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偏差値は戦である  作者: 受験孔明
第三部 決戦と開幕〜高校受験編
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第三部 第7話 基準の外

# 第三部 第7話「基準の外」


 会場に着いた瞬間、空気が違うと分かった。


 関西の最難関。


 名前だけは、何度も聞いていた。


 塾の資料。


 模試の志望校欄。


 全国順位表。


 上位者の横に、何度も並んでいた学校名。


 そこに、今日は自分が来ている。


 駅から会場までの道には、すでに人の流れができていた。


 人は多い。


 だが、不思議なほど静かだった。


 誰も騒がない。


 誰も浮ついていない。


 誰も過剰に緊張していない。


 全員が、当たり前のようにここへ来ている。


 親と並んで歩く者。


 一人で歩く者。


 参考書を開いたまま歩く者。


 手ぶらに近い者。


 制服も、塾のバッグも、話す言葉も少しずつ違う。


 だが、そこに漂う空気だけは同じだった。


 ここを受けることが特別ではない者たち。


 ここを戦場として普通に見ている者たち。


(違うな)


 悠真はそう思った。


 一段。


 いや、二段ほど上の層。


 九州の上位層とも違う。


 県外の名門とも違う。


 ここには、最初から全国を基準にしている者たちがいる。


 校門の前。


 見慣れた顔が揃っていた。


 藤堂優駿。


 黒田。


 三好。


 佐伯。


 少し遅れて、高橋蓮も来た。


「来たか」


 優駿が言った。


「ああ」


 悠真は短く返した。


 それだけだった。


 余計な言葉はない。


 誰も「頑張ろう」とは言わない。


 誰も「受かるかな」とは言わない。


 ここまで来て、そんな言葉に意味はない。


(ここが山だな)


 誰も口にはしない。


 だが全員、分かっていた。


 今日の試験は、これまでの延長ではない。


 ここで、自分の基準が試される。


 どれくらい取れるかではない。


 どれくらい通用しないかも、見えてしまう。


 校門をくぐる。


 古い建物。


 整った敷地。


 静かな案内。


 受験生の流れ。


 すべてが淡々としている。


 だが、その淡々とした空気の中に、重さがあった。


 歴史の重さではない。


 実績の重さでもない。


 今ここに集まっている受験生たちの密度だった。


 悠真は一瞬だけ、周囲の背後に何かが重なって見えた気がした。


 大きな影。


 鋭い輪郭。


 旗ではない。


 武器でもない。


 だが、それぞれの背後に、何かがある。


 見えたわけではない。


 ただ、空気が厚くなったように感じただけだ。


 悠真は瞬きをした。


 何もない。


 受験生たちが歩いているだけだった。


(考えるな)


 今はそれでいい。


 見るべきは問題。


 時間。


 得点。


 それだけだった。


 教室へ入る。


 席に座る。


 周囲を見渡す。


(できるやつしかいない)


 根拠はない。


 だが分かる。


 空気で。


 視線で。


 机に置かれた参考書で。


 筆記用具の置き方で。


 開始前の沈黙で。


 前の席の生徒は、目を閉じていた。


 右隣の生徒は、時計の位置を一ミリ単位で調整している。


 斜め前の生徒は、試験監督が入ってきた瞬間に参考書を閉じた。


 慌てていない。


 準備が終わっている。


 悠真は深呼吸した。


 机の上を整える。


 受験票。


 時計。


 鉛筆。


 消しゴム。


 いつもの配置。


 自分の型。


 崩さない。


 問題用紙が配られる。


 開始。


 国語。


 ページをめくる。


(……長い)


 一枚。


 二枚。


 三枚。


 まだ続く。


 文章の量が違う。


 ただ長いだけではない。


 一文ごとの密度が高い。


 簡単に流せない。


 読み飛ばせない。


 だが、止まってもいられない。


(終わらないな)


 設問へ移る。


 記述。


 百二十字。


 百五十字。


 さらに記述。


 選択肢も甘くない。


 本文の表面を拾っただけでは切れない。


 言い換え。


 対比。


 論理の流れ。


 筆者の立場。


 全部を短時間で拾わなければならない。


(重い)


 文章を読む。


 要点を拾う。


 設問に戻る。


 本文に戻る。


 書く。


 削る。


 また書く。


 だが時間が足りない。


 整理しきれない。


(詰めきれない)


