第16話 魔女は甘い毒に消える
城塞都市ネメシスの下層区画。 そこは、華やかな大通りとは無縁の、貧困と犯罪が澱みのように溜まる場所だ。
路地裏には腐った生ゴミと汚水の臭いが立ち込め、行き交う人々の目は死んだ魚のように濁っている。 太陽の光さえも遠慮して避けるような、湿った石畳の迷宮。
そんな掃き溜めの一角に、不釣り合いなほど可愛らしい看板を掲げた店があった。
薬種問屋『聖女の小瓶』。
看板にはデフォルメされた天使の絵が描かれているが、建物自体は黒ずんだ煉瓦造りで、窓には厳重な鉄格子が嵌められている。 近隣の住民たちは、その店の前を通る時だけは息を止め、早足で通り過ぎる。 夜な夜な、地下から何かの獣の呻き声や、甘ったるい薬品の臭いが漏れ出してくることを知っているからだ。
カラン、コロン――。
古びたドアベルが鳴り、一人の客が足を踏み入れた。
扉を開けた瞬間、そこは異質な静寂に包まれていた。 外の喧騒が嘘のように遮断されている。 棚には色とりどりの薬品が入った無数の小瓶が整然と並び、乾燥したハーブの清涼な香りが漂っていた。
だが、鼻の利く者なら気づくだろう。 香草の香りの下に、隠しきれない鉄錆の臭い――こびりついた血の残り香と、薬品で焼けた肉の臭いが、壁紙の裏側にへばりついていることに。
「はーい、いらっしゃいませぇ」
店の奥、薄暗い調合室からカーテンをかき分け、一人の女性が姿を現した。
波打つ紫色の長髪に、陶磁器のように白く、血の気のない肌。 目鼻立ちは整っているが、どこか作り物めいた美しさがある。 エプロンドレスの上からカーディガンを羽織ったその姿は、絵本に出てくる「優しいお薬屋さん」そのものだった。
彼女の名はサフィナ・ダルトン。 この界隈では「聖女のように優しい薬師」として知られている女だ。
だが、その銀縁眼鏡の奥にある瞳は、常に微細に収縮と拡大を繰り返しており、まるで顕微鏡のレンズのように焦点を合わせているようだった。
彼女は、目の前の客を「人間」としてではなく、「分解可能な有機素材」として値踏みしていた。
「あの……お薬を、ください」
シンは、怯えた少年の演技を完璧にこなしながら、カウンターに近づいた。
今の彼は、どこにでもいるFランクの冒険者見習いだ。 ボロボロのチュニックに、底のすり減ったブーツ。 背中を丸め、視線を泳がせ、いかにも自信なさげに身を縮めている。
「お友達が、風邪を引いてしまって……熱が高くて、苦しそうなんです」
シンが小銭を握りしめた手を差し出すと、サフィナはゆっくりと目を細めた。 その視線が、シンの喉元から指先、爪の形、筋肉の付き方までを、粘着質に舐めるように走査する。
(……あら。いい素材ね)
サフィナの脳内で、どす黒い歓喜が弾けた。
身なりからして、スラムの孤児か、食い詰めた駆け出し冒険者だろう。 後ろ盾はない。もし今日、彼がここで行方知れずになったとしても、誰も捜索願など出さない。 何より、成長期の少年特有の瑞々しい内臓と、まだ毒に侵されていない健康な肝臓。
最近、実験材料が不足していたところだ。 特に、新しい魔毒の培養床として、若くて生命力のある個体が欲しかった。
「まあ、それは大変ねぇ。お友達思いの優しい子」
サフィナは口元を三日月型に歪め、甘ったるい猫なで声で言った。 カウンターの下から、ラベルのない透明な小瓶を取り出す。
「よく効くお薬があるわ。でも、調合に少し時間がかかるの。……待っている間、お茶でもどう?」
「え、でも……お金が」
「うふふ、いいのよ。私の奢り。可愛いお客さんへのサービスだもの」
彼女は断る隙を与えず、奥の棚からティーセットを取り出した。 ポットから注がれたのは、鮮やかな赤紫色の液体だ。 湯気と共に、ベリーのような甘い香りが立ち昇るが、その奥には鼻腔を刺すような微かな刺激臭が混じっている。
シンはその香りを嗅いだ瞬間、成分の全てを理解した。
(……九頭蛇の神経毒か。致死量は象三頭分といったところだな)
だが、表情には微塵も出さず、「ありがとうございます」と無邪気に礼を言う。
「さあ、召し上がれ。……冷めないうちにね」
