第14話 暴力の街、掃除の時間
ネメシスの最下層、スラム街へと続く薄暗い路地裏。 腐臭と暴力の気配が漂うその場所を、シンとアレスが歩いていた。
「……弟君。足元にお気をつけください」
アレスが、わざとらしく周囲に聞こえるような声量で言った。 彼は今、シンから命じられた「設定」を忠実に遂行している。すなわち、『自分はレギオンマスターであり、連れている少年はその愛する弟君である』という茶番だ。 敵地であるスラム街では、どこで誰が聞いているか分からない。ゆえの徹底ぶりだった。
「……ん」
シンは緑のシャツのフードを目深に被り、短く答えただけだ。 だが、そのフードの下で、シンの目は冷徹に周囲を観察していた。 不衛生な汚水。蔓延する病魔。そして、そこから這い上がることもせず、ただ搾取を繰り返す愚かな人間たち。
(……人は何度文明を築き直しても、必ず『持たざる者』を隔離する掃き溜めを作りたがる。学習しない種族だ)
シンは、泥水すら避けることなく直進する。 数万年の時を観測してきた彼にとって、この程度の悪意は、路傍の石を眺めるようなものに過ぎない。
「……おいおい。随分と上等な服を着た兄ちゃんと、貧相なガキが歩いてるじゃねえか」
崩れかけたレンガ造りの建物の陰から、男たちが数人現れる。 このエリアを支配するマフィア『黒牛団』の下っ端たちだ。
「ここが誰のシマか分かって歩いてんのか? あぁ? 無視してんじゃねえぞガキ!」
男の一人が、シンの胸倉を掴もうと手を伸ばした。 だが、シンは立ち止まりもしない。ただ、気だるげな瞳で男を一瞥しただけ。
「……邪魔だ。穢れる」
その一言は、あまりに自然で、あまりに傲慢だった。 男が「あ?」と硬直した、その瞬間。
ドォン!!
アレスが、男の顔面を鷲掴みにし、地面に叩きつけていた。 頭蓋が砕けるような音が響き、石畳が陥没する。
「……汚らわしい。その薄汚い手で、あの方に指一本でも触れてみろ」
アレスから放たれる殺気は、チンピラ相手に向けるには過剰だった。 だが、シンはその惨状を見ようともせず、埃を払う仕草をしてあくびを噛み殺している。 その異常なまでの落ち着きに、残りの男たちが戦慄した。
「な、なんだコイツら……!? 人が潰されたってのに、眉一つ動かさねえ……!」 「お、親父を呼べ! ランドルフの親父を!!」
逃げ出した先、廃工場のシャッターが内側から爆音と共に突き破られた。
ズガァァァァン!!
巨漢が、巨大な鉄塊のような蛮刀を担いで現れた。『黒牛団』のボス、ランドルフだ。
「あぁ? 俺の庭で騒いでる馬鹿はどいつだ?」
全身傷だらけの筋肉の鎧。Bランク上位、このスラム街における暴力の頂点。
「……なんだ、テメェは。『紅蓮の獅子』のアレスか? ……はん。なんだその貧相なガキは。俺を見ても震えもしねえとは」
ランドルフの目が鋭くなる。 この少年の纏う空気。暗く、淀んでいるが、決して弱者のそれではない。 自分のような暴力を前にしても、「それがどうした」と言わんばかりの退屈そうな目。
(……妙だ。ただのガキじゃねえ。この肝の据わり方……何者だ?)
シンは、ランドルフの視線を真正面から受け止め、ボソリと言った。
「……アレス。五月蝿い」
「御意。直ちに『掃除』いたします」
アレスが一歩前に出る。 ランドルフのこめかみに青筋が浮かんだ。
「掃除だと? ……ナメてんじゃねえぞ、お行儀のいい英雄様がよォ!」
ブォン!!
