第62話 飢える特権階級と、飽食の市場
革命から、数日が過ぎた。 王都ゼノリスの空は突き抜けるように青く、広場には香ばしい匂いが立ち込めている。 串焼き肉の脂が炭に落ちる音、新鮮な野菜を売り込む商人のダミ声、そして行き交う人々の笑い声。 かつて「死の都」と化しかけていた場所とは到底思えないほどの活気が、そこにはあった。
「はいよ! 『双頭牛』の串焼き、一本オマケしとくよ!」 「ありがとう、おばちゃん!」
人混みの中、Fランク冒険者の姿をしたシンは、焼きたての串を受け取り、満面の笑みを浮かべていた。 今日の彼は、世界を統べる始祖ではない。 ただの雑用係、パシリの少年シンだ。
(……悪くない)
シンは肉を齧りながら、市場を見渡す。 流通は完全に回復している。いや、以前よりも遥かに豊かだ。 レギオンが管理する物流網によって、ダンジョン産の高級食材が安価で市場に流れ込み、民衆の胃袋を満たしている。 人々は口々に、新女王セリスと、治安維持を担うレギオン蜘蛛を称賛していた。
「セリス様のおかげで、税金が半分になったんだってな」 「冒険者様々だよ。昨日も騎士団ができなかった魔物退治を、あっという間に終わらせちまった」
恐怖と不安は消え去り、盲目的な「感謝」と「信仰」だけが残っている。 これこそが、シンが望んだ牧場の形だ。 家畜は、怯えさせて管理するよりも、腹一杯食わせて安心させておいた方が、質の良い魔素を生み出す。
「おや、シンちゃんじゃないか。また買い出し?」 「うん。今日は特売日だからね。卵を確保しないと、ミラお姉ちゃんに怒られちゃうんだ」
シンは八百屋の主人に無邪気に手を振り、買い物カゴを抱え直した。 そのカゴの中には、大根と卵、そして安酒の瓶が入っている。 平和だ。 あまりにも平和で、退屈なほどに完璧な日常。
だが、道を一本隔てた向こう側――「貴族街」には、地獄が広がっていた。
◇
カチャリ、と乾いた音が響く。 豪奢なシャンデリアが下がるダイニングルーム。 ベルンシュタイン男爵は、純銀のフォークを落とし、震える手で頭を抱えていた。
「……ない。何もない」
目の前の皿は空だ。 いや、皿だけではない。屋敷の食糧庫も、ワインセラーも、全てが空っぽだった。 革命以降、貴族街への物流は完全にストップしていた。 正確には「止められている」わけではない。 ただ、価格が異常なのだ。
「パン一つに……金貨十枚だと……?」
今朝、使用人が買ってきた堅焼きパン一つの値段を聞いて、男爵は卒倒しかけた。 庶民なら銅貨数枚で買えるパンが、貴族街の商店では宝石のような値段で売られている。 これは経済制裁だ。 新体制への移行に伴い、旧権力者たちの資産を搾り取るための、合法的な略奪。
「ふざけるな……! 私は男爵だぞ! 王家に連なる名門だぞ!」
男爵は叫び、椅子を蹴り倒した。 腹が減った。 最後にまともな食事をしたのはいつだ? 昨日の夜、固くなったチーズの欠片を齧ったのが最後か。 胃袋が内側から酸で焼かれるような激痛。 プライド? 名誉? そんなものでは腹は膨れない。
「……金だ。金さえあれば」
男爵は狂ったような目つきで、金庫へと走った。 中には、先祖代々の宝飾品や、権利書、そして大量の金貨が眠っている。 彼はそれらを鞄に詰め込めるだけ詰め込んだ。 重い。だが、この重みこそが力の象徴だ。 これだけあれば、どんな商人でも傅くに違いない。
「買い占めてやる……! 肉も、酒も、全て!」
男爵は屋敷を飛び出し、裏路地へと向かった。 表の市場では顔が割れている。だが、裏社会の闇市なら、金さえ積めば何でも手に入るはずだ。
薄暗い路地裏。 腐った水の臭いと、香辛料の香りが混ざり合う一角に、その店はあった。 看板はない。ただ、入り口に小さな「蜘蛛」のマークが刻まれているだけだ。
「おい! 店主はいるか!」
男爵はカウンターに鞄を叩きつけた。 ジャラジャラと中身が溢れ出し、黄金の輝きが薄暗い店内を照らす。
「食料をくれ! あるだけ全部だ! 金ならいくらでもある!」
奥から出てきたのは、糸目の男だった。 笑顔を貼り付けたような、胡散臭い商人。 彼はカウンターに散らばる金銀財宝を一瞥し、つまらなそうに鼻を鳴らした。
「……困りますねぇ、お客さん。ウチはゴミ処理場じゃないんですよ?」 「な……ゴミだと!?」
男爵は耳を疑った。 目の前にあるのは純金だ。最高級のルビーだ。 王都の一等地が買えるほどの財産だぞ?
