第19話 井の中の蛙、深淵を覗く(前編)
城塞都市ネメシス。 その最下層、貧民と無法者が吹き溜まるスラム街の最奥に、昼夜を問わず紫煙と欲望、そして暴力の気配が渦巻く場所がある。
大衆酒場『鉄の胃袋』。
重厚なオーク材の扉を押し開けた瞬間に鼻を突くのは、安酒特有のツンとする刺激臭と、直火で無造作に焙られた獣肉の脂ぎった匂い。 そして、何日も風呂に入っていない男たちの汗と体臭が入り混じった、むせ返るような熱気である。
床板は長年の汚れとこぼれたエールで黒ずみ、歩くたびにベチャリと不快な粘着音を立てる。 天井の梁はタバコの煙で燻され、飴色に変色していた。
怒号、哄笑、ジョッキがぶつかり合う音、そして殴り合いの喧嘩の音。 それらが渾然一体となった不協和音が、この場の日常的なBGMとして奏でられている。
ここは、迷宮探索で神経をすり減らした荒くれ者たちが、その日暮らしの銭を溶かし、刹那的な暴力と享楽に溺れるための聖域であり、墓場でもあった。
その最奥。 他の席とは一線を画す、一段高くなった上席の円卓に、周囲の客から畏怖と媚びへつらいの視線を浴びる三人の影が陣取っていた。
彼らこそが、この下層街における食物連鎖の頂点。 人間の限界とされる位階Bに到達した、数少ない「最強」の冒険者たちである。
「……ケッ。気に食わんな」
重厚なジョッキを呷りながら、不機嫌そうに毒づいたのは、全身を分厚い鋼鉄の板金鎧で固めた男だった。
ガレオン・ドイル。 才能【盾術】を極限まで磨き上げ、『移動要塞』の異名を持つ重装騎士である。
兜を脇に置き、露わになったその顔は、歴戦の古傷が刻まれた厳格な面構えをしている。 茶色の短髪に、岩のように強張った表情。 彼が身じろぎするたびに、鎧の継ぎ目が重々しい金属音を立て、周囲の空気を物理的に圧迫するような威圧感がとぐろを巻く。 この界隈で彼に盾突く者はいない。その盾は城門よりも硬く、そのタックルは暴走した牛車さえも弾き飛ばすと噂されているからだ。
「何が気に食わないの? ガレオン」
ガレオンの対面で、分厚い古書に目を落としながら気だるげに応じたのは、灰色の長髪を垂らした陰気な女だった。
セレン・フォックス。 才能【氷魔法】を操る魔導師。
「氷の魔女」という二つ名とは裏腹に、その外見は地味そのものだ。 色素の薄い灰色の髪は手入れもされずに伸び放題で、身体を覆うのは着古した灰色のローブのみ。 顔立ちは整っているはずだが、常にうつむき加減で、目の下には濃い隈が刻まれている。 華やかさの欠片もないその姿は、酒場の喧騒から切り離された幽霊のようにも見えたが、彼女の持つ杖から漏れ出る冷気は、テーブルの上の酒を一瞬でシャーベットに変えるほどに鋭い。
「最近の噂だよ。……『レギオン・蜘蛛』とかいう新興ギルドのことさ」
テーブルの影、誰の視界にも入らない死角から、軽薄な声が割り込んだ。
クロウ・ラッセル。 才能【隠密】を持つ、『影渡り』の異名を持つ斥候。
バンダナで茶髪をまとめ、動きやすい革鎧に身を包んだ優男だ。 彼は椅子の背もたれにふんぞり返り、手元でナイフを器用に回しながら、ニヤニヤと笑っている。 その存在感は希薄で、同じテーブルにいる二人以外、酒場の誰も彼がそこにいることに気づいていないほどだ。
ガレオンは鼻を鳴らし、テーブルをガントレットに包まれた拳で叩いた。 ドン、と重い音が響き、ジョッキの中身が跳ねてテーブルクロスを濡らす。
「全くだ! あのアレスの野郎、完全に狂っちまった。かつては『紅蓮の獅子』なんて呼ばれて肩で風を切っていたくせに、今じゃ得体の知れない組織のパシリかよ」