ランドルフが蛮刀を振り下ろした。派生技【剛力断ち】。城門すら両断する破壊の一撃。 だが、シンは一歩も引かなかった。アレスが止めることを確信しているからだ。
パシッ。
ランドルフの全力の一撃は、アレスの左手――素手によって受け止められていた。 Aランクへと強化されたアレスの肉体強度は、生物の限界を超えている。
「……軽いな。羽虫が止まったのかと思ったぞ」
「ば、馬鹿な……!?」
「終わりか? ならば消えろ。【衝撃】」
ドォォォォォン!!
力のベクトルの操作。 ランドルフの巨体が「くの字」に折れ曲がり、砲弾となって後方へ吹き飛ぶ。 廃工場の壁を三枚ほどぶち抜き、瓦礫の山に埋もれて沈黙した。
「……ふぅ。片付きました、弟君」
アレスが服の埃を払い、振り返る。 シンは、ポケットから手を出さずに頷いた。
「……ん。帰ろう」
まるで散歩のついでに小石を避けたかのような気楽さ。 アレスは、その背中を見送りながら、感嘆の息を漏らした。 (さすがはシン様……! 弟君の演技をしていても、隠しきれない王者の風格!)
シンは倒れているランドルフを一瞥し、アレスに顎で合図した。
「……あのゴミ。回収してこい」
◇
――意識が、強制的に引き戻される。
「……あ、あ?」
ランドルフは痛む腹を押さえて起き上がった。 視界に飛び込んできたのは、腐ったドブネズミの死骸が転がるスラムの天井ではなかった。 見たこともないほど巨大で、精緻な装飾が施された黒曜石の天井。そこから吊り下げられた魔石の灯りが、冷たい、しかし神々しい光を放っている。 傷は、完全に癒えていた。
そして、前方。 巨大な蜘蛛の意匠が施された、禍々しくも美しい玉座。 そこに、一人の男が深く腰掛けていた。
漆黒のローブ。真紅の瞳。 18歳ほどの年齢に見えるその青年は、ただそこに座っているだけで、周囲の空間そのものを支配していた。
ランドルフの本能が、警鐘を鳴らした。 これは、人間ではない。 数万年という、気が遠くなるような孤独の中で、ただ一人「世界の理」を観測し続けてきた者だけが纏う、絶対的な静寂。 その眼差しは、ランドルフを「敵」とも見ていない。実験動物を眺めるような、透徹した無関心。
「なんだ……! お前は……っ! ここはどこだ、俺になんの用だ!!」
ランドルフは恐怖を打ち消すように吠えた。 自らの誇り、Bランク上位の魔力を全開に練り上げ、威圧を押し返そうとする。 だが、玉座の男――シン(真の姿)は、退屈そうに頬杖をつき、視線すら合わせなかった。
「喚くな。俺はこの場所、アンダー・ネストの主だ。喜べ、貴様を飼ってやる」
ランドルフの脳に怒りが沸騰する。
「誰が……得体の知れないお前なんかに……従うかよぉぉっ!!」
ランドルフは叫び、一歩踏み出そうとした。
一呼吸。 まばたきを、一つ。
――視界から、男が消えた。
「……っ!?」
次の瞬間、ランドルフの感覚が異常をきたした。 世界が断絶したような、強烈な吐き気と目眩。 物理的な移動ではない。認識の狭間から、対象が抜け落ちた感覚。
「なかなか鍛えているな。……粗削りだが、強度は悪くない」
耳元で、声がした。 すぐ真後ろ。吐息が触れるほどの距離。 ランドルフは、叫ぼうとして――口が動かないことに気づいた。
いや、口だけではない。肺が空気を吸い込むことを拒絶している。 酸素。二酸化炭素。そんな物質的な理が、自分の周囲だけ消失したかのような感覚。 空間が固定されている。 目の前が真っ赤に染まる。 酸欠による幻覚ではない。シンの放つ、真紅の魔力の奔流に飲み込まれているのだ。
原始の時代、人類がまだ「被食者」であった頃の恐怖が、魂の底から呼び覚まされる。 抗えない。 瞬きをするよりも容易く、自分はこの男に「消される」。
再びまばたきをした時には、男は何事もなかったかのように、最初からそこにいたかのような自然さで玉座に座っていた。
