第1話 滅びた世界の|始祖《オリジン》
世界は、かつて一度、音もなく死んだ。
ある晴れた昼下がり。それはあまりにも唐突に、慈悲なき静寂として訪れた。
『大消失』。
後にそう呼ばれる災厄により、人類は地面に自身の「影」だけを黒々と焼き付け、光の粒子と化して消滅した。
悲鳴すら上がらない、完璧な終焉。
残されたのは、崩壊していく鉄の廃墟と、地面にこびりついた無数の虚ろな影だけだった。
それから、どれほどの悠久の時が流れたのか。
かつて人間の街だった場所は、今や凶悪な魔物たちが跋扈する、鬱蒼と生い茂る異形の森へと姿を変えていた。
誰の目にも触れない、その深緑の最奥。
大地に焼き付いていた無数の影の一つが、突如として不気味な脈動を始めた。
平面であったはずの暗黒が、まるで意思を持った泥のようにドロドロと盛り上がる。
それは周囲の魔素を貪欲に吸い上げながら、確かな質量を伴った肉体へと形を変えていった。
漆黒の髪。深淵のように暗い瞳。そして、透き通るような白い肌。
影の泥から這い出たのは、一糸纏わぬ、五歳ほどの小さな少年だった。
彼には、過去の記憶も、善悪の概念も存在しない。
ただ、空っぽの器としてこの再構築された世界に産み落とされた、ひとつの異端だった。
「…………」
泥の中から緩慢に身を起こした幼児が、最初に感じたもの。
それは、自身の存在意義すらも塗りつぶすほどの、強烈で暴力的な「飢え」だった。
内臓を直接握り潰されるような、圧倒的な渇望。
何かを口に入れなければ、この仮初めの肉体は瞬く間に崩壊してしまう。
「……腹が、減った」
ひび割れた小さな唇から、掠れた声がこぼれ落ちる。
細く頼りない手足には立ち上がる力すらなく、彼はただ泥にまみれて息を荒らげていた。
その時、カサカサという無数の這いずる音が、静寂の森に響き渡る。
彼の周囲を黒く埋め尽くすように現れたのは、悍ましい姿をした漆黒の蜘蛛の群れだった。
本来ならば、この変異した森における凶悪な捕食者たち。
だが彼らは、動けない幼児に牙を剥くどころか、見えない重圧に押し潰されたように平伏したのだ。
無数の複眼が、怯えと絶対的な服従を込めて幼児を見上げている。
そして、一匹の巨大な蜘蛛が歩み寄り、ぽろりと口から何かを吐き出した。
泥の上に転がったのは、鮮やかな赤い色をした、命の匂いがする木の実だった。
なぜ、魔物が己に傅くのか。
その答えを、彼は教えられるまでもなく本能の奥底で完全に理解していた。
己の魂に刻まれた、絶対的な支配の理。
『蜘蛛操作』の才能が、彼らから反逆の意志を奪い去っていたのだ。
幼児は震える腕を伸ばし、泥まみれの小さな手で、その果実をしっかりと握りしめた。
善悪の概念を持たない、冷徹な捕食者が産声を上げた瞬間だった。
「俺の名は……シン。……いただきます」
果実に乱暴に噛みついた瞬間、甘ったるい果汁が乾ききった喉を潤した。
空っぽだった脳髄の奥底に明確な「自我」が定着し、終わりのない飢餓の世界が、今ここに幕を開ける。
◇
弱肉強食。それは、この再構築された世界を支配する唯一にして絶対の理である。
鬱蒼とした魔境の森において、その法則は最も色濃く、そして残酷に機能していた。
だが、泥から這い出たばかりの五歳の幼児にとって、そこは単なる「広大な食堂」に過ぎなかった。
静寂を切り裂き、茂みから猛毒を宿した大蛇が飛び出してくる。
だが、その毒牙が少年の肉に届くより早く、見えない粘糸生成の罠が大蛇の首を刎ね飛ばした。
少年は無表情のまま血だまりへ歩み寄り、砕けた頭蓋から『才能の核』を引きずり出す。
それを無造作に噛み砕き、ゴクリと飲み込んだ。
熱い魔素が駆け巡り、『猛毒生成』の才能が彼の肉体に刻印される。
次に狙うのは、岩山のように強固な甲羅を持つ巨大亀の魔獣だった。
これもまた、蜘蛛の群れと毒を用いた緻密な罠で、あっけなく屠り去る。
血に塗れた核を喰らい、『甲羅硬化』の理を己の血肉へと変えた。
最初は泥臭い殺し合いだった捕食行為は、いつしか洗練された「作業」へと変わっていた。
息を吸うように命を奪い、水を飲むように能力を喰らう。