アレス・ランバート。 かつては彼らと同じBランクの頂点に立ち、競い合っていたライバル。 豪快で、傲慢で、誰よりも強さを求めていた男。
だが、最近の彼は変わった。冒険者ギルドを抜け、怪しげな組織を立ち上げ、街の裏側でコソコソと動いているという。 その変貌ぶりが、ガレオンには理解できず、同時に腹立たしかった。
「しかもだ。……あいつが崇めてる『主』ってのが、また傑作だ」
ガレオンが口元を歪め、嘲笑を浮かべる。
「ただのガキだぞ? しかも、ギルドの登録証は位階Fの灰色プレートだ。 魔法も使えねぇ、剣も振れねぇ。荷物持ちくらいしか能のねぇ雑魚を、『弟君』だの『主様』だのと崇め奉ってやがる。……脳みそまで筋肉になっちまったんじゃねえか?」
「……興味ないわ」
セレンは本から目を離さずに呟いた。 彼女にとって重要なのは魔法の研究費と静かな環境だけだ。権力争いや組織ごっこには関心がない。 だが、その瞳の奥には、優秀な魔導師であったはずのアレスが「才能のない弱者」に傅いているという事実に対する、生理的な嫌悪感が滲んでいた。
「俺たちのシマを荒らしてるって噂もあるぜ。……最近、裏路地のゴロツキどもが妙に大人しいのは、そのレギオンとかいう連中が『掃除』してるかららしい」
クロウがナイフをテーブルに突き立て、肩をすくめた。
「気に食わねえな。……この街のルールを決めるのは、俺たちだ。 ポッと出の新入りが、デカい顔をするんじゃねえよ」
ガレオンが立ち上がる。 その重厚な鎧がガチャリと音を立て、周囲の空気が圧迫される。 酒場にいた他の客たちが、彼らの不穏な気配を察知し、蜘蛛の子を散らすように席を立ち始める。 彼らにとって、ガレオンたちは災害そのものだ。関われば巻き込まれる。
「違げぇねえ! 今度会ったら、その『弟君』とやらを俺の盾で――」
ガレオンが下卑た笑い声を上げ、ジョッキを煽ろうとした、その刹那だった。
――ドォンッ!!
爆発音にも似た轟音が、酒場の空気を物理的に震わせた。 入り口の重厚なオーク材の扉が、蝶番ごと弾け飛び、砲弾のように店の奥の壁へと突き刺さる。 メリメリッという破壊音と共に、壁に亀裂が走り、店全体が揺れた。 舞い上がる土煙。 砕け散った木片が、客たちの頭上に降り注ぐ。
「な、なんだ!?」 「襲撃かッ!?」 「衛兵を呼べ!」
酔っ払っていた冒険者たちが、慌てて武器を構え、騒然となる。 だが、その騒ぎは一瞬で静まり返った。 煙の向こうから現れた四つの影が放つ、桁外れの威圧感に、その場にいる全員が喉を凍らせたからだ。
ザッ、ザッ、ザッ……。
軍靴の音が響く。 煙を払い、先頭を歩いてきたのは、燃えるような真紅の髪を逆立てた巨漢――アレス・ランバートだった。
だが、彼らの知るアレスとは、決定的に何かが違っていた。
纏っている空気が、生物としての格が、劇的に変貌している。 以前の彼は、傷だらけの鎧を着た荒々しい傭兵だった。 だが今、目の前にいる男は、20代前半の全盛期の若さを取り戻し、肌は内側から発光するように張りつめている。 身に纏うのは、血のように赤い真紅の魔導甲冑。 その背中からは、陽炎のような炎のオーラが立ち昇り、周囲の空間を熱で歪ませていた。
Bランク時代の荒々しさとは違う。制御され、凝縮され、研ぎ澄まされた暴力の結晶。
位階S(災害級)。 人の身で到達できる限界を超え、一種の「理外」へと足を踏み入れた者だけが持つ、絶対強者の風格。
「……おい、三流」
地獄の底から響くような、低く、しかしよく通る声。 アレスが、ガレオンたちを見据える。 その視線だけで、店内の温度が数度下がったような錯覚を覚える。 息が苦しい。大気中の酸素濃度が薄くなったかのような圧迫感。
