第15話 顔のない密偵、深淵に堕ちる
城塞都市ネメシス。 その中枢である王城の、陽の光さえ届かぬ地下深くに、その部屋はあった。 分厚い石壁と幾重もの魔法結界に守られた、宰相執務室。 そこには、呼吸音さえ憚られるような、重苦しい沈黙と焦燥が澱んでいた。
豪奢なマホガニーのデスクに座る宰相は、眉間に深い皺を刻みながら、誰もいない虚空に向かって独り言のように呟いた。
「……解せぬ。あまりにも、異常だ」
宰相の手元には、街に放った無数の「耳」と「目」から上がってきた羊皮紙の報告書が、山のように積まれている。 その全てが、一つの不可解な事実を指し示していた。
泣く子も黙るAランク冒険者パーティー『紅蓮の獅子』。 そのリーダーであるアレスたちが、なぜかFランクの「シン」という無力な少年に、恭しく頭を下げ、あまつさえ「弟君」と呼んで崇拝しているという目撃情報だ。
脅されているのか? 弱みを握られているのか? あるいは――その少年こそが、何らかの鍵を握る他国の黒幕なのか?
長年、宮廷のドロドロとした陰謀の中で生き抜き、政敵を葬り去ってきた宰相の「勘」が、かつてないほどの警鐘を鳴らしている。 この少年は、危険だ。 放っておけば、ネメシスの権力構造そのものを根底から覆す「毒」になりかねない。
「探れ」
宰相が短く、氷のように冷たい声で命じた。 すると、部屋の空気が陽炎のようにわずかに揺らいだ。 姿は見えない。気配すらない。魔力反応さえも皆無。 だが、そこには確実に『誰か』がいた。
『……御意』
性別すら判別できない、無機質な声だけが執務室に響く。 それは風の音のようであり、擦れる紙の音のようでもあった。
『影も残さず、始末しますか?』
「いや、殺すな。死体は何も語らん。まずは情報だ。奴の出自、能力、アレスとの関係……背後関係を徹底的に洗え。手荒な真似も許可する」
『承知いたしました』
ふ、とデスクの上のロウソクの炎が一瞬だけ揺れ、その気配は完全に消滅した。 ドアが開いた形跡はない。窓も閉ざされたままだ。 まるで最初からそこには誰もいなかったかのように、気配だけが溶けて消えた。
宰相直属の隠密部隊、その中でも最高傑作とされる「顔のない密偵」。 ネモ・ローズ。 変幻自在の『千面相』を持ち、影から影へと渡り歩く希代の間者。 彼(彼女)に狙われて、秘密を守り通せた者は、この国の歴史において一人も存在しない。
◇
正午過ぎ。 ネメシスの大通りから一本入った裏路地を、シンは鼻歌交じりに歩いていた。 手には市場で買った真っ赤なリンゴ。 シャツの袖をまくり、時折リンゴを齧るその姿は、どこにでもいる無害な少年にしか見えない。Fランクという偽装された階級が、周囲の油断を加速させる。
(……なるほど。優秀な『眼』だ)
シンはシャクシャクとリンゴを咀嚼しながら、内心で冷ややかな笑みを浮かべていた。 固有能力『蜘蛛支配』。 街全体に張り巡らせた知覚の網が、極めて微細な、しかし決定的な「違和感」を捉えている。
視線はない。足音もない。 心臓の鼓動すら環境音に同調させ、魔力の波長は完全に遮断されている。 通常なら、Sランクの冒険者であっても気づくことは不可能だろう。 だが、シンの『網』は、空気の流れや、光の屈折率のわずかな歪みさえも見逃さない。
(宰相の犬か。……殺すのは惜しい。私の『コレクション』に加えよう)
シンは、怯えた様子など微塵も見せず、あえて人通りの少ない、開発途中の区画へと足を向けた。 向かう先は、表向きは改装中の石造りのビル――後に組織の拠点となる『レギオンハウス』だ。
ネモは、完璧な隠密状態のまま、対象を追尾していた。 Fランクの少年。魔力も微弱。歩き方にも隙だらけだ。 だが、ネモの研ぎ澄まされた直感が、妙な胸騒ぎを覚えていた。
(……なぜ、こんな人気のない場所へ? まるで、私を案内しているような……)
少年が、建設中の廃材が転がる薄暗い一階フロアへと入っていく。 ネモもまた、音もなくその背中を追う。 その瞬間だった。
ズズッ……。
足元の感覚が狂った。 石造りの床だったはずが、泥沼のように粘りつき、空間そのものが歪んでいくような錯覚。 いや、錯覚ではない。 気づけば、周囲の風景は廃ビルの内装ではなく、見たこともない黒曜石の回廊へと変貌していた。
(なッ……!? 転移魔法!? いや、空間接続か……!?)
ネモが息を呑む。 ここはどこだ? 地下か? 異界か? 肌を刺すような冷たい空気。濃密すぎる魔素。そして、生物の気配が絶えた絶対的な静寂。 罠だ。誘い込まれたのだ。 ネモは即座に撤退を決断し、バックステップを踏んだ。
だが。
「――私の庭で、随分と楽しそうね」
ゾクリ、と。 ネモの全身の毛穴が泡立つような悪寒が走り、首筋に冷たい金属の感触が押し当てられた。 背後ではない。 足元――自分の「影」の中から、一人の少女が上半身だけを現していたのだ。
「なっ……!?」
ネモの隠密が強制的に解除される。 現れたのは、地味なメイド服に身を包んだ、中性的な容姿の人物――チェルシーだった。 その手には漆黒の短剣が握られ、切っ先はネモの頸動脈に食い込んでいる。
「『影渡り』の初歩よ。貴方の潜伏は二次元的すぎるわ。影の中でカサカサ動く音が五月蝿くて、主も不快だったでしょう?」
Aランク(英雄級)の殺気。 だが、ネモが本当に戦慄したのは、喉元の刃ではなかった。 回廊の奥、闇の中に浮かぶ玉座だ。
そこには、先ほどまで追っていたFランクの少年はいなかった。 代わりに座っていたのは、漆黒の外套を纏い、真紅の瞳で世界を睥睨する、若き魔王のような青年。 18歳の姿となった、真のシン。
「……ようこそ。ここがお前の墓場か、新しい職場だ」
シンは頬杖をついたまま、退屈そうにネモを見下ろした。 その瞳には、人間を人間とも思わない、絶対的な捕食者の冷徹な光が宿っていた。
生物としての格が違う。 ネモの生存本能が、けたたましい警報を鳴らした。 抵抗すれば、死ぬ。逃げようとしても、死ぬ。魂ごと消される。
「貴方は……あの少年と、同一人物……?」
ネモの震える問いに、シンはニヤリと笑った。
「その眼で確かめろ。……俺の配下(目)になるなら、真実を見る権利をくれてやる」
シンが指を鳴らす。 圧倒的な魔力の奔流が、ネモの体を縛り上げる。 それは選択肢ではない。絶対者による宣告だった。 理からはみ出したような怪物を前に、答えは一つしかなかった。
「……御意。我が主」
ネモはその場に膝をつき、深く平伏した。 恐怖よりも深い、魂の底からの服従だった。 こうして、宰相の懐刀であった「顔のない密偵」は、より深き闇の住人へと堕ちたのである。
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それでは皆様、良いお年をお迎えください。
次回更新は、元旦の夕方を予定しています!




