スピンオフ①「見ていた背中」
# スピンオフ①「見ていた背中」
最初に覚えているのは、机の音だった。
カリ、カリ、とペンが紙を削る音。
夜になると、それが部屋の外まで聞こえてきた。
兄の部屋のドアは、少しだけ開いていることが多かった。
完全に閉めると、母が様子を見に入るからだ。
開けすぎると生活音が入る。
だから、ほんの少しだけ。
その隙間から光が漏れていた。
(またやってる)
小学生だった心太は、そう思いながら通り過ぎる。
特別なことではなかった。
夕方も。
夜も。
朝も。
兄は机に向かっていた。
リビングの空気は、日によって違った。
穏やかな日もあれば、張り詰めた日もある。
母の声で分かる。
「ちゃんとやったの?」
低い声。
「やった」
兄の声は短い。
「本当に?」
間がある。
(ああ、今日はだめだな)
子どもでも分かる。
空気が重くなる。
テレビは消える。
食器の音だけが響く。
父は、その時あまり口を出さなかった。
新聞をめくる音だけがする。
時々、
「まあいいだろ」
と小さく言う。
それで終わることもあれば、終わらないこともある。
(大変だな)
他人事のように思っていた。
自分には関係ない。
そう思いたかった。
ある日、兄の机の横に座ったことがある。
何をしているのか見たかっただけだ。
ノートには数字と文字がびっしり並んでいた。
「何これ」
聞く。
「算数」
「難しいの?」
「普通」
兄は目を上げない。
(普通じゃないだろ)
そう思う。
自分のプリントとは明らかに違う。
だが兄は、それを普通と言う。
少しだけ見て、すぐに飽きた。
難しすぎて分からない。
部屋を出る。
(やっぱり分からん)
それが正直な感想だった。
塾の日は、家の時間がずれる。
夕方、兄はいない。
夜遅く帰ってくる。
疲れているはずなのに、また机に向かう。
「今日どうだった?」
母が聞く。
「普通」
いつも同じ答え。
「ちゃんと理解してるの?」
「してる」
短い会話。
だが、その裏にあるものは見える。
納得していない母と、説明しない兄。
(同じことばっかりだな)
子どもでも分かる繰り返し。
一度だけ、兄が机から離れたことがある。
リビングでぼんやりしていた。
何もしていない。
「どうしたの?」
母が聞く。
「別に」
兄は答える。
だが、その「別に」はいつもと違った。
(やってないな)
そう思った。
その日の夜は少しだけ空気が軽かった。
怒る理由がなかったからだろう。
だが翌日。
また同じ音が戻った。
カリ、カリ。
(戻った)
それでいいのかどうかは分からない。
ただ、そういうものだと理解していく。
テストの日。
家の空気が変わる。
朝から静かだ。
兄は早く起きている。
母も早い。
言葉は少ない。
「忘れ物ない?」
「ない」
「時間大丈夫?」
「大丈夫」
短い確認。
いつもより丁寧だった。
玄関で母が言う。
「落ち着いてやりなさい」
兄は頷く。
「分かってる」
それだけで出ていく。
ドアが閉まる音。
(行ったな)
その背中を何度も見た。
結果の日。
これも空気で分かる。
朝から落ち着かない。
母がスマホを何度も見る。
父はいつも通りに見えるが、新聞をめくる手が少しだけ早い。
兄は部屋にいる。
ドアは半分開いている。
(まだか)
時間が進むのが遅い。
通知音。
一瞬、家の中が止まる。
母が画面を見る。
「……」
何も言わない。
(どっちだ)
兄が部屋から出てくる。
「どうだった?」
母が聞く。
間。
「……だめだった」
兄が言う。
それだけだった。
静かになる。
誰も大きな声を出さない。
怒ることも。
泣くことも。
ない。
ただ、空気だけが沈む。
(落ちたんだ)
子どもでも分かる。
あとになって、全部がだめだったわけではないと知った。
受かった学校もあった。
行ける場所もあった。
それでも、あの日の家の空気は、明らかに負けた日のものだった。
つまり、兄が本当に行きたかった場所には届かなかったのだ。
兄はそのまま部屋へ戻る。
ドアが閉まる。
今度は完全に閉まる。
(閉めたな)
それがいつもと違った。
夜。
音がしない。