「今、あの方を……我が主を、どうすると言った?」
アレスの背後には、三人の影が控えていた。
一人は、かつては年増の司教だったはずの女、ミラ。 今の彼女は、17歳の可憐な少女の姿へと若返り、純白の法衣と光の輪を背負っていた。 その笑顔は慈愛に満ちているが、瞳の奥には背筋が凍るようなサディスティックな光が宿っている。
一人は、地味な重装兵だったはずの男、ボルトス。 今の彼は、23歳の精悍な若武者となり、輝くような白銀の全身鎧に身を包んでいた。 彼が軽々と構えている大盾は、以前のものより遥かに巨大で、城壁そのものを切り出したかのような威容を誇っている。
そして最後の一人は、フードを被った盗賊だった女、チェルシー。 彼女もまた15歳の少女へと姿を変え、愛らしいメイド服を着こなしていた。 だが、その足元から伸びる影は不自然に濃く、無数の刃となって揺らめいている。
レギオン・蜘蛛の最高幹部、四天。 彼らは今、シンの手によって恩恵を授かり、覚醒していた。 かつてのBランク時代のアレスたちを知る者が見れば、腰を抜かすほどの変貌ぶりだ。 若返り、力が満ち、人外の領域へと足を踏み入れた四つの災厄。
「ア、アレス……!?」
ガレオンが椅子を蹴って立ち上がる。 その顔には驚愕と、そして自分たちの領域を土足で踏み荒らされたことへの怒りが混じり合っていた。 だが、その怒りの裏側に、得体の知れない恐怖が張り付いていることを、彼はまだ認めたくなかった。
「テメェ、何の真似だ! ここは俺たちのシマだぞ! いきなり扉を吹き飛ばすなんて、正気か!?」
ガレオンの怒号が響く。 酒場のグラスが共鳴して割れるほどの大声。 だが、アレスは動じない。 眉一つ動かさず、ただ汚物を見るような目でガレオンを見下ろした。
「シマだと?」
アレスは鼻を鳴らし、侮蔑の色を隠そうともせずに吐き捨てた。
「勘違いするなよ、井の中の蛙ども。……この街全体が、我らが主の『庭』だ。 貴様らのような薄汚いドブネズミが、デカい顔をしていい場所じゃねえ」
「な……ッ!?」
ガレオンのこめかみに青筋が浮かぶ。 彼らは位階B。この街では「先生」と呼ばれ、ギルドからも一目置かれる存在だ。 それを、真正面から「ネズミ」呼ばわりされたのだ。 プライドの高い彼らが、黙っていられるはずがない。
「言わせておけば……! アレス、テメェが『紅蓮の獅子』だか何だか知らねえが、俺たち三人を同時に相手にして、タダで済むと思うなよ!」
ガレオンが背負っていた愛用の巨大盾『竜の甲羅』を構える。 それは地竜の素材で作られた最高級の盾であり、城門すら弾き返す強度を誇る。 鈍色に輝く盾の表面に、魔力が集中していく。
それに呼応するように、セレンが古びた木の杖を掲げた。 「……五月蝿い。凍りなさい」 彼女の周囲の温度が急激に下がり、テーブルの上の酒が瞬時に凍結する。 白い吐息が漏れ、床がバリバリと音を立てて凍りついていく。
クロウが姿を消し、死角へと回り込む気配がする。
一触即発。 酒場の客たちが悲鳴を上げ、我先にと出口へ殺到する。 位階B同士の戦闘になれば、この店どころか、この区画ごと半壊しかねない。
だが。 対峙するアレスたちは、武器を抜こうともしなかった。 ただ、呆れたようにため息をつき、哀れむような視線を送っているだけだ。 それは、対等な敵を見る目ではない。 駆除すべき害虫を見る目だ。
「……アレス。主をお待たせするのは不敬だ」
