第3話 旅立ちの刻
メジ村の門番を恐怖で屈服させ、追放という名の見送りを受けてから数日が経過した。
シンは一人、地平線の彼方まで延々と続く灰色の道を歩き続けていた。
かつては完全に平坦であっただろうその道も、今では無惨にひび割れている。
亀裂の隙間からは見たこともない異形の植物が顔を出し、枯れた荒野に異物感を放っていた。
シンの漆黒の瞳が、足元の灰色の地面を冷ややかに観察する。
歩みを進めるごとに、ある奇妙な違和感が彼の精緻な思考を掠めていた。
(……奇妙な道だ。魔法の痕跡が一切ない。まるで岩そのものを溶かして敷き詰めたような……)
現在、この世界において強固な道を敷くのであれば、土属性の才能による地盤操作が常識だ。
しかし、この広大な大地を這う灰色の道からは、魔力の残滓が微塵も感じられないのだ。
それは明らかに、現在の人類が持つ理とは全く別の技術体系で造られている。
(未知の理……魔法の介在しない文明の痕跡、か。興味深い)
その時、シンの足元で風景と同化していた岩の一部が突如として跳躍した。
周囲の景色に完全に溶け込む保護色を持った魔物、D位階の擬態蜥蜴である。
鋭い牙がシンの喉元に迫るが、彼の歩みは微塵も揺るがない。
シンが視線すら向けずに指を弾くと、あらかじめ展開されていた粘糸が作動した。
不可視の刃が空間を碁盤の目のように走り抜け、迫り来る魔物を空中でサイコロ状に解体する。
血の雨と共に転げ落ちた核を拾い上げ、シンは無造作に噛み砕いた。
ドクン、と心臓が一つ脈を打ち、新たな能力が本能の奥底へと刻み込まれる。
――【幻影迷彩】を獲得。
(……なるほど。自身の気配や魔力波長を偽装する力か。これは使える)
自身の細胞を操作し、光の屈折や魔力の波長すらも偽装する生存の才能である。
シンは口角をわずかに上げ、再び顔を上げた。
灰色の道の果て、霞む地平線の向こうに、天を突くほど巨大な防壁が見えてきた。
――城塞都市ネメシス。
この地域一帯を統括する中心都市であり、冒険者たちが集う巨大な欲望のるつぼ。
その城壁の奥には、石造りの家々だけでなく、かつての文明の遺骸たる灰色の巨塔群が林立している。
(……趣味が悪い。墓標の群れの中で生きているようなものだな)
シンにとってそこは、新たな「牧場」の入り口に過ぎなかった。
弱き少年の仮面を深く被り直し、冷酷な捕食者は都市の門へと向かう。
◇
城塞都市ネメシスの冒険者ギルドは、むせ返るような熱気と喧騒に包まれていた。
血と安い酒、そして獣の脂の匂いが混ざり合う、荒くれ者たちの吹き溜まりである。
重厚な両開きの扉を押し開け、ボロボロの黒布を纏ったひ弱な少年が足を踏み入れた。
途端に近くのテーブルの喧騒がピタリと止み、値踏みするような無数の冷ややかな視線がシンに突き刺さる。
歴戦の戦士たちが放つ、剥き出しの殺気と威圧感。
辺境から来た普通の少年であれば、その空気に当てられただけで失神していただろう。
だが、シンは完璧に怯えた弱者を演じ切り、ビクビクと肩をすくめながら受付カウンターへと進み出た。
「あ、あの……田舎から出てきたばかりで……冒険者の登録をしたいんですが」
「……身分を証明する記録はお持ちでないようですね。では、この鑑定水晶に触れてください」
受付嬢は、事務的でありながらも、明日には死ぬであろう弱者を見る哀れみの瞳で、濁った光を放つ石を台座に置いた。
対象の階級と才能を読み取り、表面に投影する粗末な魔導具。
シンは恐怖で震える手を必死に伸ばすふりをしながら、水晶の表面にそっと触れる。