数日、数ヶ月、数年。
果てしない暴食を繰り返すうちに、彼の肉体には確かな時が流れていく。
季節が巡るたびに、少年の手足は長く伸び、幼児特有の柔らかさは削ぎ落とされていった。
代わりに、無駄のない鋼のような筋肉を纏った、凶悪な狩人の肉体へと変貌していく。
獣の粗末な皮と、編み込まれた蜘蛛の糸だけを纏う一人の少年。
膨大な魔素の継続的な摂取により、彼の肉体年齢は物理的に「十三歳」へと到達していた。
彼が落ち葉を踏み鳴らして歩を進めるだけで、森の木々は恐れをなしたように道を空ける。
かつて彼を餌として狙っていた凶暴な魔物たちは、その気配を感じただけで絶望し、地面に平伏した。
逆らうことすら許されない、圧倒的な「格」の違い。
十三歳となったシンは、名実ともにこの広大な魔境を支配する、絶対的な「王」として君臨していた。
だが、生態系の頂点に立ったはずの彼の瞳には、依然として底知れぬ飢えが渦巻いていた。
数千の命を喰らっても、その魂の渇きが癒えることはない。
「……足りない。肉も、毒も、炎も……ただの物理現象だ」
血まみれの指先を見つめながら、十三歳の少年は無感情に呟く。
物理的な能力の進化をどれほど重ねようとも、所詮は器の枠内に過ぎない。
「俺が欲しいのは、もっと……世界を構成する『理』そのものだ」
彼が求めたのは、現象の根源。
世界の法則そのものを書き換えるような、理外の力に対する強烈な渇望だった。
その飢えに導かれるように、彼は森の最奥へと視線を向ける。
そこは、いかなる強大な魔物も近づこうとしない絶対不可侵領域――『時知らずの谷』。
「……あそこか。美味そうな匂いがする」
深い霧に包まれた死の谷を見下ろし、シンは微かに口角を上げた。
底なしの胃袋を持つ怪物は、己の「器」を完成させるための極上の餌を求め、静かに歩みを進める。
◇
絶対不可侵領域『時知らずの谷』。
そこは、音も風も、光すらも淀む完全な死の空間だった。
谷の底を埋め尽くすように、淀んだ灰色の霧が立ち込めている。
Sランクの理外の魔物――『時喰らい(クロノミスト)』である。
物理的な肉体を持たず、ただ漂うだけの無慈悲な厄災。
十三歳のシンは無表情のまま、その霧へ向けてゆっくりと左腕を差し出した。
触れた瞬間、激痛すらも置き去りにする未知の現象が起きる。
彼の左腕の細胞が急速に老化し、一瞬にして乾いた灰となって崩れ落ちたのだ。
「……なるほど。触れたものの時間を奪い、朽ちさせるのか」
シンは失われた左腕の断面を見つめ、淡々と事実だけを分析する。
直後、過去に喰らった超再生の理が働き、新たな腕が瞬時に生え揃った。
だが、彼は理解した。どれほど強靭な肉体や再生力を持とうと、寿命という概念がある限りこの霧には勝てない。
普通の生物ならば、絶望して逃げ出す絶対的な死の壁である。
しかし、怪物の虚ろな瞳に浮かんでいたのは、恐怖ではなく底知れぬ食欲だった。
あれを喰らえば、永遠の時間が手に入る。
「時間を食うのか。……なら、俺がお前の『時間』を食い尽くしてやる」
シンは、己の内にストックされた数万の命を触媒とし、自身の姿を模した『分身体』を無数に生成する。
それは、一切の感情を持たない肉と泥の人形たちだった。
短い命令と共に、数万の分身体が灰色の霧へ向けて一斉に駆け出す。
霧に触れた端から白骨化し、塵となって消滅していく人形たち。
それは戦闘などではなく、ただの命の使い捨て。
絶対的な寿命の壁に対する、純粋な物量による果てしない消耗戦だった。
一体が消滅するたび、本体であるシンにも老化と死の苦痛がフィードバックされる。
だが彼は顔色一つ変えず、次から次へと自らの命を弾丸として撃ち出し続けた。
三日三晩に及ぶ、常軌を逸した削り合い。
数万の命を処理しきれず、ついに『時喰らい』の魔素が限界を迎える。
霧が完全に晴れた谷の底に、微かに輝く一つの結晶が転がっていた。
時の理そのものを内包した、Sランクの『才能の核』である。
「……いただきます」
シンは灰の山を踏み越えて歩み寄り、その輝く結晶を掴み取って噛み砕いた。