サフィナが期待に満ちた瞳で見守る中、シンはカップを両手で包み込み、口元へと運んだ。
湯気が鼻先をくすぐる。 サフィナの瞳孔が開き、獲物がかかる瞬間を待ちわびて震えているのが分かる。
シンは、心の中で指を鳴らした。
(――『時よ』)
瞬間。
世界が、凍りついた。
魔法を詠唱したわけではない。 ただ、始祖である彼が「そう望んだ」だけで、時間の奔流は物理的に停止した。
カップから立ち昇る湯気は、空中で彫刻のように静止し、舞っていた埃は星屑のように固定される。 サフィナの表情は、歪んだ笑みを浮かべたまま、蝋人形のように固まっていた。 瞬き一つしない。呼吸すら止まっている。
因果の鎖が断ち切られた、死の世界。 そこは、物理法則も、時間の流れも、神の理さえも及ばない、シンという個人のためだけに用意された「箱庭」だった。
「やれやれ。客に毒を盛るとは、随分と安く見られたものだ」
シンは静止した世界の中で、退屈そうに呟いた。 手の中のカップを揺らす。 チャプ、と液体が揺れる音だけが、この空間での唯一のノイズだ。
彼は優雅な手つきで、その猛毒を一口啜った。
「……ふむ」
舌の上で転がし、テイスティングを行う。 始祖であるシンの肉体にとって、この程度の毒物は調味料にもならない。 いかなる猛毒であろうと、彼の体内に入った瞬間に【才能捕食】の理によって分解され、ただの栄養素として吸収されるだけだ。
「ベースは『九頭蛇の涙』か。神経麻痺と呼吸困難を同時に引き起こす即効性の神経毒。……だが、混ぜ物が悪いな」
シンはワインを品評するソムリエのように、冷静に分析を続ける。
「甘味をつけるために『夜光茸』の絞り汁を加えているようだが、これが失敗だ。 九頭蛇の毒性を中和してしまっている。これでは致死に至るまで数秒のラグが生じる。 苦しませずに殺して素材を確保したいなら、純度を上げるべきだったな」
凡庸だ。 Bランクの薬師にしては、創意工夫が足りない。教科書通りの調合に、安易なアレンジを加えただけの駄作。
「……味もイマイチだ」
シンは失望のため息をつきながらも、残りの毒入り紅茶を全て飲み干した。 空になったカップをソーサーに戻す。
そして、カップから手を離した瞬間――。
世界が、再び動き出した。
「……っ」
サフィナは、瞬きをした。 彼女の主観では、少年がカップに口をつけた次の瞬間には、もう飲み干してカップを置いていたように見えた。
早すぎる。 熱い紅茶を一息で? いや、それ以前に――。
(……なぜ、倒れない?)
サフィナの思考に、激しいノイズが走る。
あれは、巨象でさえ一滴で絶命する特級の猛毒だ。 口に含んだ瞬間に喉が焼け爛れ、泡を吹いて痙攣し、三秒後には心臓が止まるはずだった。
だが、目の前の少年は、平然としている。 苦しむ様子もない。顔色一つ変わらない。 それどころか、彼は満足げに「ほう」と息をつき、ニコリと笑ったのだ。
「ごちそうさまでした。……少し、酸味が強かったですね。『夜光茸』の処理が甘いんじゃないですか?」
「――は?」
サフィナの喉から、間の抜けた声が漏れた。
今、こいつは何と言った? 毒の成分を言い当てた? いや、酸味がどうとか……処理が甘いとか……?
理解できない。 あり得ない。
脳が現実を拒絶する。 彼女の積み上げてきた薬学の知識、毒殺の経験、Bランクとしての自負。 その全てが、目の前の「異常」によって軋みを上げていた。
これは、幻覚か? それとも、私が調合を間違えた? いいえ、そんなはずはない。私の配合は完璧だった。分量も、温度も、全て計算通りだったはずだ。
ならば――なぜ、この少年は生きている?
「……あ、あなた、何を……」
「お薬、まだですか?」
シンは首を傾げた。 その瞳は、底なしに暗く、深い。
Fランクの少年の皮を被った「何か」が、そこにいた。
サフィナの背筋を、冷たい蛆虫が這い上がるような悪寒が駆け抜けた。
恐怖。 だが、それ以上に――猛烈な「渇き」が彼女を支配した。
(知りたい)
その体の中はどうなっているの? どんな胃袋なら、あの毒を消化できるの? どんな血が流れているの? 抗体? 特異体質? それとも、もっと別の何か?
