第11話 凍てつく時の牢獄
パチンッ。
乾いた音が響いた瞬間、世界から「色」と「音」が消失した。
アレスの視界が、灰色のモノクロームに染まる。
迫り来ていた不死王の極大魔法も、舞い上がった埃も、揺らめく松明の炎も。
すべてが、まるで精巧な絵画のように空中で静止していた。
(……な、んだ……?)
アレスは思考した。
いや、「思考だけ」が走っていた。
体を動かそうとしても、指一本、瞬きひとつできない。
呼吸も止まっている。心臓の鼓動さえ感じない。
自分の肉体が、石像になったかのような閉塞感。
――死んだのか?
これが死後の世界なのか?
混乱するアレスの脳内に、冷ややかなノイズ交じりの「声」が響いた。
『――許可する』
ドクン。
アレスの魂に、何かが接続された感覚があった。
『特等席だ。その網膜に焼き付けろ。本当の「最強」というものを』
その声の主は、アレスの視界の中心に立っていた。
漆黒の髪、深紅の瞳を持つ、十八歳の青年――真の姿となったシンだ。
シンは、凍りついた灰色の世界の中で、ただ一人、優雅に動いていた。
コートの裾を翻し、止まった時間の中を滑るように歩く。
カツン、カツンと、彼が歩くたびに、存在しないはずの足音がアレスの脳内に直接響く。
シンは、空中で静止している不死王の「極大魔法」――黒い太陽の横を、散歩でもするように通り過ぎた。
そして、その黒い球体を、指先で軽く弾いた。
パリン。
音が脳内に響く。
Sランクの必殺魔法が、ガラス細工のように砕け散り、光の粒子となって空中に固定された。
『粗悪品だ。見る価値もない』
シンは退屈そうに吐き捨てると、玉座の前で固まっている不死王へと近づいた。
死の超越者と呼ばれた王も、今はただの彫像に過ぎない。
だが、その眼窩に宿る青い炎だけが、激しく揺らめいていた。
――不死王には、わかっていたのだ。
自身もまた、意識だけを「許可」されていることに。
『……ば、馬鹿な……』
アレスたちの脳内に、不死王の戦慄する思念が響き渡った。
『動かん……指一本、魔力の一滴すら動かせぬ……! まさか、貴様……時を……!?』
不死王の思考が、恐怖で染め上げられていく。
空間魔法ではない。重力魔法でもない。
これは、世界の理そのものへの干渉。
『ありえん……時間は神の領域……! これは、世の理を覆す神の御業ではないか……ッ!!』
絶叫に近い思念。
Sランクたる彼だからこそ理解できてしまう。
目の前の青年が行っていることが、魔法という概念を超越した、絶対的な「権限」の行使であることを。
シンは不死王の目の前に立ち、その恐怖に歪む骸骨の顔を覗き込んだ。
そして、楽しげに口角を吊り上げる。
『……不死王。貴様でも恐怖するか』
シンは不死王の胸骨に手を伸ばした。
抵抗できない王の肋骨を、ピアノでも弾くように指先で撫でる。
『どうだ? 止まった時間の中は。……理の外の世界は』
『ひっ……や、やめろ……! 貴様、何者だ……!?』
『ただの観測者だ。……いや、今は捕食者か』
ミシミシッ。
シンに触れられた胸骨が、泥のように脆く崩れる。
止まった時間の中では、物理的な硬度など何の意味もなさない。全ての物質は無防備な原子の塊だ。
シンは胸郭の中に手を差し込み、心臓部分に輝く紫色の宝石――「魂の核」を鷲掴みにした。
『命乞いは聞かない。……俺の糧になれることを光栄に思え』
ブチリッ!
