第63話 薔薇の女王と、幸福な家畜たち
王城の地下深く。
地上には存在しない座標に固定された異界、『地下宮殿』の最深部にある玉座の間。
そこは、絶対零度の静寂と、濃密な魔素の闇に支配されていた。
漆黒の玉座に、一人の青年が座している。
シン。この世界を裏から操る始祖にして、裏組織【細蟹】の頂点。
18歳の魔王の姿をした彼は、退屈そうに頬杖をつき、虚空に浮かぶ無数の『幻影の窓』を眺めていた。
窓の向こうに映し出されているのは、経済封鎖によって機能不全に陥った王都の貴族街だ。
かつての栄華は見る影もなく、飢えと寒さに震える特権階級たちの姿が、そこかしこにあった。
「……報告します、主よ」
玉座の傍ら、柱の影がにゅるりと盛り上がり、音もなく一人の女性が現れた。
顔の半分を道化師のような仮面で覆い、影に溶け込むような漆黒の装束を纏っている。
組織の幹部・十王第三席、【諜】ネモ・ローズ。
その声は鈴を転がすように美しいが、同時に機械のような無機質さを孕んでいる。
「ベルンシュタイン男爵をはじめとする旧貴族の一部が、隠し資産である宝石や魔導具を裏の販路で換金しようと画策しています。
その資金で私兵を雇い、武装蜂起……とまではいきませんが、組織による支配に抵抗する構えです」
「ふん、往生際が悪いな」
シンは鼻を鳴らした。
ジェイドによる兵糧攻めで、肉体は追い詰めた。だが、彼らの魂にこびりついた「特権意識」という名の贅肉は、まだ削ぎ落とせていないらしい。
彼らはまだ、自分たちが「選ばれた人間」であり、いつか必ず復権できると信じているのだ。その根拠のないプライドこそが、最も厄介な病巣だった。
「処理しますか?」
ネモが短く問う。
彼女の才能【変装】と第一恩恵【完全擬態】を使えば、今夜中に全ての貴族を心不全に見せかけて始末することも容易い。
あるいは、彼らの家族になりすまし、内側から崩壊させることもできる。
だが、シンは首を横に振った。
「いや、殺すな。死体からは何も生まれない。俺が欲しいのは、死骸ではなく『労働力』だ」
シンは手元のグラスを揺らし、赤い液体を見つめる。
「彼らは無能だが、血統書付きの『家畜』としての価値はある。……殺して肉にするよりも、去勢して畑を耕させた方が効率的だ」
「御意。……では、第二行程へ移行します」
「ああ。ネモ、お前に『掃除』の全権限を与える。
お前の手足である『黒薔薇』を使って、彼らを躾けてやれ」
シンが残酷な笑みを浮かべる。
それは、慈悲深い王の顔ではなく、牧場の管理者が不良在庫を処分する時の、冷徹な計算の表情だった。
「人間として生きるのが辛いのなら、何も考えなくていい『家畜』にしてやればいい。……プライドも、尊厳も、思考さえも奪い去り、ただ従うだけの幸福を与えてやれ。
それが彼らにとっての、唯一の救済だろう?」
「承知いたしました。……最高の『教育的指導』を施して差し上げます」
ネモが指を鳴らすと、彼女の影が波紋のように広がり、どこか別の場所へと繋がる転移門が開かれた。
「エレオノーラ、出番ですよ。……貴女の得意な『お遊び』の時間です」
◇
深夜。貴族街の一角に建つ、ベルンシュタイン男爵邸。
かつては夜通し舞踏会が開かれ、煌びやかなシャンデリアの光が漏れていたこの屋敷も、今は墓場のように静まり返っている。
庭木は枯れ果て、噴水は干上がり、窓ガラスは煤けて曇っている。
魔導灯の燃料も尽き、冷え切ったダイニングルームで、男爵は高価なシルクの毛布にくるまって震えていた。
「……寒い。腹が減った」
男爵の目は窪み、頬はこけている。
昨日の屈辱――路地裏で商人に追い返され、泥水の中で野良犬に残飯を奪われた記憶が、悪夢のように脳裏を駆け巡り、胃袋を苛む。
