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偏差値は戦である  作者: 受験孔明
スピンオフ
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47/50

スピンオフ①「見ていた背中」

# スピンオフ①「見ていた背中」


 最初に覚えているのは、机の音だった。


 カリ、カリ、とペンが紙を削る音。


 夜になると、それが部屋の外まで聞こえてきた。


 兄の部屋のドアは、少しだけ開いていることが多かった。


 完全に閉めると、母が様子を見に入るからだ。


 開けすぎると生活音が入る。


 だから、ほんの少しだけ。


 その隙間から光が漏れていた。


(またやってる)


 小学生だった心太は、そう思いながら通り過ぎる。


 特別なことではなかった。


 夕方も。


 夜も。


 朝も。


 兄は机に向かっていた。


 リビングの空気は、日によって違った。


 穏やかな日もあれば、張り詰めた日もある。


 母の声で分かる。


「ちゃんとやったの?」


 低い声。


「やった」


 兄の声は短い。


「本当に?」


 間がある。


(ああ、今日はだめだな)


 子どもでも分かる。


 空気が重くなる。


 テレビは消える。


 食器の音だけが響く。


 父は、その時あまり口を出さなかった。


 新聞をめくる音だけがする。


 時々、


「まあいいだろ」


 と小さく言う。


 それで終わることもあれば、終わらないこともある。


(大変だな)


 他人事のように思っていた。


 自分には関係ない。


 そう思いたかった。


 ある日、兄の机の横に座ったことがある。


 何をしているのか見たかっただけだ。


 ノートには数字と文字がびっしり並んでいた。


「何これ」


 聞く。


「算数」


「難しいの?」


「普通」


 兄は目を上げない。


(普通じゃないだろ)


 そう思う。


 自分のプリントとは明らかに違う。


 だが兄は、それを普通と言う。


 少しだけ見て、すぐに飽きた。


 難しすぎて分からない。


 部屋を出る。


(やっぱり分からん)


 それが正直な感想だった。


 塾の日は、家の時間がずれる。


 夕方、兄はいない。


 夜遅く帰ってくる。


 疲れているはずなのに、また机に向かう。


「今日どうだった?」


 母が聞く。


「普通」


 いつも同じ答え。


「ちゃんと理解してるの?」


「してる」


 短い会話。


 だが、その裏にあるものは見える。


 納得していない母と、説明しない兄。


(同じことばっかりだな)


 子どもでも分かる繰り返し。


 一度だけ、兄が机から離れたことがある。


 リビングでぼんやりしていた。


 何もしていない。


「どうしたの?」


 母が聞く。


「別に」


 兄は答える。


 だが、その「別に」はいつもと違った。


(やってないな)


 そう思った。


 その日の夜は少しだけ空気が軽かった。


 怒る理由がなかったからだろう。


 だが翌日。


 また同じ音が戻った。


 カリ、カリ。


(戻った)


 それでいいのかどうかは分からない。


 ただ、そういうものだと理解していく。


 テストの日。


 家の空気が変わる。


 朝から静かだ。


 兄は早く起きている。


 母も早い。


 言葉は少ない。


「忘れ物ない?」


「ない」


「時間大丈夫?」


「大丈夫」


 短い確認。


 いつもより丁寧だった。


 玄関で母が言う。


「落ち着いてやりなさい」


 兄は頷く。


「分かってる」


 それだけで出ていく。


 ドアが閉まる音。


(行ったな)


 その背中を何度も見た。


 結果の日。


 これも空気で分かる。


 朝から落ち着かない。


 母がスマホを何度も見る。


 父はいつも通りに見えるが、新聞をめくる手が少しだけ早い。


 兄は部屋にいる。


 ドアは半分開いている。


(まだか)


 時間が進むのが遅い。


 通知音。


 一瞬、家の中が止まる。


 母が画面を見る。


「……」


 何も言わない。


(どっちだ)


 兄が部屋から出てくる。


「どうだった?」


 母が聞く。


 間。


「……だめだった」


 兄が言う。


 それだけだった。


 静かになる。


 誰も大きな声を出さない。


 怒ることも。


 泣くことも。


 ない。


 ただ、空気だけが沈む。


(落ちたんだ)


 子どもでも分かる。


 あとになって、全部がだめだったわけではないと知った。


 受かった学校もあった。


 行ける場所もあった。


 それでも、あの日の家の空気は、明らかに負けた日のものだった。


 つまり、兄が本当に行きたかった場所には届かなかったのだ。


 兄はそのまま部屋へ戻る。


 ドアが閉まる。


 今度は完全に閉まる。


(閉めたな)


