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第20話 井の中の蛙、深淵を覗く(後編)

静寂(サイレンス)


それは、喧騒が止んだという生易しいものではなかった。 世界の呼吸そのものが停止したかのような、絶対的な無音。


路地裏に立ち込める腐臭と、舞い上がった土煙が晴れていく中で、二人の冒険者――陰気な魔法使いセレンと、軽薄な斥候クロウは、眼前の光景を脳が処理できずに立ち尽くしていた。


彼らのリーダー格であり、Bランク最強の盾使いと謳われたガレオン。 その巨体が、酒場のレンガ壁を突き破り、瓦礫の山に埋もれてピクリとも動かない。 自慢の分厚い板金鎧(プレート・メイル)はひしゃげ、剛腕はあり得ない方向にねじ曲がり、口からはどす黒い血の塊が吐き出されている。


即死、あるいはそれに近い重体。 だが、それを成したのは、魔法の爆撃でも、巨人の槌でもない。 目の前に立つ白銀の騎士――ボルトスの、「たった一本の指先」だった。


「……な、ぁ……?」


セレンの唇が、酸素を求める魚のようにパクパクと開閉する。 理解できない。 ガレオンの突進は、城門さえも粉砕する運動エネルギーの塊だ。それを、指一本で止め、あまつさえその衝撃を倍返しにしたというのか? 物理法則が狂っている。いや、目の前の騎士が、物理法則そのものを書き換えているのだ。


「硬いだけの盾など、俺の前では空気と同じ。……脆すぎる」


ボルトスは、瓦礫の山を一瞥し、つまらなそうに鼻を鳴らした。 その言葉には、勝利の歓喜も、強敵を倒した高揚感もない。 ただ、道端の小石を蹴り飛ばしただけのような、無機質な無関心だけがあった。


その「格の違い」をまざまざと見せつけられ、クロウの精神の糸が焼き切れた。


「ひ、ひぃッ……! ば、化け物……!」


クロウが引きつった悲鳴を上げる。 斥候としての本能が、サイレンのように警鐘を鳴らし続けていた。 勝てない。戦ってはいけない。 目の前にいるのは、人間ではない。人の皮を被った、理外の災害(カラミティ)だ。


「クソッ! あばよ!」


生存本能に従い、クロウは即座に足元の影へと沈み込んだ。 才能(ゼロ)隠密(ステルス)】と【影潜み(シャドウ・ダイブ)】の併用。 三次元の肉体を二次元の影と同化させ、物理的干渉を無効化して高速移動する、彼の切り札だ。


(逃げ切る! このまま下水道を経由して、街の外へ……!)


視界がモノクロームの世界へと反転する。 音も、匂いも、痛みもない、彼だけの安全地帯。 影の中を泳ぐように疾走しながら、クロウは確信していた。 どれほどの化け物であっても、実体のない影を捕らえることなどできはしないと。


そう、思っていた。


ズブブブ……。


不意に、進行方向の「影」が、粘り気を帯びた泥のように重くなった。 足がもつれる。前に進めない。 まるで、影そのものが意思を持って、彼を拒んでいるかのような不快な粘性。


「……あ?」


クロウが足を止めると、周囲の闇がにゅるりと(うごめ)いた。 本来なら光の遮断によって生じる物理現象に過ぎないはずの影が、無数の「手」のような形状に変化し、クロウの足首に絡みついてくる。


「な、なんだ!? 離せッ! これは俺の影だぞ!」


クロウは必死に影を振り払おうとするが、手は彼を離さないどころか、さらに数を増やして這い上がってくる。 膝、腰、胸。 冷たく、湿った闇の触手が、彼を拘束していく。 それはまるで、底なし沼に引きずり込まれるような感覚。


「――貴方の影?」


耳元で、鈴を転がすような少女の声が囁いた。 背筋が凍りつく。 声は、背後からではない。 自分の内側――「影の中」から響いてきたのだ。


「勘違いしないで。……全ての影は、夜のとばりの一部なのよ」


クロウの目の前の闇が隆起し、一人の少女の形を成した。 愛らしいフリルのついた漆黒のメイド服。無表情だが、人形のように美しい顔立ち。 レギオン幹部・四天(してん)の一角、チェルシー。


彼女は影の中に「入って」いるのではない。 彼女自身が、影そのものと同化し、この空間の支配権を完全に掌握していた。 クロウが「借り物」の影を使っているのに対し、彼女は「影の住人」そのものだったのだ。