「私は男爵だぞ……。選ばれた人間なんだ……。こんな……こんなことが許されてたまるか……!」
彼はうわ言のように繰り返しながら、懐に隠した最後の宝石を握りしめた。
これさえあれば。
この最高級の赤魔石を、国境付近の闇商人に流せば、まとまった金になる。
そうすれば、私兵を雇って、あの憎きレギオン【蜘蛛】の連中に一泡吹かせてやることも――。
「見ていろ……。必ずや復讐してやる……。あの生意気な商人も、薄汚い冒険者も、全員処刑台に……」
パシュッ。
唐突に、乾いた音がした。
同時に、屋敷の外を見張らせていた雇われの傭兵たちの気配が、ふっつりと消えた。
悲鳴も、争う音もない。
ただ、世界から切り取られたように「消失」したのだ。
「な、なんだ……?」
男爵が顔を上げる。
風の音さえ止まったような、不自然な静寂。
暗闇の中から、直接脳内に響くような、無機質な声が聞こえた。
『――作戦開始。標的捕捉』
それは、始祖の配下の中でも、特に上位の幹部のみが使える念話だ。
男爵が「ひっ」と息を呑んだ次の瞬間。
厳重に施錠していたはずの正面玄関が、轟音を立てることもなく、静かに、そして滑らかに開かれた。
カツ、カツ、カツ。
優雅なヒールの音が、廊下の大理石を叩く。
その音は、死神の足音のように正確で、逃げ場のない圧迫感を伴って近づいてくる。
「だ、誰だッ! 誰かおらんか! 曲者だぞ!」
男爵が叫ぶが、誰も答えない。
執事もメイドも、既に逃げ出したか、あるいは「処理」された後なのだ。
ダイニングルームの扉が開く。
現れたのは、深紅のドレスを纏った美女だった。
燃えるような赤髪に、切れ長の瞳。その美貌は傾国の美女と呼ぶに相応しいが、纏っている空気が違う。
肌を刺すような覇気と、血の匂いを隠そうともしない危険な香水。
彼女の背後には、喪服のような漆黒のメイド服を着た二人の女が控えている。
表情はない。手には銀の盆を持っているが、その腰には明らかに掃除用具ではない、鋭利な刃物が吊るされていた。
ネモ・ローズ直轄・諜報実行部隊『黒薔薇』。
その隊長を務める、元第一王女エレオノーラ・ゼノリスである。
『――エレオノーラ、計画通りに精神を破壊しなさい』
どこからともなく響くネモの指示に、エレオノーラは妖艶な笑みで応える。
「ごきげんよう、ベルンシュタイン男爵。……あら、随分とお部屋が汚れていらっしゃいますわね」
エレオノーラは、扇子で口元を隠しながら、ゴミを見るような目で男爵を見下ろした。
その視線だけで、男爵の心臓が早鐘を打つ。
生物としての格が違う。
蛇に睨まれた蛙のように、体が動かない。
「き、貴様らは……何者だ……! ここは貴族の屋敷だぞ! 不法侵入で……」
「お黙りなさい」
エレオノーラが一言発しただけで、空気が鉛のように重くなった。
言葉に魔力が乗っている。言霊による強制的な威圧だ。
男爵の口がパクパクと動くが、声が出てこない。喉が痙攣し、呼吸さえままならない。
「汚れているのは部屋だけではありませんわね。
貴方のその心……分不相応なプライドという名の汚泥で詰まっていらっしゃる。……大掃除が必要ですわ」
彼女がパチンと指を鳴らす。
背後のメイドたちが音もなく動き出した。
彼女たちはダイニングテーブルの上に、銀のクローシュ(料理カバー)を置いた。
カチャリ、と蓋が開けられる。
とてつもなく芳醇な香りが、部屋中に充満した。
厚切りのステーキ、湯気を立てる焼きたてのパン、そして琥珀色のスープ。
飢餓状態の男爵にとって、それは暴力的なまでの誘惑だった。
「あ……あぁ……」
男爵の口から、涎が垂れる。
理性が吹き飛ぶ。男爵は椅子を蹴り倒し、テーブルの上の肉へと飛びかかった。
「よこせぇッ!!」
だが。
ガキンッ!