 次へ進む。


 完璧を捨てる。


 部分点を拾う。


 最後まで行く。


 国語が終わった時、すでに体の奥が重かった。


 だが、まだ始まったばかりだった。


 英語。


 長文。


(まだあるのか)


 段落が続く。


 問いも多い。


 語彙も、文法も、内容把握も、すべてを同時に要求してくる。


 読ませる量そのものが違う。


 九州の試験とも違う。


 公立の英語とも違う。


 これは、ただ英語が読めるかではない。


 処理できるか。


 耐えられるか。


 崩れずに進めるか。


(時間、足りるか)


 速度を上げる。


 だが、雑に読めば設問で詰まる。


 丁寧に読めば時間が消える。


 焦るな。


 飛ばすな。


 だが、止まるな。


 その矛盾の中で、ペンを動かす。


 残り時間を見る。


 浅い見直ししかできない。


 それでも、進むしかない。


 数学。


 ページを開く。


 手が止まった。


(……は?)


 問一。


 見慣れた処理ではなかった。


 条件の置き方が違う。


 誘導が親切ではない。


 公式を当てはめれば解ける問題ではない。


 発想そのものを要求されている。


(どう切る)


 一瞬、思考が広がった。


 図を描くか。


 式で押すか。


 場合分けか。


 逆から見るか。


 どの道も見える。


 だが、どの道も時間がかかる。


(止まるな)


 内側で声が落ちた。


 全部は取りに行かない。


 切る。


 捨てる。


 取れる場所を拾う。


 満点の答案ではなく、合格する答案を作る。


(通るか)


 確信はない。


 それでも前へ進む。


 問二。


 さらに重い。


 見たことがあるようで、ない。


 処理ではなく、選択を迫られる。


(どれだ)


 時間だけが削られる。


(切れ)


 判断を速くする。


 部分点を拾う。


 次へ。


 拾う。


 拾う。


 拾う。


 最後まで走る。


 見直し。


 だが時間が足りない。


 チェックが浅い。


 符号を見る。


 条件を見る。


 最後の答えを見る。


 その時点で、終了の声がかかった。


 ペンを置く。


 試験終了。


 教室の空気が緩んだ。


 だが、誰も大きな声を出さなかった。


 椅子の音。


 答案回収の音。


 小さなため息。


 それだけだった。


 外へ出る。


 静けさがほどける。


 廊下には受験生が流れている。


 だが、やはり誰も大声では話さない。


 黒田が先に口を開いた。


「どうだった」


 悠真は少し間を置いた。


「……微妙」


「だな」


 三好が頷いた。


 佐伯が苦笑する。


「国語、終わらん」


「英語もな」


 黒田が返す。


「数学、問一から重いのやめてほしいわ」


 蓮が力なく笑った。


 優駿が短く言った。


「重い」


 全員が頷いた。


 優駿が「重い」と言った。


 その事実だけで、今日の試験の異質さが分かった。


(同じか)


 いつもの試験とは違う。


 誰も余裕がない。


 誰も完全には取れていない。


 それでも、この中の誰かは取っている。


 全国の最上位は、ここでも答案を作ってくる。


 その事実が重かった。


 帰り道。


 並んで歩く。


 だが会話は少ない。


「次どうする」


 黒田が聞いた。


「削るしかないな」


 三好が答える。


「読む量、上げる」


 佐伯が言った。


「俺は英語」


 蓮が小さく言う。


 優駿は少し黙ってから言った。


「基準を変える」


 悠真は優駿を見た。


 優駿は前を向いたままだった。


「今日のは、対策だけじゃ足りない」


 その通りだった。


 学校ごとの傾向。


 過去問。


 時間配分。


 もちろん必要だ。


 だが、それ以前に、求められている基準そのものが違う。


 読む速度。


 考える密度。


 捨てる判断。


 部分点の作り方。


 そして、最後まで崩れない体力。


 駅で別れる。


「またな」


「おう」


 振り返らない。


 それぞれ別の方向へ消えていく。


 家。


 机。


 ノートを開く。


 書く。


 四戦目:関西の最難関


 評価:不明


 内容:読解不足


 選択遅れ


 処理速度不足


 部分点意識


 基準不足


 ペンが止まった。


(崩れたか)


 完全に崩れたわけではない。


 逃げたわけでもない。


 最後まで走った。


 取れる場所は拾った。


 だが、今までとは違う。


(足りない)


