、王城よりも高く、神殿よりも堅牢だ。
これこそが、都市の新たな心臓部となった組織――レギオン【蜘蛛】の本部、「レギオンハウス」である。
早朝。
東の空が白み始めると同時に、レギオンハウスの1階、冒険者ギルド本部の巨大な扉が開かれる。
途端に、広大なフロアは熱気と活気に包まれた。
「おい聞いたか? ギルドマスターのヴィンセント様が、また北の森から大量の獲物を持ち帰ったそうだぞ!」
「ああ! 昨日の夕方、荷車十台分の『大甲猪』が搬入されてたな。すげぇ……あの人は一人で軍隊並みだ」
「アラクネのおかげで、この街の治安は盤石だな。最近じゃ野盗はおろか、スリすら見かけねぇよ」
併設された酒場エリアでは、早起きの冒険者たちが、安くて美味い朝食に舌鼓を打っている。
かつては魔物の脅威に怯え、明日の食事にも事欠くような「その日暮らし」をしていた彼らも、今ではレギオンという巨大な庇護下で、安定と繁栄を享受していた。
彼らの装備は、以前のようなボロボロの革鎧ではない。
レギオンから支給された、規格化された魔導装備を身につけ、その表情には自信と誇りが満ちている。
「おばちゃん、いつもの定食。大盛りで頼むよ」
「あいよ! あら、シンちゃんじゃないか。今日も精が出るねぇ」
カウンターの隅で、控えめに注文をしたのは、くたびれた装備の少年だ。
ボサボサの黒髪に、あちこち継ぎ接ぎだらけの革鎧。背中には自分の体ほどもある大きな麻袋を背負っている。
万年Fランクの雑用係、シン(15歳)。
この街の支配者であるアレスの「弟君」でありながら、決して偉ぶることなく、下働きを続ける健気な少年――それが、表向きの彼の配役だ。
「へへ、ここが一番うまいからさ。……朝からアレス兄ちゃんたちの装備の手入れで、お腹ペコペコなんだ」
シンは照れくさそうに鼻をこすった。
「まあまあ、お偉いさんの弟君なのに、働き者だこと。
ほら、余った芋もオマケしとくよ! 上の階の商業ギルドマスター、ジェイド様が良い芋を卸してくれたんだ。北の農場から転移門で届いたばかりの、『黄金芋』だよ!」
「わあ、ありがとう! ジェイドさんの仕入れなら間違いないね!」
厨房の女主人が、湯気の立つシチューと、焼きたてのパン、そしてホクホクに蒸し上がった黄金色の芋を皿に盛って差し出す。
シンは満面の笑みでそれを受け取り、硬貨を数枚置いて、喧騒の中に混じって席についた。
木製のスプーンでシチューを掬い、口に運ぶ。
濃厚なミルクのコクと、魔物肉の旨味が口いっぱいに広がる。
(……美味いな)
シンは咀嚼しながら、瞳の奥で冷ややかに独りごちた。
(たった数ヶ月前まで、泥水を啜っていた連中が、今では朝からこんな上等な食事を当たり前に享受している)
シンは周囲を見渡した。
誰もが笑っている。誰もが満ち足りている。
飢えも、寒さも、恐怖もない。
レギオンが提供する「衣食住」と「安全」という檻の中で、彼らは思考を停止し、ただ与えられる幸福を貪っている。
ふと、吹き抜けの天井を見上げれば、2階フロアの様子が見える。
あちらは商業ギルドマスターであるジェイドが統括する商業エリアであり、直営のショッピングモールとなっている。
開店前から、着飾った市民や貴族たちが、レギオン印のブランド品や、最新の魔導具を求めて長蛇の列を作っていた。
1階は武力の頂点ヴィンセントが守り、2階は経済の頂点ジェイドが満たす。
さらに上層には医療のサフィナが控え、病や怪我の不安すら取り除く。
この巨大なビル一つで、都市の機能は完結しているのだ。
市民たちは、自分たちの生活の全て――命の蛇口を、レギオン【蜘蛛】に握られていることに気づいていない。
いや、薄々気づいていたとしても、この甘美な「安定」という麻薬を、自ら手放すことなどできないだろう。
(……順調だ。実に順調すぎる)
シンはパンをちぎり、シチューに浸した。
