第1話:滅びた世界の観測者
世界は、かつて一度、音もなく死んだ。
ある晴れた火曜日の午後、それは唐突に訪れた。「大消失」と呼ばれる現象が、惑星全土を慈悲なく覆い尽くしたのだ。
前触れはなかった。警報も、ニュース速報も、神に祈る猶予さえもなかった。
東京の喧騒も、ニューヨークの摩天楼も、サハラの静寂も。あらゆる場所で、あらゆる人々が、その瞬間に行動を停止した。
アスファルトに、オフィスの床に、公園のベンチに。人類は地面に自身の「影」だけを黒々と焼き付け、その肉体を光の塵と化して消滅した。
八〇億の命が、瞬きする間に「黒いシミ」へと変わったのだ。
それから、どれほどの時が流れたのだろうか。
主を失った文明の残骸は風化し、大地は再び緑に飲み込まれた。大気中に満ちた未知のエネルギー粒子——後に「魔素」と呼ばれることになる物質——によって、地球上の動植物は異形の進化を遂げた。
かつての青い星の面影は消え失せ、弱肉強食の理が支配するファンタジー世界へと変貌していた。
そんな悠久の時の中で、世界に刻まれた八〇億の影のうち、たった一つだけ、揺らぐものがあった。
深い森の奥。苔むしたコンクリートの残骸——かつて雑居ビルだったもの——の屋上に焼き付いていた、小さな子供の影。
それが、ある満月の夜、泥のように隆起し、色を取り戻し、立体的な形を成した。
一人の少年が、この変貌した地球に産み落とされた。
彼の名は「シン」。
肉体年齢、五歳。
彼こそが、この世界における「最初の復活者」だった。
目覚めたシンの周囲には、誰もいなかった。親も、友も、人間そのものが存在しなかった。
あるのは、進化した凶暴な獣の咆哮と、毒々しい極彩色をした巨大な虫たちの羽音だけ。五歳の子供が生き残れる環境ではなかった。すぐに死に絶え、魔獣の餌となる運命だったはずだ。
だが、シンには「力」があった。
影から復活した代償か、あるいは星からの恩恵か。彼は一つの特殊能力、固有の【ゼロ】を持って目覚めた。
——【蜘蛛操作】。
森に無数に生息する蜘蛛たちと意識を繋げ、手足のように操る力。
シンは泣かなかった。絶望もしなかった。ただ、空腹と、燃え上がるような生存本能だけが彼を突き動かした。
「……食え」
幼い命令に応え、森の蜘蛛たちが獲物を狩る。
そして、シンはこの時、自身の能力の「真の姿」を知ることになる。
——【ゼロ・プレデション(零の捕食)】。
蜘蛛を介して他生物を捕食することで、その対象が持つ特性、能力、そして「経験」そのものを奪い取り、自身の力として蓄積する禁忌の力。
蜘蛛が毒虫を食えば、シンは【毒耐性】を得た。
蜘蛛が硬い甲殻を持つ魔物を食えば、シンの皮膚は鉄より硬くなった。
五歳から、森での孤独なサバイバルが始まった。
彼は森の生態系の頂点に君臨する魔物たちを、数千、数万の蜘蛛を使って狩り続けた。
そして、肉体が一三歳を迎えた、ある赤い月の夜のことだ。
シンは、時空の歪みから生まれた幻の魔獣「クロノス・ミスト」と遭遇した。
実体を持たず、あらゆる物理攻撃を透過させ、触れた者の時間を奪って風化させる、ランクS(天災級)を超える災害存在。
森の一区画が、一瞬にして数千年分の時間を奪われ、砂漠化していく。
シンは逃げなかった。いや、逃げられなかった。
彼は数億の眷属(蜘蛛)を犠牲にし、三日三晩の死闘を繰り広げた。実体がないなら、霧そのものを吸い尽くせばいい。
最後の一匹となった蜘蛛が、霧の核を吸い込んだ瞬間。
世界が変わった。
脳髄を焼くような情報の奔流と共に、シンはレア【ゼロ】——【時間操作】を手に入れた。
それは、自身の肉体の時間を固定し、周囲の時間を操る、神の領域に至る鍵だった。
それから、さらに悠久の時が流れた。
数千年……あるいは数万年。
シンは自身の肉体を、最も動きやすく、かつ相手を油断させやすい「一五歳前後」の状態で固定し、森の奥深くに座して、ただ世界を「観察」し続けた。
やがて、ポツリ、ポツリと、世界各地に残された「影」たちが復活し始めた。
彼らは集落を作り、国を作り、争い、また滅びる。
その過程で、彼らは自分たちが持つ力を【ゼロ】と名付け、その応用技術である【派生】を開発し、その組み合わせによって【クラス(階級)】という概念を作り出した。
F、E、D、C、B、A……そしてS。
今の新人類たちは、Sランク(天災級)こそが頂点だと信じ込んでいる。
その上にSS(世界崩壊級)、SSS(神話級)、そして伝説のLという領域があることも知らず。
ましてや、その全てを超越し、時すら支配するGランクの存在が、すぐそばの森にいることなど、知る由もなかった。
森の木漏れ日の中で、シンはゆっくりと目を開けた。
数千年の沈黙を破り、始祖が動き出す。
視線の先には、森の境界線に新しくできた人間の集落が見える。ここ数百年で定着した、「メジ村」と呼ばれている場所だ。
「……そろそろ、動くか」
シンは立ち上がった。
ボロボロの、しかし普通の村人が着るような麻のチュニックとズボン。どこにでもいる、貧相な少年。
だが、その影の中には、漆黒のローブと、毒の紋章が刻まれたマント——「裏の顔」が静かに眠っている。
