第2話 最初の捕食と|進化《エボリューション》
鬱蒼と生い茂る深緑の森を抜け、視界が唐突に開けた。
かつて栄華を極めたであろう古代の大路は、今や崩れかけた石畳を残すのみとなっている。
その廃墟の道を、一人の少年が歩いていた。
死体から剥ぎ取ったボロボロの黒い布を纏う、漆黒の髪と瞳を持つ十五歳ほどの少年。
始祖・シン。
それが、この世界を喰らい尽くす絶対支配者の名であった。
「グルルルル……ッ」
草むらを掻き分け、低い唸り声と共に一匹の獣が姿を現した。
腐肉を漁るE位階の魔物、腐敗狼である。
森の最奥で跋扈する規格外の化け物たちと比べれば、とるに足らない矮小な存在。
飢えに狂った瞳が、小柄なシンを「極上の餌」と認識し、よだれを垂らす。
だが、狩られるのはどちらか。
シンは立ち止まり、無表情のまま右手の指先をわずかに動かした。
――ヒュンッ。
音もなく放たれた極細の粘糸が、空間を切り裂く。
それは鋼をも容易く両断する、死の刃であった。
「ギャンッ!?」
腐敗狼の首が、呆気なく宙を舞った。
遅れて噴き出した鮮血が、乾いた石畳を赤く染め上げる。
シンは血溜まりを一瞥し、無造作に獣の胸ぐらを蹴り裂いた。
肉片の中から、鈍く光る石塊――核を引きずり出す。
「……いただきます」
無感情な声と共に、シンは血濡れた核を口に放り込んだ。
ガリリ、と無機質な音を立てて噛み砕き、その内包する魔力を喉の奥へと流し込む。
「……不味い」
シンの端正な顔が、わずかに歪んだ。
森の奥で喰らってきた強大な異形たちの味と比べれば、あまりにも薄弱。
泥水すらすする価値のない、下等な魔力の残滓でしかなかった。
自身の持つ才能捕食が満たされるには、圧倒的に質が足りない。
「やはり雑魚か。……だが、塵も積もれば山となる」
シンは口元の血を乱暴に拭い、前を向いた。
彼の視線の先、なだらかな丘を下った平原の広がりの中に、無骨な木の柵に囲まれた集落が見える。
人間社会の末端、『メジ村』であった。
丘の上から見下ろす集落の防壁は、シンの目にはあまりにも滑稽に映った。
魔物の侵攻を防ぐためのものだろうが、ただの木の棒を並べただけの代物である。
「脆い。俺が歩くだけで崩壊する」
絶対的な力を持つ彼にとって、それは障子紙以下の強度でしかなかった。
だが、彼が興味を惹かれたのは、その脆弱な檻の中で蠢く者たちの姿である。
「(異形だらけの世界で、なぜあの生き物だけが俺と同じ形をしている? ……確かめる必要があるな)」
シンは目を細め、冷ややかに思考する。
彼にとって人間とは、守るべき同胞などではない。
生態を観察し、管理し、そして絞り尽くすための『家畜』であった。
弱き少年の仮面を被り、シンはゆっくりと村へ向かって歩き出した。
◇
粗末な木の柵で囲まれたメジ村の入り口。
そこには、検問所として機能する小さな小屋と、退屈そうに槍を構える門番の姿があった。
「次! そこの薄汚いガキ、前に出ろ!」
下卑た声を張り上げたのは、門番のタゴだ。
彼は弱者を虐げることだけを生きがいとする、絵に描いたような小悪党であった。
シンはひどく怯えた様子で肩をビクンと揺らし、おずおずとタゴの前に進み出る。
その顔には、見知らぬ大人に対する恐怖と緊張が完璧なまでに張り付いていた。
「……あ、あの……森から来ました。旅の者です」
消え入りそうな声は、今にも泣き出しそうな少年のそれだ。
タゴはシンのボロボロの衣服と細い腕を値踏みするように見つめ、鼻で嗤う。
「ふん、森の浮浪者か。身分を証明するものがねえなら、この鑑定水晶に触れろ」
タゴが乱暴な手つきで台座の上に置いたのは、濁った光を放つ透明な石だった。
それは対象の階級と才能を読み取り、表面に投影する粗悪な魔導具である。
シンは震える手を伸ばし、恐る恐る水晶の表面にそっと触れた。