この安価な幸福こそが、彼らを縛る最強の鎖だ。
恐怖で支配するのは下策。
真の支配とは、家畜に「自分たちは幸せだ」「自分たちは自由だ」と錯覚させ、自らの意志で柵の中に入らせることにある。
王家が消滅しても、彼らは困らない。
むしろ、この生活を守ってくれるレギオンこそが「正義」だと叫び、喜んで新しい王を迎え入れるだろう。
「ごちそうさま。午後も仕事があるから行くね」
「気をつけてね、シンちゃん! 無理しちゃダメだよ!」
シンは食器を片付けると、店を出て、人混みを縫ってビルの裏手へと回った。
そこは、関係者以外立ち入り禁止の搬入口。
ゴミ箱と資材が積まれた薄暗い路地裏だ。
シンは周囲に誰もいないこと、そして監視の目がないことを気配察知で確認すると、その場で立ち止まった。
スッ、と背筋が伸びる。
卑屈に丸めていた背中が正され、怯えた小動物のような表情が霧散する。
代わりに浮かんだのは、世界を盤面として見下ろす、絶対的な捕食者の冷徹な眼差し。
「……さて。表の『遊び』はここまでだ」
シンは足元の影に沈むように、一瞬にして転移した。
弱々しいFランクの少年から、世界を喰らう魔王へ。
配役の交代だ。
◇
転移した先は、地上の喧騒とは無縁の、凍てつくような静寂の世界。
座標不明の亜空間に、シンの才能【異界創造】によって構築された拠点。
『地下宮殿』。
見上げるほど高い天井には、魔力で生成された偽りの星空が瞬き、磨き上げられた黒曜石の床が、冷ややかな光を反射している。
その最奥。
一段高く設けられた祭壇の上に、闇を固めたような漆黒の玉座が鎮座していた。
シンがその玉座に腰を下ろすと同時に、彼の姿が黒い霧に包まれる。
15歳の少年の肉体が再構築され、18歳の全盛期の姿――漆黒のロングコートを纏った、深紅の魔眼を持つ青年へと変貌する。
「……面を上げろ」
シンの声が、重低音となって広大な空間を震わせた。
闇の中から、数名の影が音もなく現れ、一斉に玉座の前で跪いた。
彼の手足となり、表と裏から国を侵食する最高幹部たち。
裏組織【細蟹】のメンバーにして、表のレギオンを動かす十王の面々である。
「お帰りなさいませ、主よ」
代表して口を開いたのは、第一席『黄金の支配者』ジェイド・バーンズだ。
彼は仕立ての良い黒のスーツを着こなし、優雅に金の扇子を閉じて一礼した。
その美貌は、地上のアイドル的な人気を集める「貴公子」そのものだが、瞳の奥には冷酷な計算機の光が明滅している。
「報告いたします。……地上の経済圏は、完全に我らレギオンの掌握下にあります。
商業ギルドマスターとしての権限を行使し、主要な物流ルート、穀倉地帯、そして地下資源の採掘権……それら全ての権利は、主の所有物となりました」
ジェイドの声は、心地よい音楽のように滑らかだ。
「貴族どもの資産はどうだ?」
「九割方、回収済みです。
彼らは今や、パン一つ買うのにも私の発行する『魔導手形』が必要な状態。……かつて私を見下していた連中が、泥にまみれて手形を乞う姿は、実に滑稽な『喜劇』ですよ」
ジェイドが嗜虐的な笑みを浮かべる。
金という首輪で、かつての支配者層を完全に飼い慣らしたという報告だ。
続いて、岩のような足音と共に、第二席『軍神』ヴィンセントが一歩進み出た。
全身から放たれる闘気は、以前にも増して鋭く、重い。
「軍事面も盤石です、主よ。
冒険者ギルドマスターとして、荒くれ者のギルド員たちをレギオンの私兵団へと再編完了いたしました。
装備はヴォルカンとシノが開発した魔導兵装に行き渡らせ、個々の戦闘力は正規騎士団を遥かに凌駕しております」
ヴィンセントは、力強く拳を握りしめた。
「近衛騎士団の実権も、ほぼ掌握しました。私の『威圧』に屈しなかった者は一人もおりません。
残るは第一王子ギルバートの私兵団のみですが……それも、我らの戦力でいつでも踏み潰せます。ご命令とあらば、今すぐにでも」