「今はねぇ、そんな石ころよりも『信用』が大事なんですよ」 商人は冷ややかに告げた。 「レギオン様が発行した商業手形か、冒険者ギルドの会員証。それがない奴には、水の一滴も売るなとのお達しでしてね」 「そ、そんな……馬鹿なことがあるか! 金だぞ!? 万能の通貨だぞ!」 「あーあ、うるさいなぁ」
商人が指を鳴らす。 瞬間、店の奥から屈強な男たちが現れ、男爵の両脇を抱え上げた。
「や、やめろ! 私は男爵だ! 離せェッ!!」 「旧時代の遺物は、掃き溜めがお似合いだ」
ドサッ! 男爵は路地裏の泥水の中に放り出された。 鞄も一緒に投げ返される。中からこぼれ落ちた金貨が、泥に塗れて鈍く光った。
「う……うぅ……」
男爵は泥まみれになりながら、這いつくばった。 目の前に、干からびたパンの耳が落ちている。 それを拾おうと手を伸ばした瞬間、横から黒い影が飛び出した。 野良犬だ。 痩せこけた犬が、男爵の手を噛み、パンの耳を奪い去っていく。
「ひっ、あぁ……あぁぁぁ……」
痛みよりも、情けなさが勝った。 犬に負けた。 男爵である自分が、野良犬と残飯を奪い合って負けたのだ。 彼は泥水の中に顔を埋め、子供のように泣き崩れた。 そのポケットに入っている宝石は、今やただの硬い石ころでしかなかった。
◇
その様子を、遥か頭上から見下ろしている二つの影があった。 時計塔の屋根の上。 夕風にコートを靡かせるシンと、その背後に控えるジェイドだ。
「……ご覧になりましたか、主よ」
ジェイドが愉快そうに口角を上げる。 彼は扇子を開き、口元を隠しながら報告を続けた。
「現在、貴族街の資産価値は暴落中。彼らが隠し持っていた美術品や土地の権利書は、二束三文で我が商会が買い叩いております。あと数日もすれば、この国の富の九割は、貴方様のものとなるでしょう」
完璧な経済封鎖。 暴力を使わずとも、流通という「血液」を止めるだけで、人間はここまで脆く崩れ去る。 ジェイド・バーンズ。 黄金の支配者の二つ名は伊達ではない。
「悪趣味だな、お前も」
シンは眼下の男爵――泥水を啜っている元特権階級を見つめ、冷ややかに笑った。
「だが、必要な儀式だ。彼らのプライドという名の骨をへし折り、地べたを這いずり回らせろ。……餌を与えるのは、彼らが『人』としての尊厳を捨て、ただの『従順な犬』になってからだ」 「御意。……躾の時間ですね」
ジェイドが恭しく一礼する。 シンは市場の方角へと視線を戻した。 そこには、まだ温かい光が灯り、人々の笑い声が溢れている。
「光が強ければ強いほど、影は濃くなる」
シンはポケットから、先ほど買った特売の卵を取り出し、夕陽にかざした。 その殻の中には、新しい生命ではなく、混沌とした支配の縮図が詰まっているように見えた。
「さあ、帰ろうか。今日はミラがオムレツを作って待っている」
世界を掌握した魔王は、卵が割れないように大事にポケットへ仕舞うと、闇の中へと溶けるように消えた。 貴族たちの絶望の嘆きは、市場の喧騒にかき消され、誰の耳にも届くことはない。
王都ネメシス。 そこは今や、巨大な蜘蛛の巣の中心。 生かすも殺すも、すべては一匹の蜘蛛の気まぐれ次第なのだった。
本日もお読みいただきありがとうございました。
革命の「その後」を描いた日常回でした。 一般市民にとっては「良い政治」でも、旧体制側にとっては「地獄」となる。流通と経済を握るジェイドの恐ろしさが光るエピソードです。
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続きます。