「楽にしろ」
一瞬で重圧が消えた。
「ガハッ! ハー、ハー……ハーッ!!」
ランドルフは床に膝をつき、肺が破れんばかりに酸素を貪った。 理解した。 この男は、強さの次元が違う。物理法則すらねじ曲げる、神域の存在。 ランドルフの屈強な体は、自らの意思とは無関係に激しく震えた。
そして、流れるように。 誰に命じられたわけでもなく、彼は床に額を擦り付けていた。
「……御身の為、我が生命、捧げます……っ!」
搾り出すような誓い。 圧倒的な「王」に出会ってしまったことへの、歪んだ歓喜。
「励めよ」
シンの短い言葉。 それだけで、ランドルフは全身の血が逆流するような高揚感を覚えた。
◇
数分後。 忠誠の刻印を施されたランドルフは、アレスに連れられ、宮殿の広間へと向かっていた。
「……いいか、ランドルフ。これより、マスターの最愛の『弟君』が現れる。本来、お前のような不浄な者がお目にかかれる御方ではないのだ。粗相があれば、この場で斬る」
そこへ、広間の重厚な扉が開いた。 現れたのは、一人の少年だった。
年齢は15歳ほど。緑のシャツを纏い、フードを目深に被っている。 どこか陰気で、視線は常に斜め下を向いている。お世辞にも「強者」には見えない、Fランクの冒険者そのものの姿だ。
(……あ?)
ランドルフは一瞬、拍子抜けした。 だが、少年が近づいてくるにつれ、その印象は劇的に変わった。
少年――15歳の姿に戻ったシンは、ランドルフという巨大な暴力を前にしても、眉一つ動かさない。 数万年を孤独に生きた彼にとって、他者の存在は石ころに近い。その「徹底した無視」と「動じない心」が、ランドルフの目には異様に映った。
「……あ、兄ちゃんの知り合い?」
シンが、ボソリと、消え入りそうな声で呟く。 だが、その声には不思議な「静寂」があった。
アレスが、即座に膝をついて答える。
「はっ! 先ほどマスターが拾われたゴミにございます、弟君!」
(弟君……! この少年が……!)
ランドルフの脳内で、凄まじい勢いで「勘違い」の歯車が噛み合い始めた。
一見、弱々しく、儚げに見える少年。 しかし、スラムの修羅場を支配していた自分を前にしても、恐怖の色一つ見せない。
(……ああ、そうか。分かったぞ)
ランドルフは戦慄した。 あの圧倒的な覇気を持つ「マスター(兄)」の側で、ずっと育ってきたのだ。 並の人間なら、その魔力に当てられるだけで発狂するか死ぬ。 それを日常として受け入れ、これほどまでに「静かな闇」を纏っている。 この少年もまた、兄とは別の意味で「異常」なのだ。
(この暗さ、この陰気さ……! これは弱さじゃねえ。あまりに巨大な力を間近で見すぎたがゆえの、虚無だ。そして、兄貴に守られすぎて、地上の有象無象に興味を失っちまってる……!)
ランドルフの目には、シンの「陰気な態度」が、高貴な隠者の風格に見えていた。 と同時に、この儚げな少年を守らなければならないという、奇妙な使命感が芽生えた。
「へへっ、任せな弟君! 俺が、あんたの盾になってやるよ!」
ランドルフは、不器用な笑顔を作り、親愛を込めてシンの頭を撫でようと手を伸ばした。 瞬間、隣にいたアレスの魔剣が鞘の中で「ぎりっ」と鳴り、温度が数度下がったが、シンは気だるげな瞳でそれを制した。
「……ん。よろしく、ランドルフ」
シンは短く答え、興味なさそうに視線を逸らした。 数万年を生きた彼にとって、ランドルフの忠誠も勘違いも、ただの「騒がしい日常」の一片に過ぎなかった。
だが、その冷めた態度こそが、ランドルフに「さすがはマスターの弟君、俺なんかの媚びは通じねえってか!」と、さらなる心酔を植え付ける結果となった。
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