シンは人間が嫌いではない。かつて自分も人間だった記憶がおぼろげにあるからだ。
ただ、弱い者を虐げる「醜悪な悪」は、虫唾が走るほど嫌いだった。
これから向かう人間の世界が、綺麗な場所であることを願いながら、彼は一歩を踏み出した。
◇
メジ村の門は、数千年前にシンが見た「旧文明の廃材」ではなく、森の木を切り出して組んだだけの原始的なものだった。
粗末な丸太を組んだ柵。見張り台のような櫓。
「……退化しているな」
シンは、ボソリと独りごちた。
かつて鉄とコンクリートで空を埋め尽くしていた人類が、今は木の柵に守られて、森の獣に怯えている。文明のリセット。それもまた、一つの進化の形なのかもしれない。
シンは、自身の肉体年齢を一五歳に固定したまま、門の前に立った。
「止まれ! 何者だ!」
門番の衛兵が、錆びた槍を突きつけてきた。
シンは、数万年の記憶の引き出しから「現代語」を検索し、それに合わせて口を開く。
「……人間だ」
「ふざけるな! 復活者か? 名前と、【ゼロ】を申告しろ!」
衛兵の男——タゴ——が叫ぶ。
シンは、タゴの頭上に浮かぶ不可視のステータスを「視て」いた。彼の目は、対象の魔力波長から情報を解析する「鑑定眼」の役割も果たしている。
【解析完了】
対象名:タゴ
ランク:F(一般人)
ゼロ:【筋力小増強】
派生:なし
クラス:【見習い兵士(ソルジャーF)】
(……ふむ。派生なしか。クラスも最下級。個体値としては下の下か)
この世界において、人々は皆、復活と同時にたった一つの能力【ゼロ】を持って目覚める。
その能力は、誰もが等しく「Fランク」から始まる。
そこから長い年月をかけ、同じ行動を百回、五百回、二千回と繰り返すことで経験を積み、ゼロから枝分かれする【派生】スキルを習得し、その組み合わせで【クラス】を上げていくのが常識だ。
例えば戦士なら、槍を使えば【ナイト(騎士)】へ、斧を使えば【ヘビーウォリアー(重戦士)】へとクラスが変化する。
タゴのようなFランクは、努力を怠ったか、才能が枯渇した者の末路だ。
「……シン。【ゼロ】は、【蜘蛛操作】」
「ぷっ……【蜘蛛操作】だぁ? 虫使いかよ!」
タゴの警戒心が、瞬時に侮蔑へと変わった。
「おい聞いたか? 攻撃系の派生も期待できない、ハズレ枠だ。一生Fランク確定のゴミ能力だぜ」
櫓の上からも嘲笑が降ってくる。
【蜘蛛操作】。確かに、ただ蜘蛛を動かすだけの能力と思えば、戦闘力は皆無に等しい。彼らの反応は、この世界の常識に照らし合わせれば正常なのだろう。
シンは、その嘲笑を無表情に受け流した。
(弱い犬ほどよく吠える……か。不快だが、殺すほどでもない)
「正体不明のFランク」。これほど動きやすい立場はない。
【自己ステータス隠蔽・展開中】
対象名:シン
ランク:G(表示偽装:F)
ゼロ:【蜘蛛操作】
派生:【時間操作】【毒生成】【影魔法】【創造】etc...(表示偽装:なし)
クラス:【始祖】(表示偽装:虫使い)
Gランクのオーラを完全に隠蔽し、シンはただの無力な少年を演じた。
「村に入りたい」
「チッ。村長に報告してやる。ついてこい。お前の汚ねえ『友達』を村に持ち込むなよ」
案内された村長の家。
そこにいたのは、ゲルドという壮年の男だった。
厳格そうな顔立ちだが、その目は傲慢に濁っている。肥え太った腹は、この村で彼だけが十分な食料を得ていることを示唆していた。
【解析完了】
対象名:ゲルド
ランク:C(上級者)
ゼロ:【土壁生成】
派生:【硬化】【形状変化】
クラス:【石工師(メイソンC)】
「ワシが村長のゲルドだ。クラスは【石工師】だ」
ゲルドは、誇らしげに自身のクラスを強調した。
Cランク。上級者。
この世界の一般人にとって、Cランクは一つの到達点であり、尊敬の対象だ。
都市部ではともかく、この辺境の村でCランクといえば、王様気取りもできるだろう。
「シン。【蜘蛛操作】です」
「ふん。Fランクか」
ゲルドは鼻で笑った。
「いいか小僧。この世界は実力主義だ。ワシがこの【石工師】のクラスに至るまで、二〇年の歳月と数万回以上の壁生成訓練が必要だった。お前のその貧弱な能力で、どこまで上がれるかは知らんが……」
シンは、あくびを噛み殺すのに必死だった。
数万回。
シンが【時間操作】で一瞬を無限に引き伸ばしている間に終わる回数だ。
Lランクに至るには、億単位の経験が必要となる。ましてやGランクなど、この男の脳では理解不能な領域だ。
「……で、仕事はあるか?」
「生意気なガキだ。……いいだろう。村の穀物倉に、『アーマー・ラット』が湧いて困っている。ありゃ【硬質化】の【ゼロ】持ちだ。Fランクだが、数は多い。害獣駆除だ。終わるまで食事は抜きだ」
(アーマー・ラット……)
シンの記憶にある「古代種」の生き残りか。
Fランクとはいえ、鋼鉄のような皮膚を持つネズミ。それが群れで穀物を食い荒らしている。村人たちの貴重な食料を。
(……弱い者が、さらに弱い者に虐げられている、か。美しくないな)
シンは、ゲルドの傲慢な態度には呆れていたが、村人たちが飢えるのは不快だった。
「わかった。やってやる」
「フン。死んでも知らんぞ。タゴ、こいつを穀物倉へ放り込め」




