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第19話 井の中の蛙、深淵を覗く(前編)

 ネメシスの下町にある大衆食堂『満腹亭』。

 脂と酒の匂いが充満する店内は、夜の仕事クエストを終えた冒険者たちの喧騒に包まれていた。

 その一番奥、特等席とも言える大型の丸テーブルを占領しているのは、この街で知らぬ者はいない三人の実力者たちだ。


「……ケッ。聞いたかよ、最近の噂」


 巨大な骨付き肉を齧りながら、不機嫌そうに毒づいたのは、全身を分厚い板金鎧プレートメイルで固めた巨漢だ。

 ガレオン。

 『移動要塞』の異名を持つBランク重装騎士である。


「最近噂の……『レギオン』とかいう連中のこと?」


 グラスを傾けながら答えたのは、妖艶なドレスに身を包んだ美女。

 セレン。

 『氷の魔女』と恐れられるBランク魔導師だ。


「ああ。俺のところにも勧誘が来たぜ。『世界を変える力がある』だとよ。……笑わせやがる」


 テーブルの影から、ぼそりと声がした。

 クロウ。

 気配を消して同席していたBランクの暗殺者だ。


 ガレオンは鼻を鳴らし、テーブルを拳で叩いた。ドン、とジョッキが跳ねる。


「全くだ! アレスの野郎、完全に狂っちまった。あんなFランクの汚ねぇガキを『弟君』だの『主』だのと崇めやがって!」


「ええ。あんな子供、私の魔法一発で消し炭にできるわ。……英雄(Aランク)も堕ちたものね」


 彼らの言葉には、微塵の疑いもなかった。

 彼らは「井の中」しか知らない。だからこそ、自分が「大海」でも通用すると信じて疑わない。

 その根拠のない自信こそが、彼らの強さの源泉であり――同時に、最大の弱点でもあった。


 ガレオンが大声で嘲笑う。


「違げえねえ! 今度会ったら、その『弟君』とやらを俺の盾で――」


 ――カラン、コロン。


 ドアベルの音が、不自然なほどクリアに響いた。

 その瞬間。

 ガレオンの言葉は、喉の奥で凍りついた。


 いや、彼だけではない。

 店内の空気が、物理的な重さを持って変質したのだ。

 喧騒が波が引くように止み、酔っ払いたちが本能的な恐怖に震えて道を空ける。

 酸素が薄くなったわけではない。

 生物としての格の違いが、彼らの肺を圧迫しているのだ。


 入口に立っていたのは、四人の男女。

 先頭に立つ赤髪の男――アレスの瞳は、地獄の業火のように燃え盛っていた。


「……おい、ゴミ共」


 静かな、しかし内臓を震わせるような低い声。


「今、あの方を……我が主を、どうすると言った?」


 ガレオンたち三人は、一瞬何が起きたか理解できず、次いで顔を真っ赤にして激昂した。

 恐怖をプライドで塗りつぶしたのだ。


「あぁ!? テメェ、誰に向かって口を……ッ!?」


 ガレオンが怒鳴りながら立ち上がり、言葉を詰まらせた。

 目の前にいる男が、雲の上の存在であるAランク冒険者、『紅蓮の獅子』のアレスであることに気づいたからだ。

 だが、今の彼はいつもの「英雄アレス」ではなかった。

 全身から立ち昇る覇気が、肌を刺すほどに鋭い。


「ア、アレス……!? なんでアンタみたいな大物が……」


「聞こえなかったか? 『立て』と言ったんだ。連行する」


 アレスの背後から、さらに三人の影が進み出る。

 聖女ミラ、暗殺者チェルシー、そして重騎士ボルトス。

 彼らから放たれる魔力の奔流は、店内の食器をカタカタと震わせるほどだ。


 だが。

 追い詰められた「井の中の蛙」は、この期に及んでも己の小ささを理解できなかった。


「……ふざけんなよ」


 ガレオンがハンマーを掴み、テーブルを蹴り飛ばした。


「Aランクだか何だか知らねえが、ここは俺たちのシマだ! いきなり来て連行だと? 舐めるのも大概にしろッ!!」


「そうだ。私たちを敵に回して、無事で帰れると思わないことね」


 セレンが立ち上がり、周囲に冷気を撒き散らす。

 クロウが音もなく影に潜り、姿を消した。


 一触即発。

 Bランクの猛者たちが殺気を放つ。

 しかし、四天たちは欠伸が出そうなほど退屈そうな顔をしていた。


「……アレス。主をお待たせするのは不敬だ」


 前に進み出たのは、全身を鋼鉄の鎧で包んだ巨漢、ボルトスだった。

 彼は無骨な大盾を背負ったまま、素手でガレオンの前に立つ。


「俺がやる。掃除は一分で終わらせる」


          ◇


 店裏の路地。

 ガレオンは、自慢の巨大盾『竜の甲羅ドラゴン・シェル』を構え、不敵に笑っていた。


「へっ! 後悔すんなよ! 俺のこの盾は、地竜のブレスすら弾き返した『絶対防御』だ! Aランクの攻撃だろうが……」


「御託はいい」


 ボルトスは武器すら構えない。

 ただ、重戦車のような足取りで、無造作に歩み寄ってくる。


「舐めるなぁァァッ!! 『剛盾衝シールド・チャージ』!!」


 ガレオンが吠えた。

 全身の筋肉と魔力を盾に一点集中させ、ボルトスめがけて突進する。

 数トンの質量衝撃。城壁すら粉砕する必殺の一撃だ。


 対するボルトスは、避けない。

 防御すらしない。

 ただ、右手の指を一本、ピンと立てた。

 デコピンの構え。


「……消えろ」


 パチンッ。


 乾いた音が、夜の路地に響いた。

 ボルトスの中指が、ガレオンの盾の表面を軽く弾いた。ただそれだけ。


 ――に見えた。


「――が、はッ!?」


 ガレオンの動きが、空中でピタリと止まった。

 盾は無傷だ。傷一つない。

 だが、盾を構えていたガレオンの左腕が、不自然な方向に捻じ曲がった。

 次いで、肩、肋骨、内臓が、見えざる波動によって内側から破裂したような音を立てる。


「ご、ぼァ……ッ!?」


 ガレオンは大量の血を吐き出し、ボールのように後方へ吹き飛んだ。

 背後のレンガ壁に激突し、さらにその奥の建物を貫通して、ようやく止まる。


「な……ッ!?」


 残されたセレンとクロウは、眼球が飛び出るほど驚愕していた。

 何が起きた?

 デコピン一発で、あの鉄壁のガレオンが? しかも盾は無傷で?


「……衝撃を『通した』だけだ」


 ボルトスはつまらなそうに指を振った。


「硬いだけの盾など、俺の前では空気と同じ。……脆すぎる」


 小難しい理論など語るまでもない。

 ボルトスは盾を破壊したのではない。盾を「存在しないもの」として扱い、その破壊力を直接ガレオンの肉体へと叩き込んだのだ。

 それは技術というより、魔法の常識を物理で蹂躙する神業。


「さあ、次はどっちだ?」


 アレスが楽しげに笑う。

 残る二匹の蛙は、震える足で後ずさりすることしかできなかった。

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