前に進み出たのは、全身を白銀の鎧で包んだ巨漢、ボルトスだった。 彼は無骨な大盾を背負ったまま、素手でガレオンの前に立つ。 その体躯はガレオンよりもさらに一回り大きく、まるで鋼鉄の巨塔が歩いているようだ。 兜の奥から覗く瞳は、静かな湖面のように凪いでいる。
「俺がやる。……掃除は一分で終わらせる」
「ハッ、舐めやがって! 表へ出ろ! その減らず口、俺の盾で叩き潰してやる!」
ガレオンが吠え、壁をぶち破って路地裏へと飛び出す。 ボルトスは無言のまま、重戦車のような足取りでその後を追った。 セレンとクロウもまた、殺気を漲らせて外へと向かう。
残されたアレスは、破壊された扉の残骸を踏みつけながら、店主に向かって金貨の袋を放り投げた。
「迷惑料だ。……すぐに静かになる」
◇
店の裏手、薄暗い路地裏。 そこは、光の届かぬゴミ捨て場のような場所だった。 腐臭と湿気が漂う中、ガレオンは盾を構え、全身の筋肉を限界まで膨張させた。
「へっ! 後悔すんなよ! 俺のこの盾は、地竜のブレスすら弾き返した『絶対防御』だ! そしてこの突進は、城門さえも粉砕する!」
ガレオンの身体が、赤黒い魔力光に包まれる。 才能【盾術】の奥義、『剛盾衝』。 全身の魔力と体重、そして加速による運動エネルギーを盾の一点に集中させ、砲弾となって敵を粉砕する必殺の一撃。 彼がこの技を使って、砕けなかったものはない。過去には凶暴なオーガ・ロードさえも、この一撃で肉片へと変えた実績がある。
「死ねぇぇぇッ!!」
ガレオンが地を蹴った。 石畳が爆ぜ、放射状に亀裂が走る。 数トンの質量が音速に近い速度まで加速し、大気を切り裂きながらボルトスへ迫る。 巻き起こる風圧だけで、路地のゴミ箱が吹き飛び、壁のレンガが剥がれ落ちる。 回避は不可能。防御したとしても、その衝撃だけで内臓が破裂し、五体がバラバラになる威力だ。
だが、ボルトスは動かない。 盾を構えることさえしない。 ただ、右手をだらりと下げたまま、迫りくる死の塊を無表情に見据えていた。
「……軽い」
ボルトスが呟く。 そして、衝突の直前。 彼はゆっくりと右手を上げ、人差し指一本を伸ばした。
構えなどない。魔力の光もない。 ただ、そこに指を「置いた」だけ。
「止まれ」
トンッ。
小石が水面に落ちたような、静かな音が響いた。 ボルトスの指先が、ガレオンの盾の表面に触れた。
――瞬間。
「――が、はッ!?」
世界が静止した。 音速で突進していたガレオンの動きが、まるで時が止まったかのように、ピタリと停止したのだ。 慣性の法則を無視した、あり得ない急停止。 盾は無傷だ。傷一つない。ボルトスの指先にも傷はない。
だが、次の瞬間。 遅れてやってきた衝撃の反動が、ガレオンの肉体を襲った。
バキィッ!
盾を構えていたガレオンの左腕が、あり得ない方向にねじ曲がり、骨が皮膚を突き破って飛び出した。
「ご、ぼァ……ッ!?」
衝撃は腕だけでは止まらない。 行き場を失った運動エネルギーが逆流し、肩を砕き、肋骨をへし折り、内臓を雑巾のように絞り上げた。 まるで体内に爆弾を抱え込んだかのように、ガレオンの肉体が内側から破裂した。
シンから与えられた第一恩恵【物理反射】。 触れた対象の物理エネルギーを、ベクトルを反転させて相手に返す、絶対防御の理。
ガレオンは大量の血と肉片を吐き出し、ボールのように後方へ弾き飛ばされた。
ズドォォォォン!!
背後のレンガ壁に激突し、さらにその奥の建物を貫通して、瓦礫の山を作ってようやく止まる。
後に残ったのは、土煙と、ピクリとも動かない肉の塊だけだった。
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