その瞬間、道中で得た【幻影迷彩】を全開にして、自身の神域の魔力を極限まで押し隠した。
もし彼が素の魔力をわずかでも流し込めば、この程度の石ころなど街の区画ごと吹き飛んでしまう。
さらに、指先の皮膚から目視不可能なミクロの粘糸を射出し、水晶内部の理へと直接侵入させる。
魔力回路の接続を物理的に切断し、別の回路へと繋ぎ直す神業の如き改竄劇。
人間たちが作り上げた脆弱な箱庭を、シンは指先一つの操作で意のままに書き換えていく。
数秒の沈黙の後、水晶がチカチカと明滅し、空中に淡い光の文字を投影した。
表示された結果は、『F位階』。
そして保有する才能は、『蜘蛛操作(F)』のみ。
結果を見た受付嬢が、隠しきれない深いため息をついた直後だった。
「おい見ろよ! F位階だぞ!」
背後から結果を覗き込んでいた、顔に傷のある巨漢の冒険者が耐えきれずに吹き出した。
「蜘蛛操作? 糸遊びかよ! ギャハハ! 虫取り網でも持ってこい!」
「こんなヒョロガキ、外に出た瞬間にスライムに消化されちまうぞ!」
その声を皮切りに、ギルド中に下卑た嘲笑と爆笑の渦が巻き起こる。
最前線で命を削る戦士たちにとって、底辺以下の能力しか持たないシンの存在は最高の道化であった。
「ひぃっ……! す、すみません……」
シンは涙目になりながら、怯えた小動物のように小さく震えてみせる。
だが、前髪の奥に隠された漆黒の瞳は、一切の感情を持たずに彼らを観察していた。
(……笑え。その油断が、俺の『迷彩』になる)
無能なF位階という、誰も警戒しない最弱の仮面。
これこそが、絶対支配者たる彼が社会の底辺から中枢へ食い込むための、最も凶悪な罠であった。
◇
冒険者としての登録手続きを終えたシンは、そのままカウンターの端にある換金窓口へと移動した。
背後で響き渡る下卑た嘲笑を浴びながら、腰に提げていた粗末な麻袋の口を開く。
「あ、あの。これ、買い取ってもらえますか……?」
「はいはい。F位階の素材ね。どうせ大ネズミの尻尾か何かでしょ……って、え?」
気怠げに応対していた受付嬢の目が、カウンターの上に転がった石塊を見て大きく見開かれた。
ゴトッ、と鈍い音を立てて転がったのは、血の匂いが微かにこびりついた二つの核である。
「これ……D位階の擬態蜥蜴に、E位階の腐敗狼の核じゃない! あなた、これを一人で狩ったの!?」
彼女の驚愕の声に、近くのテーブルで酒を飲んでいた冒険者たちが怪訝そうに視線を向けてくる。
最弱のF位階の少年が、屈強な戦士でも手こずる魔物を討伐するなど、天地がひっくり返ってもあり得ないからだ。
「ひぃっ! ち、違います! 違いますよぉ……!」
シンは慌てふためき、顔の前で大げさに両手を振って必死に否定してみせた。
「……運良く、道端に死体が転がっていたので。他の魔物に食べられたり、燃やされたりする前に石だけ抜いてきました……!」
それは、他者が狩った獲物の残骸から利益を掠め取る、底辺特有のハイエナ行為の告白であった。
「……なるほど。死体漁りね」
受付嬢はひどく納得した顔つきになり、安堵と同時に、あからさまな軽蔑の色を瞳に浮かべた。
だが、同時に同情も混ざっている。こんなひ弱な子供が生き延びるには、そうやって泥水をすするしかないと知っているからだ。
「……命拾いしたわね、坊や。でも、運がいつまでも続くとは思わないことね。次はちゃんと自分で稼ぎなさい」
「は、はい……! ありがとうございます……!」
受付嬢から数枚の銀貨と銅貨を受け取り、シンは何度も深く頭を下げてから窓口を離れた。