 はっきり分かる。


 技術ではない。


 基準だ。


 求められている処理量が違う。


 読解の深さが違う。


 数学の入り口が違う。


 選択の速さが違う。


 自分の「普通」が、ここでは普通ではない。


 それが分かった。


 スマホが震えた。


 優駿からだった。


『どうだ』


 悠真は打つ。


『微妙』


 既読。


 すぐ返ってくる。


『同じ』


 それだけ。


 少しして、もう一つ来た。


『基準不足』


 悠真は画面を見た。


 同じ言葉だった。


 やはり優駿も、そこを見ている。


 悠真は返した。


『作り直すしかない』


 既読。


『だな』


 会話はそこで終わった。


 悠真はノートの端に書き足す。


 未確定


 そして、その下。


 基準不足


 文字を見つめる。


(まだ足りない)


 悔しさはある。


 重い。


 苦い。


 自分が思っていたより届いていないことを突き付けられた。


 だが、不思議と折れてはいなかった。


 むしろ、少しだけ興奮していた。


 こんな問題があるのか。


 こんな連中がいるのか。


 こんな戦場があるのか。


 初めて知った。


 全国統一難関模試で見た名前。


 順位表の上にいた知らない強者たち。


 あの紙面の向こう側が、今日、少しだけ現実になった。


 会場には、確かにいた。


 自分より速く読む者。


 自分より深く切る者。


 自分より迷わず捨てる者。


 自分より高い基準で、当然のように戦う者。


 強敵。


 その言葉が、ようやく実感を持った。


 机の上の問題冊子に手を伸ばす。


 開いたページには、国語の長い文章がある。


 黒い文字がぎっしりと並んでいる。


 その文字の上に、一瞬だけ影が落ちた。


 人影ではない。


 紙の影でもない。


 大きなものが、こちらを見下ろすような気配。


 それは今までの影よりも濃かった。


 順位表の上。


 問題冊子の上。


 受験票の上。


 何度も見た影。


 だが、今日の影は違う。


 薄くない。


 遠くない。


 まるで、強い存在が紙面の奥からこちらを覗き込んでいるようだった。


 悠真は息を止めた。


 瞬きをする。


 影は消えた。


 ただの問題冊子だった。


「……何なんだよ」


 小さく呟いた。


 疲れ。


 緊張。


 睡眠不足。


 そう説明できる。


 だが、今日のそれは、少し違った。


 見えた気がする、ではなかった。


 見られた気がした。


 その直後。


 内側で声が落ちた。


(強敵とは、己の基準を壊すものだ)


 静かな声。


 耳ではない。


 記憶でもない。


 だが、確かにそこにある。


 悠真はゆっくり息を吐いた。


「……なら」


 ペンを握る。


「作り直す」


 返事はない。


 だが、否定もない。


 問題集を開く。


 今までのやり方では届かない。


 ならば変える。


 基準を上げる。


 読む量を上げる。


 切る速度を上げる。


 部分点を作る意識を上げる。


 戦い方を上げる。


 自分自身を上げる。


 その時、ドアの向こうで心太の足音が止まった。


「兄ちゃん」


「なに」


「今日、変」


 悠真はペンを止めた。


「何が」


「部屋が」


「またそれか」


「うん」


 心太は少し間を置いた。


「今日は、兄ちゃんの後ろじゃない」


「じゃあ何」


「机の上」


 悠真は問題冊子を見た。


 何もない。


 文字が並んでいるだけだった。


「机の上に、なんかいる感じ」


 悠真は黙った。


「見えてるのか?」


「見えてはない」


「じゃあ気のせいだ」


「うん。たぶん」


 心太はそう言った。


 だが、今回はすぐに続けた。


「でも、今日は強い」


 悠真は息を止めた。


「何が」


「分からん。でも、強い感じがする」


 部屋は静かだった。


 問題冊子。


 ノート。


 ペン。


 基準不足。


 未確定。


 何も動いていない。


 何も見えない。


 だが、胸の奥だけが熱かった。


「寝ろ」


 悠真は短く言った。


「うん」


 足音が遠ざかる。


 部屋はまた静かになった。


 悠真は問題冊子に視線を戻した。


 強敵とは。


 倒す相手ではなく。


 自分を変える相手なのかもしれなかった。


 悠真はペンを走らせる。


 次の一行を読む。


 次の条件を拾う。


 次の問題へ進む。


 基準の外に触れた夜。


 悠真の戦い方は、少しだけ形を変え始めていた。


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