第二部 エピローグ「静かな戦場」
第二部 エピローグ 静かな戦場
冬の朝は、音が少ない。
まだ暗い部屋。
カーテンの隙間から、わずかに光が差し込んでいる。
時計の針が進む音だけが、はっきりと聞こえた。
森岡悠真は、すでに机に向かっていた。
ノートは開かれている。
問題集も一冊だけ。
余計なものは置いていない。
ここが主戦場。
そう決めた場所だった。
ペンを持つ。
迷いはない。
一問目。
流す。
二問目。
枝を切る。
三問目。
罠を先に潰す。
見直す。
(通る)
呼吸が一定になる。
(再現)
ただ、それだけを繰り返す。
特別なことはしていない。
だが、前とは違う。
やるべきことが明確で。
やらないことも決まっている。
それだけで、景色は変わる。
学校へ向かう道。
吐く息が白い。
周りの会話は変わらない。
部活の話。
テストの話。
どうでもいい話。
その中に、自分もいる。
笑う。
話す。
適当に相づちを打つ。
だが、同じではない。
(戦ってるな)
ふと、そう思った。
誰かと話していても。
笑っていても。
内側では、ずっと何かが動いている。
授業。
必要なところだけを取る。
発言は狙う。
提出物は最短で整える。
やりすぎない。
線を守る。
学校は捨てない。
だが、飲み込まれない。
放課後。
部活。
全力でやる。
走る。
声を出す。
ボールを追う。
終わりは引きずらない。
切り替える。
塾。
席に座ると、空気が変わる。
問題を開く。
ペンが走る。
止まらない。
周りも同じだ。
優駿がいる。
黒田がいる。
三好がいる。
佐伯もいる。
それぞれのやり方で。
それぞれの強さで。
同じ場所を目指している。
(揃ってるな)
そう思う。
戦場は、もうはっきりしていた。
掲示板。
名前が並ぶ。
順位が出る。
悠真の名前は、確実に上がっていた。
少しずつ。
だが確実に。
(近い)
そう感じる距離になってきている。
だが。
(まだだな)
それも同時に分かる。
優駿は変わらず上にいる。
黒田は安定している。
三好は止まらない。
佐伯は速い。
誰も止まっていない。
(当然だな)
自分だけが上がることはない。
全員が動いている。
だからこそ意味がある。
夜。
机に向かう。
ノートを開く。
宣言。
そう書かれたページ。
勝ち条件。
戦い方。
配分。
原則。
すべて書いてある。
私立難関合格。
主戦場は英修館。
保険は内申。
学校は最短で取る。
部活は切らない。
選択で勝つ。
配置で勝つ。
再現する。
(ぶれてないな)
悠真は指でその文字をなぞる。
そして、その下に新しく書いた。
継続
それだけだった。
特別な言葉はいらない。
やることは、もう決まっている。
そのとき。
ふと手が止まった。
(……あの時)
記憶がよぎる。
暗い場所。
無数の光。
そして、あの声。
戦よりも、複雑である。
小さく息を吐く。
(確かにな)
戦よりも単純ではない。
だが、同じでもある。
配置。
時間。
選択。
相手。
地形。
兵站。
すべてが絡み合う。
そして。
(動かすのは、自分だ)
はっきりとそう思った。
小学生の頃に聞こえていた声は、もう遠い。
誰の声だったのか。
本当に聞こえていたのか。
それすら、今でははっきりしない。
ただ、思考の形だけが残っている。
負け方を見ること。
盤面を見ること。
配置で勝つこと。
その残響だけが、頭の奥に薄く残っている。
ふと。
心の奥で言葉が落ちた。
(ようやく形になってきたか)
声ではない。
だが、確かにそこにある。
悠真はわずかに笑った。
「……遅いって言っただろ」
小さく呟く。
返事はない。
だが、否定もない。
それでいい。
机の上の問題集に視線を戻す。
ペンを持つ。
(やるか)
それだけだった。
特別な感情はない。
ただ、静かな意志だけがある。
外はまだ暗い。
だが、少しずつ明るくなっていく。
夜が終わり。
朝が来るように。
時間は進む。
止まらない。
戦いも同じだ。
もう迷いはない。
ただ、積み上げるだけ。
悠真は問題に向き合う。
静かな戦場の中で。
そのとき。
机の端に置かれた一枚の紙が視界に入った。
塾から配られた案内。
全国統一難関模試。
何気なく置いたままになっている。
悠真は一瞬だけ視線を向けた。
そして、すぐに問題集へ戻る。
まだ先の話だ。
今は、やるべきことをやるだけ。
だが。
その模試の先に。
灘を目指す怪物がいることを。
開成を当然のように狙う天才がいることを。
筑波大附属駒場を視野に入れている異常な中学生がいることを。
ラ・サールや附設で、九州から全国を見ている者たちがいることを。
青雲や早稲田佐賀や弘学館で、静かに牙を研いでいる者たちがいることを。
そして。
自分がまだ見たことのない戦場が、全国に広がっていることを。
悠真は、まだ知らない。
冬の朝は静かだった。
だが、その静けさの向こうで。
次の戦いは、すでに始まっていた。
――第二部・完――