背を向けた瞬間、シンの顔から怯えた少年の表情がスッと消え失せる。
(……愚かな。見えるものしか信じないから、本質を見誤る)
懐に硬貨を滑り込ませながら、シンはギルドの壁一面に張り出された依頼掲示板を見上げた。
そこには、近隣の森での討伐任務や、迷宮と呼ばれる地下遺跡の探索依頼が無数に貼られている。
だが、シンの視線は最も報酬が高く、強力な魔物が出現する高難易度の依頼書にしか向けられていなかった。
(……美味そうな獲物は多い。だが、どれも『C位階以上推奨』や『F位階受注不可』の制限つきか)
冒険者ギルドの理は絶対であり、規定の位階を満たさない者は、死地へ赴く権利すら与えられない。
最弱の仮面は、人間どもの目を欺き、社会に潜り込むための『迷彩』としては完璧に機能した。
しかし、いざ極上の「食卓」へ着こうとすると、その社会的立場の低さが足枷となってしまうのだ。
(今の俺が正規に受けられるのは……下水道掃除かドブさらいしかないか。これでは効率が悪すぎる)
チッ、とシンは誰にも聞こえないほどの小さな舌打ちをした。
絶対的な力を持つ彼にとって、ゴミのような魔物しかいない浅層で時間を潰すなど、ひどく退屈な浪費でしかない。
どうすれば、この制限をすり抜け、合法的に『餌場』の深奥へと足を踏み入れることができるか。
シンの冷徹な頭脳が、効率的な捕食のための最適解を導き出そうと静かに回転し始めた。
◇
シンは壁一面を覆う依頼掲示板の前に立ち、周囲の喧騒から切り離されたように静かに思考の海へと沈んでいた。
最弱のF位階という立場は、人間社会に溶け込む隠れ蓑としてはこれ以上ないほど優秀である。
だが、強力な異形が潜む迷宮の深層――極上の「餌場」へ向かうための通行手形としては、致命的なまでに不便だった。
(……誰か、都合よく利用できる『案内役』はいないか)
表向きは彼らの庇護下に入るふりをしつつ、合法的に深層へと連れて行かせるための手駒。
無能な少年のふりをしたまま、極上の核を貪るための、傲慢で力のある使い捨ての駒が必要だ。
シンの漆黒の瞳が、ギルド内にたむろする冒険者たちを値踏みするように冷ややかに巡る。
だが、どれも薄汚れた小魚ばかりであり、神域の捕食者を満足させるような「特上肉」の気配はどこにも見当たらない。
彼がそうやって退屈な失望の息を吐き出そうとした、まさにその時だった。
ドォンッ!!
爆発音と見紛うほどの凄まじい轟音と共に、ギルドの重厚な両開きの扉が内側へ向かって無惨に蹴り破られた。
先ほどまで下卑た笑い声と酒の匂いで満ちていたギルド内の空気が、文字通り一瞬にして凍りつく。
舞い散る木っ端と粉塵の向こう側から姿を現したのは、真紅の重装鎧を纏った筋骨隆々の巨漢だった。
「――邪魔だッ!! 道を開けろ雑魚共ッ!!」
ギルド全体を震わせる、傲慢で暴力的な怒声。
彼に付き従うように、異様なまでの魔力の威圧感を放つ三人の男女が土足で踏み込んでくる。
この街の頂点に君臨する最強の冒険者たち、B位階パーティ『紅蓮の獅子』の到来であった。
人間の肉体的限界点に達した彼らが放つ圧倒的な暴の気配に、歴戦の戦士たちでさえ恐怖に顔を引きつらせて後ずさる。
誰もが息を潜め、嵐が過ぎ去るのを待つように視線を床へ落とす中。
ただ一人、掲示板の前に立つボロボロの黒布を纏った少年だけが。
(……お?)
一切の感情を宿さない漆黒の瞳で、自ら飛び込んできた極上の「獲物」たちを、無表情のまま静かに見つめていた。
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