「ひ、あ……ァ……」


クロウは悲鳴を上げようとしたが、影の手が口を塞いだ。 チェルシーが、ゆらりと近づいてくる。 その手には、【黒曜石の短剣オブシディアン・ダガー】が握られている。 だが、彼女はそれで斬りつけることはしなかった。


「貴方の潜伏は浅いのよ。影の表面を泳いでいるだけ」


チェルシーがクスクスと笑い、クロウの襟首を掴んだ。 その手は、実体のないはずの影の状態にあるクロウを、物理的に鷲掴みにしていた。 逃げ場のない閉鎖空間で、捕食者に見つかった小動物の絶望。


「本当の『潜伏』というのはね、光の届かない深淵(アビス)を歩くことよ」


彼女の瞳が、暗闇の中で深紅に輝く。 次の瞬間、クロウの足元の影が、底なしのブラックホールのように開いた。


「ご招待してあげる。……私の『影の国』へ」


「!? !?!?」


声にならない絶叫。 圧倒的な引力が、クロウを影のさらに奥底へと引きずり込む。 そこは、位階(ランク)Bの彼が知らない世界。 上下左右の概念がなく、時間さえも歪み、重力が乱数のように襲いかかる絶対的な闇の牢獄。


第一恩恵(ファースト・ギフト)影渡り(シャドウ・ゲート)】。 影という概念そのものを操作し、異空間へと接続する才能(ゼロ)


「嫌だ、嫌だぁぁぁッ! 助けてくれぇぇぇッ!!」


数秒後。 クロウは影の中から路地裏の実空間へと吐き出され、無様に転がり回った。 わずか数秒の「深淵体験」。 だが、その精神的負荷は計り知れない。 無限に続く闇の落下感覚と、正体不明の何かに見つめられる根源的な恐怖。 クロウの精神は摩耗し、白目を剥いて泡を吹き、痙攣けいれんして動かなくなった。



路地裏に残されたのは、陰気な魔導師セレンただ一人。 彼女の目の前では、最強の盾を持つガレオンが瓦礫に埋まり、影の使い手クロウが廃人と化して転がっている。


かつて、この街で「先生」と呼ばれ、畏怖されていた仲間たち。 それが、文字通り「指先一つ」で処理されたのだ。 悪夢を見ているようだった。だが、肌を刺す殺気は、これが紛れもない現実であることを告げている。


「あ……あ、あ……」


セレンの足が震え、後ずさる。 背中が冷たいレンガ壁に当たる。袋小路。 逃げ場はない。 目の前には、聖女の法衣を纏った少女――ミラが、慈愛に満ちた微笑みを浮かべて立っていた。


「さあ、貴女の番ですわ。……悔い改める時間はたっぷりとあります」


ミラが一歩近づく。 その背後で、魔力で織り上げられた光の翼がゆらりと揺らめく。 神々しい。だが、セレンにはそれが死神の鎌に見えた。 その笑顔の下にある、底知れぬ狂気を感じ取っていたからだ。


「く、来るな……! 化け物ッ!」


恐怖が限界を超え、セレンの防衛本能が暴発する。 彼女は震える手で古びた木の杖を構え、残る全ての魔力を注ぎ込んだ。


「私の氷魔法は、鉄だって砕くのよ! Bランクを舐めるなァッ!」


セレンの絶叫と共に、路地裏の気温が絶対零度まで急降下する。 大気中の水分が瞬時に凍結し、数百本の鋭利な氷の槍が生成される。 一撃で家屋を氷漬けにし、粉砕する威力を持つ、彼女の最大奥義。


「串刺しになりなさい! 【氷結地獄(ニブルヘイム)】!!」


ヒュオオオオオッ!! 暴風と共に、氷の槍がミラへと殺到する。 回避不可能な飽和攻撃。路地裏全てを氷塊に変える死の吹雪。 どんな防御壁でも、この質量と温度差には耐えられないはずだ。


だが、ミラは動じない。 防御魔法すら唱えない。 聖女の微笑みを浮かべたまま、一歩も引かずに、ただ静かに胸の前で手を合わせた。 その仕草は、魔法の詠唱というよりは、死にゆく者への手向けのような「祈り」に見えた。


「――主よ。迷える子羊に、本当の『冷たさ』を」


ミラの背後で、光の翼が大きく羽ばたいた。


カッ……!!


