第16話 魔女は甘い毒に消える
ネモという優秀な「眼」を配下に加えたシンは、再びFランクの少年の姿に戻り、商店街の一角にある古びた薬屋を訪れていた。
看板には『聖女の小瓶』とあるが、その可愛らしい名前とは裏腹に、店内は薄暗く、澱んだ空気が満ちている。 乾燥したハーブの香りに混じって、鼻を刺すような薬品臭と、鉄錆のような血の匂いが微かに漂っている。 普通の客なら、足を踏み入れた瞬間に本能的な拒絶反応を示すだろう。
「いらっしゃいませ~」
奥の調合室から出てきたのは、白衣を纏った美女、サフィナだ。 紫色の長い髪に、病的なまでに白い肌。その瞳は、焦点が合っているようで合っていない、狂気を孕んだ濁りを帯びている。 彼女はシンを見ると、獲物を見つけた肉食獣のように目を細めた。 Fランクの少年。身寄りもなさそう。魔力も弱い。 ……格好の実験体。
「あら、顔色が悪いわねボク。疲れが溜まっているんじゃない?」
サフィナは妖艶な笑みを浮かべ、湯気の立つティーカップを差し出した。 琥珀色の液体からは、ミントの爽やかな香りがする。だが、その香りの奥底には、生物の神経を焼き切る死の甘い匂いが隠されていた。
「サービスよ。私の特製ハーブティーなの。飲むだけで、すごーく楽になれるわ♡」
シンはカップを受け取り、香りを確認する。
(……ほう。トリカブト由来のアコニチンに、バジリスクの麻痺毒を混ぜたか)
即効性の全身麻痺と、遅効性の心停止。 呼吸ができず、意識があるまま溺れるように死ぬ、極めて悪趣味な調合だ。 まともな人間なら、一口啜るだけであの世行きだろう。
だが、シンはニッコリと、年相応の少年のように笑った。
「ありがとうございます。頂きます」
カップに口をつける。 液体が唇に触れた、その瞬間。
『理、断絶』
世界から、音と色が消え失せた。 立ち昇る湯気も、サフィナの期待に満ちた瞬きも、空中に舞う塵さえも、凍りついたように静止する。 完全なる灰色の静寂。 シンはその中で優雅にカップを傾け、致死量の猛毒を一気に飲み干した。
「……ふむ。舌に残る雑味はつなぎの失敗だな。配合比率は6対4か……少し雑だが、遅効性を持たせるアプローチ自体は悪くない。古代の毒に比べればジュースだが、研究次第では化けるか」
体内で毒が分解されていく。 数万年を生き、あらゆる毒物を喰らってきた『始祖』の肉体にとって、現代の毒など、少し刺激の強いスパイスでしかない。 シンは空になったカップをソーサーに戻し、ナプキンで丁寧に口元を拭った。 そして、指を鳴らす。
『理、再接続』
パチン、と乾いた音が響き、世界が色を取り戻す。 サフィナが「さあ飲め、苦しめ、そして私の玩具になれ」と瞳を輝かせた、コンマ数秒後。
「え……?」
サフィナの表情が、不自然に凍りついた。 目の前のカップは、一瞬にして「空」になっていた。 喉が動く音も、カップを傾ける動作も見ていない。 瞬きをする暇さえなかったはずだ。 なのに、中身だけが忽然と消滅している。
「の、飲んだの……?」
震える声で問うサフィナに対し、シンはキョトンとして首を傾げた。
「あれ? どうしたんですか、お姉さん」
シンは何事もなかったかのように、不思議そうな顔をする。 毒の影響など微塵もない。顔色一つ変わっていない。 呼吸も乱れず、苦悶の表情もない。泡を吹いて倒れるはずの少年が、平然と座っている。
サフィナの脳内で、現実と認識が激しく軋みを上げて悲鳴を上げた。 飲んだのか? いつ? なぜ生きている? 象でも即死する量を入れたはずなのに。 いや、そもそも――私は本当に毒を入れたのか? 幻覚を見ているのか?
「顔色が悪いですよ? ……まさか、毒でも盛ったんですか?」
ドキリ、とサフィナの心臓が跳ねた。 無邪気な少年の瞳。だがその奥には、底知れない深淵が覗いている。 全てを見透かし、こちらの混乱を愉しむような、捕食者の視線。
「ごちそうさまでした。少しスパイシーで、面白い味でしたよ」
シンは席を立ち、代金代わりの銅貨をテーブルに置いた。 カラン、コロン。 ドアベルの音が軽快に鳴り、シンが出ていく。
「まっ――」
待って、という言葉が出ない。 得体の知れない恐怖が足をすくませる。 だがそれ以上に、マッドドクターとしての本能が、全身の血を沸騰させていた。
「なによ、あれ……」
毒が効かない。時間さえ無視したような挙動。 未知の生物。神の肉体。 あれは人間じゃない。今まで解剖してきたどんな生物とも違う。 ガタガタと震えながら、サフィナは唇を噛み切り、歪んだ笑みを浮かべた。
「調べなきゃ……あの身体、解剖して中身を見なきゃ、気が済まないわ……!」
恐怖と快楽の入り混じった衝動に突き動かされ、彼女は白衣を翻して店を飛び出した。 少年の背中を追う。 路地裏を抜け、廃棄区画を越え、辿り着いたのは建設中の巨大な石造りの建物――『レギオンハウス』の前だった。
夕闇に沈むその建物は、まるで巨大な墓標のようにそびえ立っている。 少年は、その入口の闇の中へと、吸い込まれるように消えていった。
「待って……逃がさないわよ……」
サフィナは、熱に浮かされたように呟きながら、その巨大な建物を仰ぎ見た。 建物の影が、まるで大口を開けた怪物のように彼女を飲み込もうとしている。 普通なら引き返す場面だ。生物としての防衛本能が「そこは死地だ」と叫んでいる。 だが、彼女の瞳にあるのは、深淵への抗いがたい好奇心だけだった。
一歩。また一歩。 彼女は吸い込まれるように、闇の中へと足を踏み入れた。
その日を境に。 ネメシスの裏通りから、一人の天才薬師の消息が絶たれた。 一体彼女の身に何が起きたのか、それを知る者は誰もいない――。
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