想定外の出来事
台所で朝食の準備をしていた森岡翠は玄関から音がするのに気づいた。
「なんの音……?」
呟いて、音を確認をするために玄関へ向かうと、やっぱりコンコンとドアを叩く音がする。そして小声だったが少年の声が聞こえた。
「おーい、誰か開けてー」
今朝は夜から降り続いていた雨は小雨になっていた。
驚いた翠は靴を履くと、そうっと扉の前に立った。
ガラス越しの黒い影がドアをコンコンと叩いている。
「母さん、こっちにいるよねー。開けてくれよー」
母さんというのは父の再婚相手の女性のことだ。すぐに鍵を開けて外をのぞくと、同じ年くらいの少年が立っていた。
あ、あの子だ! と翠は思った。
「開いた! 助かった。ありがとー」
少年はそう言うとドアを開けて中に入ってきた。翠は少年を見上げると一歩後ずさりした。
背が高い。自分はまだ160センチもなく小柄な方だ。彼は十センチ以上は高いのではないだろうか。
「母さんいるよね? あ、俺、貴也って言うんだ。佐野貴也」
「森岡……翠です」
「すいってどんな字を書くの?」
「みどりとも読むんだけど……」
貴也が首を傾げる。
どう説明しようかと迷っていると彼が手を差し出した。
手のひらを上に向けたので、いいのかなと思いつつドキドキしながら指で漢字を書いている間、視線を感じた。
目線を上げようとした時、後ろから女性の声がした。振り返ると父の再婚相手の玲子がパジャマ姿で立っていた。
「貴也っ。何してんのっ」
「あ、母さん!」
貴也は嬉しそうに笑った後、風呂入らせてー、と言った。玲子は雨に濡れている貴也を見て、呆れたように息を吐いた。
「なんでここにいるの? お父さんの家にいたんじゃなかったの?」
「それがさー、あっちはあっちで大変だったんだよ。お邪魔しまーすっ」
貴也はそう言うと、さっさと靴を脱いで家の中に入った。翠は行き場を失った手をそのままにして、貴也のうしろ姿を見ながらハッとした。
どうして彼がここに?
目をぱちぱちさせると、玲子がごめんなさいね、と謝ってきた。
「びっくりしたでしょ、翠くん」
「い、いえ、大丈夫です」
「私にも何がなんだか……」
玲子は、はあっと息を吐きだすと、着替えてくるわねと寝室へ戻った。
「おーい、お風呂場教えてー」
貴也が廊下の先で待っている。翠は急いで貴也の方へかけて行った。
「あ、お風呂場こっちです」
「なんで敬語? 翠はいくつ?」
「15歳です」
「えっ! 中学生だっけ?」
「高校です」
「俺とタメじゃん」
貴也はケラケラと笑った。
父が再婚すると言ったのは三か月ほど前で、その再婚相手と一緒に暮らし始めたのは最近だ。
玲子に息子がいるのは知っていたが、彼は実親と住むと聞いていたので安心していたのだ。
「あ、あの……。何かあったんですか?」
「敬語やめてくれたら教えてあげる」
「えええ……」
敬語の方が楽なんだけど、と思ったが、思い切ってタメ口に切り替える。
「な、何かあったの?」
話しながらお風呂場に案内すると貴也はすぐに洋服を脱ぎ始めた。翠はびっくりして、くるっと背を向けた。
同性とはいえ、初めて会った同級生の裸を見るなんて心臓に悪い。
「ごめん。お風呂から出たら説明するよ」
「う、うん。分かった。あの、うち古い家だからシャワーの使い方……」
できるだけ貴也を見ないようにしてお湯の出し方を教える。貴也が理解したのを確認して、翠は急いで浴室を出た。
タオルを用意しなきゃ。
洋服も濡れているようだったから父の服を借りようと思った。
父の寝室へ行き、廊下から声をかけた。
「お父さん、貴也くんがさっきうちに来て、洋服が雨に濡れているみたいなんだ。お父さんの洋服を貸してくれる?」
「いいよー」
事情は玲子から聞いていたのだろう。父がシャツとジャージを持って部屋から出てきた。それを受け取って脱衣所へ戻った。中にいる貴也に声をかける。
「貴也くん、お父さんの着替えを借りたから、これ着てください」
呼びかけると、助かるありがとー、と返事があった。ホッとして翠は台所に戻った。
玲子はまだ台所には来ておらず、翠はいつものようにお湯を沸かし始めた。仕掛けておいたご飯が炊けている。ご飯をほぐしながら、貴也の事を思い浮かべた途端、顔が熱くなった。
やばい。彼がうちに来ることは想定外だった。




