さらにその後のエピローグ
「ほんとトロくせえな!さき行くぞ!」
まだ幼さの残る舌足らずな声でそう言って、三歳の息子――ヒオウが繋いだ手を振り払った。
小さな背中が、あっという間に小さくなっていく。
「ヒオウ!」と呼ぶナナミーの声は、もう届いていないようだ。
振り返りもせずに、ヒオウは駆けていく。
『もし、ヒオウのヤツがどっか行っても、追いかけんじゃねえぞ。急いで転ぶと危ねえからな』
ヒヨクは口癖のようにそう言っているが、ヒオウはまだ三歳だ。いくら最強種族のアザ持ちの子といえ、一人にさせるわけにはいかない。
レオードからも、『ヒオウは、ヒヨクがガキんときよりも手に負えねえクソガキだからな。放っておいて大丈夫だよ、ナナミーちゃん』と言われているが、安心できるわけがない。
タッ……タッ……とナナミーも、必死にヒオウの後を追いかけた。
「ヒオウ、テメェ……ナナミーはどうした?オレが付いててやれねえ時は、ナナミーの側離れんなよって、どんだけ言ったら分かるんだ?」
「うるせえな!アイツ、カメ族の女にちょっと挨拶するだけで、いちいち遅えんだよ!離せクソ親父!」
「ああ?テメェ、誰のこと言ってやがる。『ナナミーお母さん』だろ?何度言ったら分かんだ?」
廊下の角を曲がった先から聞こえてきた声に、ナナミーはホッと息をついた。
どうやらヒオウはヒヨクが捕まえてくれたようだ。
安心した途端、どっと疲れが押し寄せる。
大きく息を切らしながら、その場に立ち止まった。
――子育ては毎日がサバイバルだ。
今日ナナミーは、元職場に連れてきてもらっていた。
カリナに結婚祝いを届けるためだ。
カリナは、上司だったアルッチと近く結婚式を挙げることが決まったらしい。
本当は式にも出席したい。
だが、儀礼の場には、暗黙の種族間の距離感というものがある。
弱い種族のアルパカ族とカメ族の結婚式に、最強種族のヒョウ族の関係者が出席すれば、お祝いどころの雰囲気ではなくなってしまう。
――ナマケモノ族のナナミーには、それが痛いほど理解することができる。
だから今日は、事前に祝いの品だけを届けに来た。
違う部署だったが、アルッチにも世話になった。
おやつをもらったこともある。
二人の門出を祝いながら、少しおしゃべりをしていたところだった。
レオードの会社を引き継いだヒヨクもまた、ここは元職場となる。
今は元部下たちに挨拶をするため、席を外していた。
「……ナナミーお母さん」
「次からちゃんとそう呼べよ」
「ヒ……ヨク!」
ナナミーを呼ぶヒオウの声が苦しそうで、ナナミーは急いでヒヨクを呼んだ。息がまだ落ち着かず、声が乱れる。
けれどちゃんと声は届いたようだ。
名を呼んだ瞬間、ヒヨクが廊下の角から姿を現した。
その片手には、襟元を掴まれたヒオウがぶら下がっていた。
「ヒヨク!ヒオウを離してあげて。可哀想なことしないで」
ナナミーの言葉にヒヨクが手を離した瞬間、ヒオウがわあああん、と泣きながらナナミーに抱き付いた。
「わあ」と声を上げる間もなく、ナナミーは反動でヒオウとそのまま倒れそうになる。
ヒヨクが素早くナナミーを支えてくれたが、「ヒオウ、ナナミーを押すんじゃねえっつってんだろ」と叱る低い声に、ヒオウの泣き声がさらに激しくなった。
ナナミーはヒヨクに支えられながら、ナデ……ナデ……とヒオウの頭を撫でる。
ヒヨクは三歳の息子にも容赦がなさすぎるのだ。
「ヒヨク様のお子さん、さすが元気いいっすね」
「うわ、めっちゃヒヨク様にそっくりじゃねえっすか」
「おう!いっちょ前に睨んでやがんぜ!」
その時、ゾロゾロと廊下の角から続いた元同僚たちが、ナナミーの腕の中で泣くヒオウを覗き込んだ。
「ナナミー、久しぶりだな」
「相変わらず弱そうじゃねえか」
「お前、こんな赤ん坊も受けれねえのか?」
元同僚たちが相変わらず、弱小種族のナナミーをディスってくる。
「うるせえなゴリラ!黙れよ!誰が赤ん坊だ!カバ野郎、テメェは目ぇ見えねえのか?弱え母さんを、弱えテメェらが言うな!」
まだ舌足らずな声なのに、言っていることだけはヒヨクそっくりだった。
「ヒオウ……」
『ヒオウはまだ三歳だけど、ヒヨクの子だよ?敵うわけないじゃん』と同僚たちに言ってやろうとした言葉は、言葉になる前にヒオウの声にかき消された。
『母さんも、肉くらい食えよ』
『歩くの遅えよ。寝てんのか?』
三歳にしてすでに、父親譲りの乱暴な物言いをするヒオウだが、こういうときは必ず庇ってくれる。
ヒヨウは、ヒヨクに似た優しい息子だ。
だが――
その言葉はない。
ヒオウがいくらヒヨクの息子でも、強い種族の大人に目をつけられたら、ナナミーはヒオウを守ることができない。
「ヒオウ、みんなに謝りなさい」
――そう声をかけようとした、そのとき。
ベアゴーがヒオウの前でしゃがみ、小さな頭を撫でた。
「わ〜ほんとヒヨク様そっくりだね、ヒオウくんは賢いね〜。大きくなったら、きっとお父さんくらい強くなるね」
「ベアゴーおじさん、オレ親父なんかより強くなるし!」
二人のやり取りに、元同僚の男たちがどっと笑う。
なんとか危険は流れ去ったようだ。
「そろそろ帰んぞ」
ヒヨクにヒオウごと抱え上げられ、ナナミーはほっと息をついた。
「ベアゴーくん。奥さんのワニエルさんによろしくね」
ヒヨクの肩越しに、バイバイとナナミーは手を振った。
「ヒオウ、ちゃんとアイツらから母さんを守ってたな。やるじゃねえか」
屋敷までの帰り道。
ヒヨクに褒められたヒオウが、ナナミーの腕の中でコクリと頷く。
「大きくなって運命のつがいのアザが出たら、気になる女には優しくしろよ」
「親父もジジイらも、そればっかだな!」
続いたヒヨクの言葉に、ヒオウが口を尖らせた。
「ヒオウ。ジジイじゃなくて、『ヨウおじいちゃん』と『レオードおじいちゃん』でしょう?」
「ジジイはジジイだろ。みんな同じこと言いやがって、うるせえんだよ」
ナナミーが諭すと、ヒオウはプイッと顔を横に向けた。
確かにこんな幼い子に、運命のつがいの話は早すぎるのではないかとナナミーも思う。
けれどそれは、あまりにヒオウがヤンチャだからだ。
ヨウも遊びに行くたびに『ヒオウは、レオードのガキん頃よりも口悪りいな』と話している。
みんな、ヒオウの将来を心配しているのだ。
「オレの運命のつがいなんだから、向こうが勝手に名乗り出てくるに決まってんだろ!」
吐き捨てるように話すその声は、まだ舌足らずな子供の声だ。
だが――すでに鬼畜の片鱗をしっかりと見せていた。
次世代の鬼畜ヒオウの始まりを予感させつつの完結です。
鬼畜な旅の最後までのお付き合い、ありがとうございました!