刹那(せつな)。 路地裏を埋め尽くしていた氷の嵐が、ピタリと止んだ。 凍りついていた空気が、まるで春の陽だまりに晒されたかのように、一瞬にして温みを取り戻す。


「な……!?」


セレンは我が目を疑った。 彼女が放った最強の攻撃魔法(オフェンス・スペル)。鉄をも砕く絶対零度の暴風が、ミラの放つ黄金の燐光に触れた端から、雪が湯に溶けるように消滅していくのだ。


水蒸気すら上がらない。 物理的な熱で溶かされたのではない。 「そこにある」という事象そのものが、より上位の(ことわり)によって否定され、浄化されている。


「嘘……私の魔法が、通じない……?」


セレンは呆然と杖を取り落とした。 カラン、と乾いた音が、彼女の敗北を決定づける鐘のように響く。


「嘆かわしいですね」


ミラが、衣擦れの音一つさせずに歩み寄る。 その微笑みは聖母のように慈愛に満ちているが、瞳の奥には、異教徒を断罪する冷徹な光が宿っていた。


「貴女の魔法には、愛がありません。ただ相手を傷つけ、凍らせるだけの暴力……。そんな不純な祈りが、私の【聖域(サンクチュアリ)】に届くはずもありませんわ」


ミラがそっと手を伸ばし、セレンの青ざめた頬に触れる。 その指先は温かい。だが、セレンにとっては、死神の鎌を突きつけられたような底知れぬ恐怖だった。


「ひッ……!」


「いいえ、怯えることはありません。……貴女のその歪んだ魂、私が責任を持って『治療』して差し上げます」


ミラの指先から、粘着質な黄金の魔力が溢れ出した。 それは蛇のようにセレンの身体へと這い登り、四肢を拘束する光の鎖へと変化する。


「あ、あぁ……嫌、いやぁッ!」


セレンが悲鳴を上げるが、鎖は容赦なく締め上げられ、彼女を地面へと縫い付けた。 魔力が遮断され、指一本動かせなくなる。 絶対的な無力感。 地味で陰気な研究者として、魔法だけを頼りに生きてきた彼女が、その魔法ごと否定され、赤子のように捻じ伏せられたのだ。



静寂が戻った路地裏。 そこには、かつてこの街の裏社会を支配していた三人の「強者」たちの成れの果てが転がっていた。


自慢の盾ごと腕を粉砕され、白目を剥いて気絶しているガレオン。 影の支配権を奪われ、精神を闇に浸食されて泡を吹いているクロウ。 そして、光の鎖に縛られ、涙を流して震えているセレン。


三者三様の、無様な敗北。


「……終わったか」


アレスが、つまらなそうに鼻を鳴らして近づいてきた。 その手には、まだ熱を帯びた魔剣(レーヴァテイン)が握られているが、結局一度も振るう機会はなかった。


「口ほどにもない。これが、俺たちと対等だと言い張っていた連中の実力か」


アレスは、足元に転がるガレオンの顔を、靴底でグリグリと踏みつけた。


「おい、起きろゴミ屑。……まさかこれで死んだわけじゃあるまいな?」


「う……ぐ……」


ガレオンが呻き声を上げ、薄っすらと目を開ける。 だが、その瞳には焦点が合っていない。圧倒的な暴力の前に、心が折れてしまっている。


「れ、レギオン……お前ら、何なん、だ……?」


ガレオンが掠れた声で問う。 Bランクの自分たちが、手も足も出なかった。 Sランク。いや、それ以上の何かが、この街に巣食っている。その事実に、今更ながら気づいたのだ。


「連れて行くぞ。……主がお待ちだ」


アレスはガレオンの問いには答えず、無慈悲に命じた。 ボルトスが気絶したガレオンとクロウを荷物のように両脇に抱え、ミラがセレンを光の鎖で引いていく。


「ど、どこへ……連れて行くの……?」


セレンが消え入りそうな声で問う。 アレスは立ち止まり、振り返ることなく冷酷に告げた。


「お前たちが望んだ場所だ。……『深淵』を見せてやる」


チェルシーが指を鳴らす。 路地裏の影が生き物のように広がり、巨大な漆黒の渦を形成した。 【影渡りの門(シャドウ・ゲート)】。 地上の理が及ばない、異界への入り口。


「嫌……離して……!」


セレンが抵抗しようとするが、光の鎖はさらにきつく締まり、彼女の自由を奪う。 底なしの闇が、大口を開けて彼らを待っていた。


彼らは理解した。 自分たちは、井戸の中から空を見上げていただけだったのだ。 その空の向こうに、太陽をも喰らう巨大な闇が広がっていることなど知らずに。


行き先は、絶望と救済が待つ地下の王城。 彼らはそこで、さらなる深淵――本当の支配者と対面することになる。

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続きます。

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