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偏差値は戦である  作者: 受験孔明
第三部 決戦と開幕〜高校受験編
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36/50

第三部 第4話「精度戦」

# 第三部 第4話「精度戦」


 会場に入った瞬間、空気が違うと分かった。


 九州の伝統校。


 歴史のある校舎。


 磨かれた廊下。


 静かな教室。


 前回の会場とは少し違っていた。


 張り詰めている。


 だが、騒がしくない。


 誰も焦っていない。


 誰も完全に落ち着いているわけでもない。


 ただ、静かだった。


 その静けさが、逆に重い。


(ここは落とせない)


 悠真はそう思った。


 ここは挑戦校ではない。


 夢を見る場所でもない。


 記念受験でもない。


 取るべき場所だった。


 だからこそ難しい。


 勝てるかもしれない試験より、勝たなければならない試験の方が重い。


 ミスをしても仕方ない、とは言えない。


 難しかった、で終われない。


 取るべき問題を取り、落としてはいけない問題を落とさない。


 それだけの戦い。


 だが、それが一番怖い。


 悠真は席に座った。


 受験票を置く。


 筆箱を開く。


 時計を机の左上に置く。


 消しゴムの位置を決める。


 鉛筆の向きを揃える。


 机の上に余計なものは置かない。


 いつもと同じ配置。


 同じ手順。


 同じ呼吸。


 周囲を見る。


 知らない顔ばかりだった。


 だが、雰囲気で分かる。


 できる。


 おそらく全員が。


 少なくとも、この会場にいる人間の大半は、それぞれの学校で上位層だったはずだ。


 模試でも上にいた。


 塾でも前にいた。


 親にも教師にも期待されている。


 そして今も、勝ち続けている。


(取りに来てるな)


 悠真は小さく息を吐いた。


 自分も同じだった。


 全員が、この学校を取りに来ている。


 挑みに来たのではない。


 崩れないために来ている。


 教室の後ろで、椅子が小さく鳴った。


 前の席の生徒が、受験票を何度も確認している。


 斜め前の生徒は、目を閉じている。


 隣の生徒は、机の上の鉛筆を一本ずつ並べ直していた。


 それぞれの緊張。


 それぞれの型。


 それぞれの精度。


 試験監督が入ってきた。


 説明が始まる。


 注意事項。


 受験番号。


 解答用紙。


 問題冊子。


 時計の秒針。


 静寂。


 問題用紙が配られる。


 悠真は表紙に手を置いた。


 紙の感触が冷たい。


 開始前の数十秒。


 教室全体が、息を止めているようだった。


「始めてください」


 ページをめくる。


(取る)


 一問目。


 即処理。


 条件は単純。


 迷わない。


 二問目。


 計算を丁寧に置く。


 速さより正確さ。


 三問目。


 条件確認。


 誘導に乗る。


 問題ない。


(通る)


 手は止まらない。


 リズムも悪くない。


 だが、飛ばしすぎない。


 今日の勝負は速さではない。


 ズレないこと。


 落とさないこと。


 取るべき問題を、当然のように取ること。


 そのために来ている。


 四問目。


 一見すると簡単だった。


 だが、悠真は手を止めた。


(危ないな)


 こういう問題ほど怖い。


 難問なら、落としても差はつきにくい。


 だが、全員が取る問題を落とすと、そこで終わる。


 簡単に見える問題ほど、条件の一語で罠がある。


 悠真は問題文をもう一度読んだ。


 数値。


 単位。


 範囲。


 「以上」か「より大きい」か。


 「少なくとも」か「ちょうど」か。


 式を立てる前に、条件を固定する。


(落とすな)


 進む。


(通る)


 五問目。


 六問目。


 大問へ入る。


 時間は悪くない。


 だが余裕があるわけではない。


 今日の問題は、派手ではない。


 難問で殴ってくる感じではない。


 少しずつ削ってくる。


 読ませる。


 確認させる。


 計算させる。


 そして、途中で一つでも雑になると、最後の答えがずれる。


(精度戦)


 その言葉が浮かんだ。


 勝負の種類が違う。


 一問を取りに行く戦いではない。


 一問を落とさない戦い。


 中盤。


 一箇所だけ違和感が走った。


(……)


 計算。


 ほんの小さな引っかかり。


 数字の並び。


 途中式。


 どこかが気になる。


 大きなミスではない。


 だが、見過ごすには少しだけ気持ち悪い。


(合ってるか?)