「焦るな、ヴィンセント。力で潰すのは最後の手段だ」
シンは手で制した。
「血を流しすぎれば、後の統治に響く。……俺が欲しいのは、無傷の国だ」
「ハッ。心得ております」
ヴィンセントが下がる。
そして、柱の影がにゅるりと盛り上がり、そこから第三席『幻影の諜報員』ネモが現れた。
道化師の仮面を外した素顔――妖艶な黒髪の美女の姿で、艶然と微笑む。
その背後には、深紅のドレスを着た元第一王女、エレオノーラも控えていた。
「裏の掃除も、滞りなく完了しておりますわ♡
ベルンシュタイン男爵をはじめ、反抗の意志を見せた旧貴族たちは、エレオノーラの『教育』により、忠実な犬となりました」
「ええ、とてもいい子になりましたわ」
エレオノーラが、うっとりとした表情で口元を歪める。
かつての傲慢な王女の面影はない。あるのは、主と、その弟君のためなら、実の親兄弟でも平然と殺せる狂信者の顔だ。
「今では、あのお方――シン様のために働くことだけが、彼らの生きる意味となっております。
財産を差し出し、友人を売り、それでも『お役に立てて幸せです』と涙を流して感謝するのですから……人間とは、壊れやすくて愛おしい生き物ですわね」
経済、武力、そして貴族への洗脳。
全てが完璧だ。
この国はもう、中身が完全に入れ替わっている。
内臓も、血管も、脳髄さえも、【細蟹】の毒に侵され、シンの意のままに動く傀儡と化している。
あとは、皮一枚――「王家」という看板を張り替えるだけ。
「主よ」
最後に、闇の奥から静かな声が響いた。
四天の一角、『聖女』ミラである。
彼女の傍らには、虚ろな瞳をした美しい少女――現・アラクネ共和国女王(傀儡)、セリスが立っていた。
「民衆の信仰心も、臨界点に達しています。
彼らはレギオンによる救済を……そして、腐敗した王家を打ち倒す『救世主』の到来を、渇望しています」
ミラが手を広げると、背後に光の翼の幻影が浮かび上がった。
「準備は整いました。……偽りの王を断罪し、真の女王を導く英雄の物語。
そのクライマックスの舞台は、いつでも幕を開けられます」
シンは深く玉座に背を預け、天井を見上げた。
そこには、幻影の窓によって、地上の王城「白亜の宮殿」が映し出されている。
その玉座には、まだ何も知らぬ第一王子ギルバートが、焦燥と苛立ちの表情で座っていた。
「……悪くない」
シンは口元を歪め、獰猛に笑った。
ここまでは、土台作りだ。
地味で、退屈な、しかし必要な準備期間。
畑を耕し、種を蒔き、水をやり、害虫を駆除してきた。
だが、それも終わった。
「我ら裏組織【細蟹】による侵食は完了した。この国は既に、俺の『牧場』だ」
シンが指を弾く。
パチン、という乾いた音が、広い広間に反響し、空気を震わせた。
「だが、まだ玉座には薄汚い猿が居座っている。……そろそろ、あの道化を舞台から引きずり下ろす準備を始めるとしよう」
シンの瞳が、深紅に輝く。
それは、獲物の喉元に牙を突き立てる直前の、捕食者の目だ。
「民衆は『英雄』を求めている。……ならば、与えてやろうじゃないか。
悪逆非道な王子を倒し、国を救う、悲劇と感動の英雄譚をな」
彼の言葉に呼応するように、十王たちが深く頭を垂れる。
その瞳には、主への絶対的な忠誠と、これから始まる「革命」という名の祭りへの期待が宿っていた。
「次なる行程へ移行する。――王を殺し、女王を立てろ」
「「「御意!!」」」
重厚な声が重なり、地下宮殿を震わせる。
蜘蛛の糸は張り巡らされた。
あとは、獲物がかかるのを待つだけではない。
こちらから、絡め取りに行くのだ。
地上では、夕日が王都を赤く染め始めていた。
その不吉なほどの赤は、これから流れる王家の血の色を、そして新時代の幕開けを予兆しているかのようだった。
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