表面上は怯えた子供を演じながらも、シンの内なる思考は極めて冷徹に稼働している。
(……脆いな。指一本で壊せそうだ)
無意識に漏れ出る自身のG位階――神域の魔力をそのまま流し込めばどうなるか。
この程度の粗悪品など、触れた瞬間に村の防壁ごと粉微塵に吹き飛んでしまうだろう。
シンは息を潜めるように、自身の圧倒的な力を極限まで絞り込み、虚無の底へと封じ込める。
その上で、指先の皮膚を極小サイズで破り、目視不可能な細さの粘糸を水晶内部へと侵入させた。
魔導具の内部構造は、理と呼ばれる魔力回路で構成されている。
シンはそれを「脆弱な箱庭」と断じ、蜘蛛の糸で物理的に回路の接続を組み替えていく。
自らの記録を書き換えるための、神の如き精密な改竄。
瞬きの間に全ての偽装を終えると、水晶はチカチカと点滅し、淡い光の文字を空中に投影した。
そこに浮かび上がったのは、シンが意図的に作り出した最弱の証明である。
「なんだ……F位階かよ。しかも才能は『蜘蛛操作』? 虫遊びかよ!」
結果を見たタゴは、張り詰めていた警戒を完全に解き、腹を抱えて下品な笑い声を上げた。
周囲にいた他の門番たちも、シンの絶望的な無能さを嘲笑し、侮蔑の視線を向ける。
「ギャハハ! F位階かよ! お前みたいな雑魚、ネズミに食われて死んじまえ!」
「ひぃっ……! ご、ごめんなさい……!」
罵声と嘲笑の雨を浴びながら、シンは顔を伏せて小さく震えてみせた。
だが、その前髪の奥に隠された漆黒の瞳は、絶対零度の冷たさを保ったままである。
(……都合がいい。弱者の仮面を被っていれば、誰にも警戒されずに『国盗り』ができる)
シンにとって、この小悪党たちからの評価など、路傍の石以下の価値しかない。
重要なのは、この無能な「家畜」どもをいかに効率よく手懐け、搾取し、管理するかだ。
「さっさと通れ! 足手まといは邪魔なんだよ!」
タゴの乱暴な蹴りをわざと不格好に避け、泥にまみれながら、シンは村の敷地へと足を踏み入れる。
彼が歩むその一歩が、やがてこの世界全てを飲み込む絶望の始まりであることを、誰も知らない。
◇
カビと獣の糞尿の臭いが立ち込める、薄暗い穀物倉庫の前。
タゴはニヤニヤと意地悪な笑みを浮かべ、重い木扉の鍵を開けた。
「いいか、新入り。お前の最初の仕事はこの倉庫のネズミ駆除だ」
タゴが顎でしゃくった先には、暗闇の中で無数の赤い双眸が蠢いていた。
ただのネズミではない。犬ほどもある巨躯を持つ魔物、巨大鼠の群れだ。
「村の貴重な食料を食い荒らす害獣どもだ。一匹残らず始末してこい」
それは明らかな死への誘導だった。
本来、これほどの群れを相手にするなら、最低でもD位階以上の実力が必要となる。
最弱のF位階と判定された少年に押し付ける任務ではない。
タゴは、生意気な小娘のような顔をしたこのガキが、無惨に食い殺される悲鳴を聞きたかったのだ。
「あ、あの……こんなにたくさん、僕一人で……?」
シンは恐怖で震える声で尋ね、涙ぐんだ瞳でタゴを見上げる。
その完璧な弱者の演技に、タゴはますます下劣な笑みを深めた。
「安心しろ。お前のその『蜘蛛遊び』で、糸でも張って身を守ればいいさ。じゃあな!」
タゴは背中を強く突き飛ばすと、外から重い扉を閉めて乱暴に鍵をかけた。
ガチャン、という冷たい金属音が響き、倉庫の中は完全な暗闇に閉ざされる。
直後。
シンの顔から、怯えたような表情がスッと消え失せた。
「……害獣駆除、か」
暗闇の中、シンの唇が三日月のように歪む。
それは、獲物を前にした絶対的捕食者の、残酷で純粋な歓喜の笑みであった。
「合法的に『食事』ができる。素晴らしい環境じゃないか」
チチチ、と耳障りな鳴き声を上げながら、巨大鼠の群れが四方八方から迫ってくる。
飢えた魔物たちは、閉ざされた空間に投げ込まれた新鮮な肉に狂乱していた。
