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第20話 井の中の蛙、深淵を覗く(後編)

 夜の路地裏に、ガレオンが壁をぶち抜いて瓦礫の山に沈んだ轟音が、余韻となって響いていた。  Bランク最強の盾使いが、たった一本の指で弾き飛ばされた。  その非現実的な光景に、残されたセレンとクロウは、呼吸をすることさえ忘れていた。


「……ば、化け物……ッ」


 クロウが、引きつった悲鳴を漏らす。  斥候アサシンとしての本能が、全力で警鐘を鳴らしていた。  勝てない。逃げろ。一秒でも早く、この場から消えろ。


「クソッ!」


 クロウは即座に足元の影へと沈み込んだ。  Bランクの固有能力【気配希釈】と【影潜み】の併用。  一度影に入れば、気配を完全に断ち、物理攻撃も透過する無敵の回避行動だ。


(逃げ切る! このまま街の外まで……!)


 影の中を疾走し、路地裏の闇と同化する。  通常の冒険者であれば、一度潜った彼を見つけることは不可能だ。  だが。


「――どこへ行くつもり?」


 耳元で、鈴を転がすような少女の声がした。  心臓が凍りつく。  声は、背後からではない。  自分が潜っている「影の中」から聞こえたのだ。


「な、あ……!?」


 クロウが顔を上げると、そこには漆黒のメイド服を着た少女――チェルシーが、同じ影の中に立っていた。  いや、立っているのではない。  彼女は影そのものと融合し、クロウが潜む「闇」を支配していた。


「貴方の潜伏は浅いのよ。影の表面を泳いでいるだけ」


 チェルシーがクスクスと笑い、クロウの襟首を掴んだ。  その手は、実体のないはずの影の状態にあるクロウを、物理的に鷲掴みにしていた。


「本当の『潜伏』というのはね、光の届かない深淵アビスを歩くことよ」


「ひ、ぎぃッ!?」


 圧倒的な力が、クロウを影の奥底へと引きずり込む。  そこは、Bランクの彼が知らない世界。  上下左右の概念がなく、重力さえも歪んだ、絶対的な闇の牢獄。


「影の中で私から逃げられると思って? ……可愛い蛙さん」


 チェルシーの瞳が、暗闇の中で妖しく輝く。  彼女に与えられた【影移動・極】は、影という概念そのものを操作する権能だ。  クロウは理解した。自分は影を利用しているつもりだったが、彼女は「影そのもの」なのだと。


「ごめんなさぁぁぁいッ!!」


 クロウは影の中から路地裏へと吐き出され、無様に転がり回った。  精神が恐怖で摩耗し、泡を吹いて気絶する。


          ◇


「ク、クロウまで……!」


 残されたのは、氷の魔女セレンただ一人。  彼女は震える手で杖を構え、目の前のミラを睨みつけた。


「近づかないで……! 私の氷魔法は、鉄だって砕くのよ!」


 恐怖を振り払うように、魔力を爆発させる。  周囲の大気が凍りつき、無数の氷の槍が生成される。


「串刺しになりなさい! 【氷結地獄ニブルヘイム】!!」


 セレンの絶叫と共に、氷の嵐がミラを襲った。  路地裏を一瞬で極寒の冬に変える、Bランク魔導師の最大奥義。  まともに食らえば、人間など瞬時に氷像と化す。


 だが、ミラは動じない。  聖女の微笑みを浮かべたまま、そっと手をかざしただけだ。


「……嘆かわしいですね。貴女の魔法には、不純物が多すぎます」


 ミラの手のひらから、柔らかな黄金の光が溢れ出した。


「【聖域・アブソリュート・サンクチュアリ】」


 カッ、と温かな光が路地裏を満たす。  その光に触れた瞬間、殺意の塊だった氷の槍が、雪解け水のように儚く消滅していった。  物理的な破壊ではない。  「害意あるもの」を許さない、絶対的な浄化のことわり


「な……私の魔法が、溶かされた……? 熱魔法でもないのに、どうして……!」


 セレンが愕然と立ち尽くす。  彼女の常識では理解できない。  ミラが行ったのは温度変化ではない。この空間における「セレンの魔法」という事象そのものを、「神聖な場に相応しくない」として却下したのだ。  Aランク(英雄級)に至った聖女の祈りは、物理法則すら書き換える。


「貴女の心と同じく、魔法も歪んでいますわ。……少し、頭を冷やしなさい」


 ミラが指を振るう。  すると、セレンの足元の水たまりが黄金色に輝き、光の鎖となって彼女を縛り上げた。


「きゃぁぁぁっ!?」


 セレンはその場に崩れ落ち、杖を取り落とした。  完敗だった。  魔法の撃ち合いにすらなっていない。大人に叱られた子供のように、手も足も出なかった。


          ◇


 静寂が戻った路地裏。  地面には、白目を剥いたガレオン、泡を吹いたクロウ、そして腰を抜かして震えるセレンが転がっている。  かつてBランク最強を自称し、我が物顔で街を歩いていた実力者たちの末路だ。


 アレスは、つまらなそうに鼻を鳴らした。


「……口ほどにもない。これが、俺たちと対等だと言い張っていた連中の実力か」


 アレスがセレンの前にしゃがみ込み、その顎を掴んで上を向かせた。


「おい、魔女。理解したか? お前たちがいた井戸の底と、俺たちが見ている空の高さを」


「は、はい……あ、あぁ……」


 セレンは涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしながら、何度も頷いた。  プライドなど粉々だ。  殺される。逆らえば確実に殺される。


「連れて行け。マイ・ロードの裁きを受ける」


 アレスが立ち上がり、無慈悲に命じた。  ボルトスが気絶したガレオンとクロウを荷物のように両脇に抱え、ミラがセレンを光の鎖で引いていく。  行き先は、絶望と救済が待つ地下の王城。  彼らはそこで、さらなる深淵――本当の支配者と対面することになる。

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