スピンオフ④「観る者」
# スピンオフ④「観る者」
光のない空間だった。
上も下もない。
時間もない。
距離もない。
ただ、無数の光だけが漂っている。
一つ一つが、人の人生だった。
生まれる前の光。
今を生きる光。
すでに消えた光。
まだ名前すら持たない光。
それらが混ざり合いながら、静かに流れている。
その中心に、一つの影があった。
人の形をしている。
だが、人ではない。
諸葛亮孔明。
そう呼ばれるものの、欠片。
本人ではない。
かつて天下を争う戦を渡り歩いた軍師、その名と思想と記憶の一部から切り離された、強い分霊。
巨大な本体から離れ、人に憑き、人の戦を観てきたもの。
今はただ、観ている。
(また、始まったか)
視線の先に、人の流れが見える。
小さな選択。
積み重なる努力。
勝利。
敗北。
出会い。
別れ。
無数の道が枝分かれしている。
その一つ一つが未来へ続いている。
(面白い)
分霊はそう思った。
「まだ飽きぬのか」
声がした。
姿は曖昧だった。
神、と呼ぶには近すぎる。
観測者、と呼ぶには遠すぎる。
それは、世界の外側にいる何かだった。
分霊は振り返らない。
(何をだ)
「人間を見ることだ」
声は言う。
「何度も繰り返している」
「同じような人生」
「同じような失敗」
「同じような争い」
「同じような敗北」
「何が面白い」
分霊は少しだけ笑った。
(同じではない)
「同じだろう」
(違う)
静かに否定する。
(人は毎回違う)
視線の先に、一人の少年が映る。
机に向かっている。
問題を解いている。
迷いながら。
悩みながら。
それでも前へ進んでいる。
森岡悠真。
かつて中学受験で敗れた少年。
敗北を抱えたまま、別の戦場へ進んだ少年。
その背後に、かつて分霊はいた。
声として。
影として。
盤面を見る癖として。
だが今は、もう薄い。
少年の中に沈み、少年自身の思考へと変わりつつある。
別の場所。
竹刀を振る少年がいる。
森岡心太。
汗を流しながら。
何度も外しながら。
それでも、もう一度構えている。
剣道。
国語。
英語。
まだ小さな戦場。
だが、その目はよく見ている。
空気を。
間合いを。
人の変化を。
「優れているからか」
声が問う。
分霊は首を振った。
(違う)
「では何だ」
少し間が落ちる。
分霊は答えた。
(未熟だからだ)
声は黙る。
(完成された者は、つまらぬ)
静かな思念だった。
(迷わぬ者も)
(失敗せぬ者も)
(敗北せぬ者も)
つまらない。
(人は未完成だから価値がある)
声は何も言わない。
分霊は続ける。
(揺れる)
(迷う)
(崩れる)
(立ち上がる)
その繰り返し。
(戦とは、そういうものだ)
視線の先。
一人は追う。
一人は追われる。
一人はまだ始まったばかりだ。
藤堂優駿。
森岡悠真。
森岡心太。
同じ時代にいる。
同じ場所の近くにいる。
だが、同じ時間を生きているわけではない。
追う者。
追われる者。
これから追い始める者。
誰も完成していない。
(均衡は崩れる)
いつか必ず。
どこかで。
誰かが上がり。
誰かが落ちる。
誰かが変わる。
だから面白い。
(その瞬間に価値がある)
分霊は小さく笑った。
戦場は変わる。
受験。
部活。
学校。
仕事。
人生。
名前が変わるだけだ。
本質は変わらない。
限られた時間。
限られた手数。
限られた体力。
そして選択。
それだけで、人は未来を変えていく。
「だから、お前は降りたのか」
声が聞く。
分霊は少しだけ考えた。
そして答える。
(違う)
「では?」
分霊は遠くを見る。
少年たちの光。
まだ小さい光。
だが確かに燃えている。
(確かめたかった)
「何を」
分霊は笑う。
ほんの少しだけ。
(人は、戦よりも複雑かどうかをな)
声は沈黙する。
その答えを、すでに知っているからだ。
分霊も知っている。
だから今も観ている。
かつて自分が見た戦場には、兵がいた。
陣があった。
旗があった。
火があった。
命があった。
だが、今の戦場には違うものがある。
机。
ノート。
答案。
順位。
偏差値。
内申。
部活。
親の不安。
子の迷い。
友人の背中。
誰にも見えない焦り。
誰にも言えない悔しさ。
剣を持たない戦場。
それでも、人は傷つき、立ち上がり、変わっていく。
(面白い)
分霊は、またそう思った。
光が揺れる。
時間が流れる。
戦いは終わらない。
ただ形を変えて続いていく。
受験も。
部活も。
人生も。
同じだった。
ふと、分霊の視線が一つの空白に止まった。
そこには、まだ誰もいない。
いや。
誰もいないように見える場所があった。
空席。
何かが入り込むための場所。
何かを観るための場所。
まだ、この物語の者たちは気づいていない。
悠真も知らない。
心太も知らない。
優駿も知らない。
だが、世界のどこかで、別の少年がその空席へ近づいている。
分霊は、その気配だけを感じた。
(……ほう)
興味が、ほんの少しだけ深くなる。
観る者。
証す者。
空いた場所に立つ者。
戦場の形は、また変わるかもしれない。
「また、余計なものを見るのか」
声が言った。
分霊は静かに答えた。
(余計かどうかは、盤面が決める)
声はそれ以上、何も言わなかった。
光は流れ続ける。
終わりなく。
どこまでも。
分霊は静かに目を細める。
(さて)
視線の先で、新しい光がまた動き始めている。
追う者。
追われる者。
まだ何者でもない者。
そして。
まだ誰にも憑かれていない、空いた場所。
そのすべてを観ながら、分霊は小さく呟いた。
(次は、誰が変わる)
答えはない。
だからこそ面白い。
光は流れ続ける。
戦いは続いていく。
終わりなく。
形を変えて。
どこまでも。
――スピンオフ④「観る者」・完――