シンは無造作に、核を引きちぎった。
不死王の本体が、配線コードを引き抜かれた機械のように輝きを失う。
『あ、あ……我、が……』
不死王の意識が消えゆく中、最後に見たのは、自身の核を飴玉のように口へと運ぶ悪魔の笑顔だった。
『――いただきます』
ガリッ、ゴリッ、バキッ。
咀嚼音が、アレスの脳髄を揺さぶる。
シンは硬度ダイヤモンド並みの魔石を噛み砕き、飲み込んでいく。
喉を通るたびに、シンの魔力が膨れ上がり、深紅の瞳が怪しく輝きを増す。
『……ふむ。数万年もののヴィンテージか。少しカビ臭いが、コクはある』
数秒で、Sランクの核はシンの胃袋へと消えた。
【捕食完了:不死王】
【獲得ゼロ:死者蘇生A】
【獲得ゼロ:不死の肉体S】
【獲得ゼロ:氷結領域A】
シンは口元を拭い、満足げに息を吐いた。
そして、アレスたちの目の前に戻ってくる。
美しい顔立ちで見下ろしてくるその姿は、魔王などという生易しいものではない。
これは「災厄」だ。
人の形をした、終わりの具現化だ。
シンは右手を掲げた。
『さて。ショーは終わりだ』
パチンッ。
二度目の指鳴らし。
世界に色が戻る。
ドサァァァァッ!!
時間が動き出した瞬間、玉座の不死王が砂のように崩れ落ちた。
核を失い、維持できなくなった肉体が、一瞬で風化して塵と化したのだ。
最強の魔物が、悲鳴を上げる間もなく消滅した。
「はっ、ぁ……!?」
アレスは呼吸を取り戻し、その場に崩れ落ちた。
ボルトスも、ミラも、チェルシーも、床にへたり込み、ガタガタと震えている。
理解してしまった。
見てしまった。
自分たちが「最強」だと信じていたBランクの力が、この少年の前では、止まった時間の中の置物と変わらないことを。
「あ、ああ……殺される……」
ミラが錯乱したように頭を抱える。
不死王すら「おやつ」にした怪物が、次は自分たちに向く。
死ぬ。
確実に、抵抗する間もなく。
シンはゆっくりと四人に近づいた。
アレスは後ずさりしようとしたが、腰が抜けて動かない。
シンが目の前に立ち、その深淵のような瞳で見下ろしてくる。
「……ひっ、許して……!」
アレスは額を床に擦り付けた。
プライドも名声もどうでもいい。ただ生きたい。
「なんでもします……金も、装備も、全部やる……! だから、命だけは……!」
惨めな命乞い。
だが、シンから降ってきた言葉は、予想外のものだった。
「……安心しろ。殺しはしない」
シンはしゃがみ込み、アレスの視線に高さを合わせた。
その表情は、慈悲深い聖者のようであり、同時に、無力なペットを愛でる飼い主のようでもあった。
「勘違いするなよ、人間。俺はお前たちの『弱さ』を責めているわけではない」
シンはアレスの震える肩に手を置いた。
「蟻が空を飛べないのを、誰が責める? 魚が陸を走れないのを、誰が怒る?」
「え……?」
「お前たちが弱いのは、間違い(エラー)ではない。仕様だ」
シンは淡々と告げた。
「人間という『器』の限界だ。お前たちは、その低い性能の中で、精一杯足掻いていただけだ。……その滑稽な姿は、観賞用としては悪くなかったぞ」
それは、最大の侮蔑であり、同時に絶対的な赦しだった。
お前たちは弱くて当然だ。だから殺す価値もないし、怒る理由もない。
圧倒的な「上」からの慈悲。
「だから、俺が飼ってやる」
シンの言葉が、呪いのように響く。
「俺がお前たちの王となる。……手を出せ」
シンはアレスの右手を無理やり取らせると、その掌に、自身の指先をゆっくりと這わせた。
ジュッ……。
肉が焼ける音と共に、アレスの掌に漆黒の紋様が刻まれていく。
それは、獲物を絡め取る「蜘蛛」の刺青だった。
「が、ああっ……!?」
アレスだけではない。後ろに控えるミラ、ボルトス、チェルシーの掌にも、同時に同じ紋章が浮かび上がる。
【忠誠の刻印】。魂を主へと繋ぐ、絶対服従の契約。
だが、シンが与えたのは首輪だけではなかった。
「褒美だ。お前たちの錆びついた器を、少しだけ磨き直してやる」
シンから膨大な魔力が流れ込む。
「【ギフト:肉体回帰】」
ドクンッ!!