途端に、かつてないほどの激しい魔素の奔流が、彼の魂の奥底まで駆け巡る。
過去を巻き戻すことはできないが、進めることと止めることの主導権を握る絶対的な力。
『時間操作』の才能が、彼の血肉に深く刻印された。
「……これで、俺の『器』を完成させられる」
十三歳の肉体は、まだ成長の途上にあり、膨大な魔素を完全に制御するには不安定だった。
シンは新たに得た力を行使し、自身の肉体時間を強制的に加速させる。
骨が軋み、筋肉が最適化され、細胞が爆発的な進化を遂げていく。
十四、そして十五――彼の肉体は、少年の輪郭を残しつつも、最も拡張性に満ちた状態へと到達した。
「……15歳。ここが『器』としての完成形か。……時よ、止まれ(タイム・ロック)」
冷徹な宣告と共に、彼の肉体時間は永遠の停止を迎えた。
これ以降、彼がどれほどの悠久の時を生きようとも、老いることも、死を迎えることもない。
世界を喰らい尽くすための、不老不死の絶対的な肉体。
見た目は十五歳の華奢な少年のまま、始祖はここに真の完成を見たのである。
◇
それから、さらに十万年という途方もない時が流れた。
不老不死となったシンは、森の生態系の頂点に君臨し続けていた。
だが、絶対的な強者ゆえの弊害か、彼の心は深い「退屈」という病に侵されていた。
戦う相手も、喰らうべき未知の味も、この閉じた森にはもう残されていないのだ。
そんなある日。
玉座のように積み上げた岩の上で、虚ろに空を見上げていたシンの鼻腔を、微かな風が撫でた。
「……ん?」
それは、この森の腐葉土や獣の臭いとは異なる、異質な香りだった。
鉄の錆びた臭い。焼けた油の臭い。そして――微かに甘い、未知の生物の体臭。
シンは弾かれたように身を起こし、森の切れ間から遥か遠くの平原に目を凝らした。
超常の視力が、数キロ先に動く「小さな影」を捉える。
二本の足で立ち、二本の腕を持つ。
体毛は少なく、滑らかな皮膚を持ち、獣の皮や織物を身に纏って道具を使っている。
「……なんだ、あれは?」
シンは眉をひそめた。
この森で数万年を生きてきた。ありとあらゆる異形の魔物を見てきた。
だが、あの生き物は違う。牙もない、爪もない、あまりにも脆弱な姿。
そして何より――。
「俺と……同じ形をしている」
シンは自分の手を見つめ、そして遠くの影を見比べた。
似ている。あまりにも似すぎている。
この異形だらけの世界で、なぜあの生き物だけが、自分と同じ姿をしているのか。
(俺が彼らの模倣なのか? それとも彼らが俺の粗悪な模造品なのか?)
湧き上がるのは、親近感などではない。
得体の知れない不気味さと、それ以上に強烈な「食欲」だった。
「……確かめる必要があるな」
彼らは何者なのか。なぜ自分と同じ姿をしているのか。
そして――その肉は、どんな味がするのか。
シンは岩から飛び降りた。
十万年もの間、一歩も出ることのなかった「揺り籠」を、自らの意思で踏み越える時が来たのだ。
歩き出してすぐ、シンは足元の茂みに転がる「白い異物」に足を止めた。
風化し、苔むした人間の白骨死体。かつてこの森に迷い込み、魔物に食い殺された敗者の成れの果てだ。
骨の周囲には、錆びついた剣と共に、泥と血にまみれたボロボロの「黒い布」が散らばっていた。
「……丁度いい」
シンは躊躇なく、死体から布を剥ぎ取った。
【繊維操作】の才能を使い、瞬時にその布を自分の体格にフィットする服へと再構成する。
死者の遺品を纏い、生者の世界へ。
それは、これから始まる「国盗り」に相応しい、不吉な船出の衣装だった。
森の出口。
シンは一度だけ振り返り、静まり返った森へ別れを告げた。
そして、眼下に広がる未知の世界――人間たちが築いた文明の灯りを見下ろし、口元を三日月型に歪めた。
「さあ、始めようか。世界を騙す、愉しい『ごっこ遊び』を」
滅びた世界で唯一の始祖が、今、人間という名の未知の群れへと解き放たれる。
「――いただきます」
風に乗って消えたその言葉は、世界に対する宣戦布告だった。
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