 一瞬だけ迷う。


 戻るか。


 進むか。


 ここで戻れば安心できる。


 だが、流れは切れる。


 ここで進めば時間は守れる。


 だが、もし間違っていれば後で響く。


(どっちだ)


 迷いが広がりかけた。


 その時だった。


(止まるな)


 内側で言葉が落ちた。


 鋭くはない。


 だが、冷たい。


 命令に近かった。


 悠真は進んだ。


 次へ。


 今は流れを切らない。


 戻る場所だけ、問題用紙の端に小さく印をつける。


 後で確認する。


 今は止まらない。


(通る)


 終盤へ入る。


 最後まで解き切る。


 残り時間を確認する。


 見直し固定。


 符号。


 条件。


 桁。


 単位。


 設問の聞き方。


 そして。


 さっきの計算へ戻る。


(……)


 確認。


 途中式。


 代入。


 再計算。


 問題なし。


(よし)


 小さく息を吐いた。


 戻る場所を間違えなかった。


 流れも切らなかった。


 確認もできた。


 完璧ではない。


 だが、崩れていない。


 試験終了。


 ペンを置く。


 教室の空気が緩んだ。


 だが、前回ほどではなかった。


 誰も大きく話さない。


 誰も椅子から勢いよく立たない。


 答案が回収されるまで、静かなままだった。


 重い。


 悠真はそう思った。


 挑戦校ではない。


 だからこそ重い。


 落とせない試験。


 取らなければならない試験。


 全員がそう思っている。


 その圧力が、教室に残っていた。


 休み時間。


 廊下に出ても、空気はあまり変わらなかった。


「どうだった」


 佐伯が先に出てきていた。


「普通」


 悠真は答えた。


「だな」


 佐伯も短く返す。


 そこへ黒田が合流した。


「こういうの嫌いだわ」


 苦笑いだった。


「分かる」


 悠真も頷いた。


「ミスできねぇやつな」


「それ」


 三人とも少しだけ笑った。


 挑戦校なら、難問で削られても仕方ないと思える。


 だが今日は違う。


 一問。


 たった一問。


 それが命取りになる。


 蓮が少し遅れて出てきた。


「いや、静かすぎん?」


「会場が?」


「受験生が」


 蓮は周囲を見た。


「なんか、みんな終わったあとも騒がんやん。逆に怖いわ」


「取るために来てるからだろ」


 悠真が言うと、蓮は少し黙った。


「それな」


 短く返す。


 そこに優駿も来た。


 表情はいつも通りだった。


「どうだった」


 黒田が聞く。


「普通」


 優駿は答えた。


 全員が少し笑った。


 結局、同じ言葉になる。


 普通。


 分からない。


 評価保留。


 だが、その普通の中身はそれぞれ違う。


 悠真の普通は、精度の確認。


 黒田の普通は、ミスの不安。


 佐伯の普通は、静かな手応え。


 蓮の普通は、騒げない重さ。


 優駿の普通は、おそらくもっと高い基準での普通。


 同じ言葉でも、同じ意味ではない。


 次の科目。


 また教室へ戻る。


 また机に座る。


 また問題用紙が配られる。


 試験は淡々と続いた。


 派手な崩れはない。


 大きな失敗もない。


 だが、ずっと削られる。


 集中。


 確認。


 判断。


 精度。


 最後の科目が終わった頃には、体の奥が重くなっていた。


 外へ出る。


 校舎の前。


 冬の空気が冷たい。


 朝より少し風が出ていた。


 受験生たちが、それぞれの方向へ散っていく。


 親と合流する者。


 一人で駅へ向かう者。


 友人と小さく話す者。


 大きな歓声はない。


 静かな撤収だった。


「次、塾で」


 佐伯が言った。


「おう」


 黒田が返す。


 優駿は軽く手を上げた。


 蓮は「寝たい」とだけ言った。


 悠真は少し笑って、駅へ向かった。


 帰り道。


 一人で歩く。


 冬の空気が冷たい。


 試験は終わった。


 だが、頭の中ではまだ続いている。


(あの一瞬)


 計算で止まりかけた場面。


 戻るか。


 進むか。


 迷った瞬間。


(ああいうのか)


 今なら分かる。


 本当に怖いのは、難問だけではない。


 小さなズレだ。


 見落とし。


 条件ミス。


 計算ミス。


 設問の読み違い。


 符号。


 単位。


 そういうものが、結果を変える。


 力が足りなくて落ちるなら、まだ分かる。


 だが、取れる問題を落として負けるのは違う。


 それは実力不足ではなく、精度不足だ。


 家に帰る。


 部屋へ入る。


 机に座る。


 ノートを開く。


 白紙のページ。


 ペンを走らせる。


 三戦目:九州の伝統校


 評価:良


 勝負:精度戦


 違和感:計算の一瞬


 崩れ:なし


 修正:戻る場所を固定する


 短く書く。


 ペンが止まる。


(崩れてはいない)