 それがいつもと違った。


 夜。


 音がしない。


 カリ、カリという音が消えている。


(やってない)


 当然だと思った。


 やる理由がない。


 だが翌日。


 また音が戻った。


 カリ、カリ。


(……やるのか)


 少しだけ驚く。


 負けたら終わりだと思っていた。


 だが終わっていなかった。


(続くんだな)


 それが初めて分かった瞬間だった。


 時間が過ぎる。


 兄は高校受験へ向かう。


 空気はまた変わる。


 だが基本は同じだった。


 机。


 ノート。


 ペンの音。


 ただ一つ違ったのは、兄の表情だった。


 前よりも静かだった。


 怒られても揺れない。


 結果が悪くても崩れない。


(変わったな)


 理由は分からない。


 ただ、そう見えた。


 ある夜。


 ふと部屋を覗いた。


 兄は問題を解いていた。


 いつも通りだ。


 だが少しだけ違う。


(速い)


 ペンの動きが止まらない。


 迷っている感じがない。


(分かってるんだ)


 そう思った。


 前は「やらされている」ように見えた。


 今は「やっている」。


 その違いは、子どもでも分かった。


 遠征の日。


 空港に行く兄を見送った。


 スーツケースを引いている。


「行ってくる」


「いってらっしゃい」


 母が言う。


 父は、


「気をつけろ」


 とだけ言う。


 兄は振り返らない。


(大きくなったな)


 そう思った。


 しばらくして、結果が出始めた。


 家の空気がまた動く。


 今回は前と少し違った。


 兄は結果を、ひとつずつ受け止めていた。


 通った場所もあった。


 届かなかった場所もあった。


 母は資料を並べていた。


 父はいつも通りに見せていたが、前よりも会話を聞いていた。


 心太には、詳しいことは分からない。


 ただ、勝っただけではないことは分かった。


 全部うまくいったわけではない。


 でも、全部だめだったわけでもない。


 その中から、兄は選ぼうとしていた。


 ある夜。


 リビングの空気が、いつもより静かだった。


 母が聞く。


「本当に?」


 兄が答える。


「うん」


 短い返事。


 母はしばらく黙っていた。


 そして言った。


「じゃあ、途中で逃げないで」


「ああ」


 それで決まったのだと分かった。


 兄は、自分で行く場所を選んだ。


(勝ったんだ)


 心太はそう思った。


 正確には、ただ勝っただけではない。


 負けたものもあった。


 それでも、最後に自分で選べる場所まで来た。


 だから、勝ったのだ。


 入学の日。


 新しい制服。


 兄は少しだけ大人に見えた。


「どう?」


 聞く。


「普通」


 いつもの答え。


 だが、その普通は前とは違った。


 数日後の夜。


 また机の音が聞こえる。


 カリ、カリ。


(またやってる)


 同じだ。


 だが違う。


(あの人は、ずっと机にいた)


 ふと言葉になる。


 負けた日も。


 勝った日も。


 その前も。


 その後も。


 ずっと。


 兄の背中には、何も見えない。


 けれど時々、机に向かう兄の周りだけ、部屋が少し静かすぎる気がした。


 音はしている。


 カリ、カリ。


 ペンの音は確かに聞こえる。


 なのに、その周りだけ、空気が深く沈んでいるような時がある。


 心太には、それが何なのか分からない。


 ただ、兄が机に向かっている時だけ、部屋の奥にもう一つ別の場所があるように感じることがあった。


 自分はまだ、そこにいない。


 剣道を始めたばかりで、勉強もこれからだ。


(次は、自分か)


 少しだけ思う。


 廊下を歩く。


 兄の部屋の前で足を止める。


 ドアは少しだけ開いている。


 中から光が漏れている。


 カリ、カリ。


 ペンの音。


(同じだな)


 少しだけ安心する。


 兄は変わっていなかった。


 負けた日も。


 勝った日も。


 結局、机に向かっている。


 それが兄だった。


 心太は自分の部屋へ戻る。


 机に座る。


 ノートを開く。


 白いページ。


 まだ何も書かれていない。


 ペンを持つ。


 少しだけ考える。


 そして、一行だけ書いた。


 ――剣道


 その文字を見つめる。


 兄には兄の戦場があった。


 なら。


 自分にもある。


 廊下の向こうから、またペンの音が聞こえる。


 カリ、カリ。


 心太は小さく笑った。


「負けないからな」


 誰に言ったのか、自分でも分からない。


 返事はない。


 だが、それでいい。


 ペンを動かす。


 まだ小さな音。


 けれど。


 確かに始まっていた。


 ――スピンオフ①「見ていた背中」・完――


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