だが、彼らは致命的な勘違いをしている。
この空間に閉じ込められたのは、シンではない。
絶海に浮かぶ孤島のように、逃げ場のない密室に閉じ込められたのは、ネズミたちの方なのだ。
シンはゆっくりと右手を上げ、五本の指を軽く開いた。
その指先から、肉眼では捉えられないほどの極細の粘糸が放たれる。
「踊れ」
短い冷酷な命令と共に、シンの指が指揮者のように滑らかに宙を舞う。
次の瞬間、暗闇の中で凄惨な血の狂宴が幕を開けた。
「ギィッ!?」
「ギャアアアアッ!」
四方から飛びかかってきた数十匹の巨大鼠が、空中でピタリと静止する。
そして、目に見えない無数の刃に切り刻まれたように、その巨躯がサイコロ状に解体された。
悲鳴を上げる間もなく、肉塊と化した獣たちが血の雨となって降り注ぐ。
シンは一歩も動くことなく、ただ指先をほんの数ミリ動かしただけだった。
「……いただきます」
血溜まりの中を歩き、シンは散乱する肉片の中から鈍く光る核を拾い上げる。
それを無造作に口へ放り込み、ガリリと噛み砕いて喉の奥へと流し込んだ。
ドクン。
シンの心臓が一度だけ強く脈打った。
体内の免疫系が書き換えられ、網膜の構造が暗闇に適応していく「変異」の感覚だけが、淡々と脳髄に染み渡る。
――【病魔耐性】。
――【夜目】。
新たに刻まれた才能の名称と使い方を、シンは教えられるまでもなく本能で理解した。
彼が有する絶対能力、才能捕食。
他者の核を喰らうことで、その対象が持っていた能力を完全に奪い取る神の権能。
だが、下等な魔物から得られる力は、彼にとってはゴミにも等しい。
シンは淡々と作業を続ける。
殺し、喰らい、奪う。
息を吸うように自然なその行為は、ものの数分で倉庫内の全ての命を刈り取った。
静寂が戻った暗闇の中で、シンは衣服に一滴の血も跳ねていないことを確認し、ゆっくりと扉の方へ歩き出した。
◇
夕暮れの冷たい風が、メジ村の土埃を巻き上げる。
重い木扉が内側から開き、ギィッと不快な音を立てた。
「……嘘だろ」
見回りに来ていたタゴは、信じられないものを見る目でその光景を呆然と見つめた。
薄暗い倉庫の中から歩み出てきたのは、衣服の端すら汚していないシンの姿だった。
「無事、終わりました。全部片付けましたよ」
シンは怯えた少年の表情を崩さぬまま、血濡れた麻袋をタゴの足元へ投げ出した。
どさりと重い音を立てて袋の口が開き、中から無数の巨大鼠の核がこぼれ落ちる。
「ば、馬鹿な……F位階のガキが、一人で……?」
タゴの顔面から、さぁっと血の気が引いていく。
これだけの群れを無傷で殲滅するなど、熟練の冒険者でも不可能に近い。
目の前にいるのは、ただのひ弱な浮浪者ではない。
人間の皮を被った、得体の知れない『何か』だ。
本能的な恐怖に支配されたタゴは、腰に提げていた周辺地域の地図を震える手でむしり取った。
そして、それをシンの胸に押し付けるように叩きつける。
「こ、これを持って、とっとと村から出て行け! もう二度と面を見せるな!」
それは、明らかな「厄介払い」であった。
理不尽な恐怖から逃れるため、タゴは門番としての職務すら放棄したのだ。
「……はい。お世話になりました」
シンは深々と頭を下げ、背を向けて村の出口へと歩き出す。
夕日に照らされた街道を歩きながら、彼は押し付けられた地図を広げた。
村から遠く離れた北西の地点に、ひときわ大きく記された都市の印がある。
――城塞都市ネメシス。
シンの口角が、誰にも見られることなく微かに吊り上がった。
「……行くか。世界は広い。そして、その全てが俺の食卓だ」
小さな村の底辺で嗤われていた少年は、やがて世界を喰らい尽くす絶対支配者となる。
今はまだ、誰もその絶望の幕開けを知らない。
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