 それは分かる。


 だが。


(完璧でもない)


 その感覚も残る。


 椅子にもたれかかる。


 天井を見る。


(削る戦い)


 そう思った。


 一問を取る戦いではない。


 一問を落とさない戦い。


 派手な勝ち方ではない。


 だが、難関校の受験では、こういう戦いの方が多い。


 勝負は、見えないところで決まる。


 大問の最後ではなく、途中式の一行。


 難問のひらめきではなく、条件確認の一秒。


 才能ではなく、精度。


 スマホが震えた。


 優駿だった。


『どうだ』


 短い。


 悠真は返す。


『普通』


 すぐに既読が付く。


『そっちは?』


『同じ』


 それだけ。


 だが十分だった。


 少しして、もう一つ来た。


『落とさない試験だったな』


 悠真は画面を見た。


 やはり、優駿も同じところを見ていた。


 悠真は返す。


『精度戦』


 既読。


 すぐに返信。


『だな』


 会話はそこで終わった。


 悠真はノートに書き足す。


 未確定


 その文字を見つめる。


(まだ一つも取っていない)


 当然だ。


 結果は出ていない。


 合格も。


 不合格も。


 まだ存在しない。


 手応えはある。


 悪くない感覚もある。


 だが、それは結果ではない。


 だから前に進むしかない。


 ふと。


 机の上の問題集が、かすかに閉じかけた。


 風はない。


 手も触れていない。


 ページの端が、ゆっくりと持ち上がる。


 悠真は目を向けた。


 開いていたのは、計算問題のページだった。


 数字が並んでいる。


 式が並んでいる。


 その上に、薄い影が落ちていた。


 人影ではない。


 文字の影でもない。


 細い線が、数字と数字の間を縫うように動いた気がした。


 まるで、盤面の上を一本の駒が進むように。


 悠真は瞬きをした。


 影は消えていた。


 ただのページだった。


「……またか」


 小さく呟いた。


 疲れ。


 緊張。


 睡眠不足。


 そう説明すれば済む。


 実際、そうなのかもしれない。


 だが、最近のそれは、ただの錯覚にしては、少しだけ規則性があった。


 順位表。


 問題冊子。


 受験票。


 そして、問題集。


 いつも紙の上に現れる。


 数字の上。


 問題の上。


 結果の上。


 まるで、何かが紙面を通してこちらを見ているようだった。


 悠真は首を振った。


 考えるな。


 今は余計なものを見るな。


 見るべきは、次の一問だ。


 その時。


 内側で言葉が落ちた。


(精は、乱を制す)


 静かな声。


 耳ではない。


 記憶でもない。


 だが、確かにそこにある。


 悠真は少しだけ笑った。


「……今回は、それか」


 返事はない。


 だが嫌いではなかった。


 精は、乱を制す。


 今日の試験には、合っている。


 騒がない。


 焦らない。


 雑にならない。


 精度で、乱れを抑える。


 悠真はペンを持った。


 問題集を開く。


(次)


 やることは同じだ。


 静かに積み上げる。


 結果が出る、その日まで。


 その時、ドアの向こうで足音が止まった。


 軽い足音。


 心太だった。


「兄ちゃん」


「なに」


「また?」


 悠真は眉をひそめた。


「何が」


「紙、動いた?」


 悠真は動きを止めた。


「見てたのか?」


「見てない」


「じゃあ何で」


 少し間があった。


「音がした」


「音?」


「紙がこすれる音。あと、なんか、誰かが小さい声で言った感じ」


 悠真は黙った。


 部屋は静かだった。


 問題集は机の上にある。


 ページはもう動いていない。


 影もない。


「気のせいだろ」


 悠真は言った。


「うん」


 心太は素直に頷いた。


 だが、声は少しだけ低かった。


「でもさ、兄ちゃん」


「何」


「最近、紙の方が兄ちゃん見てるみたい」


 意味の分からない言葉だった。


 普通なら笑って流す。


 だが、悠真は笑えなかった。


 順位表。


 問題冊子。


 受験票。


 問題集。


 紙の上に落ちる影。


 内側に落ちる声。


 何も分からない。


 何も見えていない。


 だが、何かが残っている。


「寝ろ」


 悠真は短く言った。


「うん」


 心太の足音が遠ざかる。


 部屋はまた静かになった。


 悠真は机に向き直る。


 ノート。


 問題集。


 ペン。


 三戦目。


 精度戦。


 未確定。


 何も決まっていない。


 だから、積むしかない。


 悠真は一問目に目を落とした。


 静かに式を書き始める。


 結果が出る、その日まで。


 戦いは、紙の上で続いていた。


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