鋭い金属音が響き、男爵の体は床に叩きつけられた。
メイドの一人が持っていたモップの柄――いや、偽装された鋼鉄の槍が、男爵の首元に突きつけられていたのだ。
「……まだ、『よし』と言っておりませんわよ?」
エレオノーラは冷ややかに微笑んだ。
彼女はテーブルの上の皿を手に取り、その中身を――熱々のシチューを、躊躇なく床にぶちまけた。
ビチャリ、と無残な音が響く。
高価な絨毯が汚れるのも構わず、彼女はさらにパンを踏みつけ、ワインを注ぎかけた。
「あ……ああぁぁ……!! な、何をするんだ……!」
男爵が絶望の悲鳴を上げる。
何をするんだ。私の食事が。私の命が。
泥のようになったパンと、床に広がるスープの染み。それは、男爵の残された最後の希望が無残に踏みにじられた光景だった。
「食べたいでしょう? お腹が空いているのでしょう?」
エレオノーラは、男爵の顔を覗き込むように屈んだ。
その瞳が、妖しく輝き始める。
才能【黒炎の支配者・真】に付随する、精神干渉の権能。
視線を合わせた対象の精神に侵入し、自我を破壊して支配下に置く、セリスの【人心掌握】と対を成す闇の洗脳眼。
「でも、貴族のままでは、これは食べられませんわね。
だってこれは、床に落ちたゴミですもの。高貴な男爵様が、地べたを這いつくばって残飯を漁るなんて、できませんわよね?」
甘い毒のような声が、男爵の脳髄を溶かしていく。
「プライドをお捨てなさい。人間であることを諦めなさい。……そうすれば、楽になれますわ」
男爵の脳内で、何かが音を立てて砕けた。
抵抗? 尊厳?
そんな重たい荷物は、もう背負えない。空腹という苦痛の前では、名誉など紙屑よりも軽い。
目の前には、女神がいる。
絶対的な力と、餌を持っている支配者がいる。
この方に支配されたい。この方の靴を舐めたい。この方の犬になりたい。
恐怖が、いつしか倒錯した歓喜へと変わっていく。
「わたくしの可愛いワンちゃんになれば、お腹いっぱい食べさせて差し上げます。……さあ、どうなさいます?」
エレオノーラが靴を退ける。
踏み潰されたパンと、泥のようになったシチューがそこにある。
男爵は――泣きながら笑った。
「た、食べます……! 食べさせてください……!」
彼は四つん這いになり、猛烈な勢いで床の料理に顔を埋めた。
「ふぐっ、むぐっ、あぐ……っ!」
咀嚼音だけが響く。
ソースで顔をぐちゃぐちゃにしながら、男爵は一心不乱に餌を貪る。
うまい。うまい。
なんて美味しいんだ。
プライドなんていらなかった。男爵なんて肩書きは邪魔なだけだった。
私は、レギオン【蜘蛛】様の犬だ。それでいい。それが一番幸せなんだ。
エレオノーラは、無心に食事をする男爵の頭を、汚い雑巾を扱うような手つきで撫でた。
「いい子ね。……これからは、あのお方のために働きなさい。
隠し持っている宝石も、土地の権利書も、全て吐き出すのよ。貴方にはもう、私有財産など必要ありません」
「は……はいッ! わんッ! ありがとうございます、女王様ぁッ!!」
男爵は恍惚の表情で、エレオノーラのヒールに頬擦りをした。
完全に壊れている。
そして、再構築されている。
あのお方――シンのために働き、シンのために死ぬことを至上の喜びとする、勤勉で従順な「家畜」として。
『――対象の精神崩壊を確認。任務完了です』
脳内に、ネモの冷徹な声が響く。
エレオノーラは優雅に立ち上がり、背後のメイドたちに視線を送った。
「この屋敷には、まだ『教育』が必要な者たちが残っていますわ。奥様も、ご令嬢も、使用人たちも……全員集めなさい」
彼女の紅い唇が、三日月のような笑みを刻む。
「特にご令嬢は素質がありそうね。
わたくしの『黒薔薇』の新しい花(新兵)として、たっぷりと可愛がって差し上げましょう」
「「御意」」
メイドたちが音もなく散開する。
屋敷の奥から、短い悲鳴が上がり、すぐに静寂へと変わった。
それは虐殺ではない。
レギオン【蜘蛛】という巨大な家族への、強制的な勧誘だ。
その夜、貴族街のあちこちで、似たような光景が繰り広げられた。
ネモが「癌」となる貴族を特定し、エレオノーラが「手術」を行う。
暴力的なまでの外科手術によって、腐敗していた貴族社会は、一晩にして「健全な牧場」へと生まれ変わったのだ。
翌朝。
ベルンシュタイン男爵は、憑き物が落ちたような爽やかな笑顔で屋敷を出た。
その手には、全財産を詰め込んだトランクが握られている。
彼は鼻歌交じりでジェイドの商会へと向かった。
その首元には、誰にも見えない、しかし決して外れることのない「首輪」が輝いていた。
お読みいただきありがとうございます!
今回は、プライドの高かった貴族が、物理的な飢えと精神的な支配によって「幸福な家畜」へと堕ちる回でした。 影から全てを監視するネモと、表で恐怖を植え付けるエレオノーラ。 この「諜報×洗脳」のコンビは、ある意味で最強の「掃除屋」たちです。 (男爵も、ある意味では幸せ……なのかもしれません)
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