カリ、カリという音が消えている。
(やってない)
当然だと思った。
やる理由がない。
だが翌日。
また音が戻った。
カリ、カリ。
(……やるのか)
少しだけ驚く。
負けたら終わりだと思っていた。
だが終わっていなかった。
(続くんだな)
それが初めて分かった瞬間だった。
時間が過ぎる。
兄は高校受験へ向かう。
空気はまた変わる。
だが基本は同じだった。
机。
ノート。
ペンの音。
ただ一つ違ったのは、兄の表情だった。
前よりも静かだった。
怒られても揺れない。
結果が悪くても崩れない。
(変わったな)
理由は分からない。
ただ、そう見えた。
ある夜。
ふと部屋を覗いた。
兄は問題を解いていた。
いつも通りだ。
だが少しだけ違う。
(速い)
ペンの動きが止まらない。
迷っている感じがない。
(分かってるんだ)
そう思った。
前は「やらされている」ように見えた。
今は「やっている」。
その違いは、子どもでも分かった。
遠征の日。
空港に行く兄を見送った。
スーツケースを引いている。
「行ってくる」
「いってらっしゃい」
母が言う。
父は、
「気をつけろ」
とだけ言う。
兄は振り返らない。
(大きくなったな)
そう思った。
しばらくして、結果が出始めた。
家の空気がまた動く。
今回は前と少し違った。
兄は結果を、ひとつずつ受け止めていた。
通った場所もあった。
届かなかった場所もあった。
母は資料を並べていた。
父はいつも通りに見せていたが、前よりも会話を聞いていた。
心太には、詳しいことは分からない。
ただ、勝っただけではないことは分かった。
全部うまくいったわけではない。
でも、全部だめだったわけでもない。
その中から、兄は選ぼうとしていた。
ある夜。
リビングの空気が、いつもより静かだった。
母が聞く。
「本当に?」
兄が答える。
「うん」
短い返事。
母はしばらく黙っていた。
そして言った。
「じゃあ、途中で逃げないで」
「ああ」
それで決まったのだと分かった。
兄は、自分で行く場所を選んだ。
(勝ったんだ)
心太はそう思った。
正確には、ただ勝っただけではない。
負けたものもあった。
それでも、最後に自分で選べる場所まで来た。
だから、勝ったのだ。
入学の日。
新しい制服。
兄は少しだけ大人に見えた。
「どう?」
聞く。
「普通」
いつもの答え。
だが、その普通は前とは違った。
数日後の夜。
また机の音が聞こえる。
カリ、カリ。
(またやってる)
同じだ。
だが違う。
(あの人は、ずっと机にいた)
ふと言葉になる。
負けた日も。
勝った日も。
その前も。
その後も。
ずっと。
兄の背中には、何も見えない。
けれど時々、机に向かう兄の周りだけ、部屋が少し静かすぎる気がした。
音はしている。
カリ、カリ。
ペンの音は確かに聞こえる。
なのに、その周りだけ、空気が深く沈んでいるような時がある。
心太には、それが何なのか分からない。
ただ、兄が机に向かっている時だけ、部屋の奥にもう一つ別の場所があるように感じることがあった。
自分はまだ、そこにいない。
剣道を始めたばかりで、勉強もこれからだ。
(次は、自分か)
少しだけ思う。
廊下を歩く。
兄の部屋の前で足を止める。
ドアは少しだけ開いている。
中から光が漏れている。
カリ、カリ。
ペンの音。
(同じだな)
少しだけ安心する。
兄は変わっていなかった。
負けた日も。
勝った日も。
結局、机に向かっている。
それが兄だった。
心太は自分の部屋へ戻る。
机に座る。
ノートを開く。
白いページ。
まだ何も書かれていない。
ペンを持つ。
少しだけ考える。
そして、一行だけ書いた。
――剣道
その文字を見つめる。
兄には兄の戦場があった。
なら。
自分にもある。
廊下の向こうから、またペンの音が聞こえる。
カリ、カリ。
心太は小さく笑った。
「負けないからな」
誰に言ったのか、自分でも分からない。
返事はない。
だが、それでいい。
ペンを動かす。
まだ小さな音。
けれど。
確かに始まっていた。
――スピンオフ①「見ていた背中」・完――