四人の心臓が早鐘を打ち、全身の細胞が沸騰したかのように活性化する。
「な、なんだ……熱い……! 体が、縮んで……!?」
アレスが悲鳴を上げる。
切断された右腕の断面から、骨が伸び、肉が盛り上がり、瞬く間に腕が再生していく。
それだけではない。
二八歳だったアレスの肌から荒さが消え、筋肉の質が瑞々しく引き締まっていく。ミラも、ボルトスも、チェルシーも。
全員の身体が光に包まれ、時間が巻き戻る。
光が収まった時。
そこにいたのは、最も肉体的なポテンシャルが高かった頃の――「全盛期の肉体」を手に入れた四人だった。
アレスは二十歳の精悍な若者に。
ミラは十七歳の輝くような少女に。
ボルトスは二十三歳の鋼のような青年に。
チェルシーは十五歳のしなやかな肢体を持つ少女に。
「こ、これは……俺の腕が……それに、体が軽い……!」
アレスが再生した右手を握りしめ、驚愕に震える。
全盛期への回帰。人間が一生に一度しか迎えられないピークの状態へ、強制的に固定されたのだ。
「まだだ。器を広げたのだから、中身も満たしてやらねばな」
シンは、呆然とする四人にさらなる力を注ぎ込んだ。
本来、人間は一つしか持てないはずの【ゼロ(才能)】。
それを、シンの権能によって無理やりねじ込む。
「アレス、お前には【紅蓮の炎・極】を。二度と蝋燭の火とは呼ばせない」
「ミラ、お前には【聖域・極】を。死者すら蘇らせる癒やしとなれ」
「ボルトス、お前は【金剛の守護・極】だ。俺の盾となるなら、山の一撃ですら防いで見せろ」
「チェルシー、お前には【影移動・極】をやる。影から影へ、誰にも認識されずに俺の敵の喉を掻っ切れ」
それぞれの魂に、新たな情報が焼き付けられる。
人間を超え、Aランク(英雄級)へと至るための、神からのギフト。
「ぐ、おおおおおおおッ……!!」
四人は快楽と激痛に背を反らし、その場に崩れ落ちた。
脳が理解するよりも早く、魂が理解した。
この方は、自分たちを「作り直した」のだ。
ゴミのような冒険者から、神の眷属へと。
「あ……ああ……」
アレスは、蜘蛛の刻印が刻まれた自分の掌を見つめ、そしてシンの足元に額を擦り付けた。
恐怖による屈服ではない。
圧倒的な「施し」への、魂からの心酔。
「我らが王……シン様……!」
「この命、この魂……今日より全て、貴方様のために……!」
ミラたちも同様に平伏した。
彼らの心は、完全に折られ、そしてシンの色に塗り替えられた。
シンは満足げに頷き、立ち上がった。
そして、再びあのパチンという音と共に、シュウゥ……と煙が上がるように姿を変えていく。
18歳の魔王の姿から、15歳の少年の姿へ。
Fランクの「荷物持ち」の姿へ。
「……一つ、命令しておく」
少年の姿に戻ったシンは、跪く四人を見下ろして言った。
「俺はこの世界で、あまり目立ちたくない。神が地上を歩けば、蟻どもがパニックを起こすからな」
「は、はい……」
「だから、表向きは今まで通り、俺を『Fランクの荷物持ち』として扱え」
シンは人差し指を立てた。
「そして、こう設定しろ。さっきの姿――真の俺は、この少年の姿の『兄』である、と」
「兄……ですか?」
「そうだ。俺は普段、この『弟』の姿を借りて現世を視察している。……いざという時だけ、あの『兄』が現れて力を振るう。そういうことにしておけ」
それは完璧な隠れ蓑だ。
Fランクの弟と、最強の兄。
同一人物だとバレなければ、普段のシンは侮られ、油断を誘える。そして必要な時だけ「兄」として圧倒的な暴力を行使できる。
「わかりました! シン様は、我らの最強の弟君……いえ、真の主です!」
アレスは敬語で叫んだ。
その顔には、もはや傲慢さは微塵もない。あるのは、狂信的な忠誠心だけだった。
「よし。……行くぞ、下僕たち」
シンは踵を返した。
「地上へ戻る。……腹が減った。甘いものでも食いたい気分だ」
シンは歩き出した。
その後ろを、かつて「紅蓮の獅子」と呼ばれた四人の新たな下僕たちが、整列して恭しく従う。
その光景は、主人の後ろをついて歩く、躾けられた犬の群れのようだった。
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