解剖したい。中を見たい。その心臓を取り出して、鼓動のリズムを確かめたい。 恐怖は一瞬で、粘着質な探求心へと変質した。マッドサイエンティスト特有の、狂気への跳躍だ。
「……あ、ああ、ごめんなさいね。すぐ、持ってくるわ」
サフィナは震える手で、カウンターの下にあった適当な風邪薬の瓶を掴み、置いた。 表向きの笑顔はそのままに、しかし眼鏡の奥の瞳は、剥き出しの狂気でギラギラと輝いている。
シンは代金の銅貨を数枚置くと、「ありがとう、お姉さん」と礼を言って背を向けた。
カラン、コロン――。 扉が閉まり、少年が出ていく。
「待って……」
サフィナはカウンターを乗り越えるようにして飛び出した。
逃がさない。 あんな貴重なサンプル、絶対に逃がしてなるものか。 この世のどんな希少な薬草よりも、どんな魔物の素材よりも価値がある。 彼の中には、私の知らない「医学の深淵」がある。
彼女は白衣を翻し、店を飛び出した。
夕暮れの路地裏。 少年の背中は、人混みの中へと消えようとしていた。 まるで彼女を誘うように、ゆっくりと。
「そこね……!」
サフィナは人の波をかき分け、追跡を開始した。 路地を抜け、スラムのさらに奥へ。 人気のない、廃墟が立ち並ぶ再開発区画。
彼女は夢遊病者のようにその後を追った。 彼女の目にはもう、周囲の景色など映っていない。 ただ前を行く少年の背中だけが、暗闇の中で妖しく輝いて見えた。
やがて、少年は行き止まりの広場へとたどり着いた。
そこは、巨大な建設現場のようだった。 かつての大聖堂の跡地を利用して作られた、威圧的な石造りの建造物。 まだ看板も掲げられていない、レギオンハウスの未完成の正面玄関だ。
少年は、巨大な鉄扉の前で立ち止まった。 そして、振り返りもせずに、重厚な扉の隙間へと滑り込む。
「待ちなさい!!」
サフィナは叫び、全速力で駆けた。 息が切れる。肺が焼けるように熱い。それでも足は止まらない。
あの中に入れば、答えがある。 あの少年の秘密が。私の知らない、新しい毒の理が。
彼女が扉の前にたどり着いたのと、扉が完全に閉ざされたのは、ほぼ同時だった。
ズゥゥゥゥン……!
地響きのような音と共に、鉄の扉が密閉される。
サフィナは扉に縋り付き、叩いた。 だが、ビクともしない。 取っ手すらないその扉は、まるで最初から壁であったかのように冷たく拒絶していた。
風が止んだ。 周囲の音が、不自然に消えた。 スラムの喧騒も、風の音も、虫の声さえも。
完全な静寂の中で、サフィナはゆっくりと、その建造物を見上げた。
未完成の石壁は、夕闇に溶け込み、まるで巨大な墓標のようにそびえ立っている。 その威容を前にして、サフィナの狂熱が、急速に冷えていくのを感じた。
いいえ、冷えたのではない。 凍りついたのだ。
ここは、入ってはいけない場所だ。 本能が、魂の奥底で警鐘を鳴らしている。
あの少年は、獲物ではなかった。 あれは――もっと別の、触れてはならない「深淵」そのもの。
自分が追っていたのは、ウサギだと思っていた。 だが、気がつけば自分自身が、巨大な蜘蛛の巣の中心に立っていたのだ。
逃げなければ。 今すぐ、ここから。
だが、足が動かない。 地面に影が伸びる。自分の影ではない。建物の影が、生き物のように蠢き、サフィナの足元を侵食していた。
「……ここね」
サフィナは、夢見心地で呟いた。 何が「ここ」なのか、自分でもわからなかった。 ただ、ここが自分の終着点なのだと、唐突に理解してしまった。
背後で、気配がした。 振り返る必要はなかった。 視界の端、影の中から、無数の「何か」が、音もなく滲み出してくるのが見えたから。
悲鳴は、上がらなかった。 争う音も、逃げ惑う足音も響かなかった。
ただ、一陣の風が吹き抜けた時、そこにはもう、誰もいなかった。 白衣の切れ端一つ、髪の毛一本すら残されていない。 まるで、サフィナという人間が、最初からこの世界に存在しなかったかのように。
建設中のレギオンハウスは、ただ沈黙したまま、薄暗い街を見下ろしていた。 その深淵の奥底で、蜘蛛が新たな糸を紡ぎ始めたことを、知る者は誰もいない。
本日も読んでいただき、ありがとうございます!
もし「面白かった!」「続きが読みたい!」と思っていただけたら、
ブックマーク登録と、広告の下にある【☆☆☆☆☆】の評価ボタンを、星5つ(★★★★★)ポチッと押していただけると執筆の励みになります!
続きます。




